大学の時、授業で「忘れ物」の話をした教授がいたのを、留三郎はなまえと再び会ったあの夏、ふと思い出した。

学生時代、何でだったか哲学の授業を受けた。特別、哲学などというものに興味があったわけではない。なんとなく言葉の響きは格好いいし、その上課題レポートの字数も少なくて楽な授業だと有名だったから、というあまりにお粗末な理由だった気がする。
そんないい加減な心構えで受けた授業で、白髪の目立つ老いた教授は、留三郎が未だに忘れられない話をした。

「私は毎日電車で通勤しているのですが、この間、ドアにほど近い座席にですね、ビニール傘がぽつん、と置いてあるのを見たんです。
誰かの忘れ物ですね。
その日は急な大雨があったので、きっと誰かが、どこかで慌てて買ったのでしょう。
それで、きっとまだ手に馴染んでいない傘を忘れていってしまったんでしょうね。
傘を忘れていった誰かは、きっと諦めてしまったか、新しい傘を買ったかのどちらかでしょう。
普通のビニール傘でしたから。

そうなれば、忘れられていった傘は、その人の中で、どんな存在になるのでしょう。
新しい傘が手に入れば、必要に迫られて買った傘のことは、いつかすっかり忘れてしまうかもしれません。
私は思いました。
傘は、この世に存在し続けながら、けれど一度手にしてくれた人の記憶からは消え去ってしまう。
その人にとって、そのビニール傘は、この世に無かったことになる」

傘は確かにこの世に存在しているはずなのに、その人の目に映る世界からは、その傘の存在は綺麗に消えてしまうんですね。



背の低い店や家が整然と並ぶ田舎道では、日の光から逃れることは出来ない。夏に至り、日暮の時を迎えてもなお勢いを保っている太陽が、どこまでも続く黒々としたアスファルトを熱している。まるでそこに水が流れているかのように、地面がゆらゆらと揺れて見えた。これで本当に水の音でも聞こえていれば少しは涼しいのだろうが、そんなものは少しも聞こえてはこない。留三郎の耳に入ってくるのは、車通りが少ないのをいいことに軽快に飛ばしていく車のエンジン音と、茹だるような暑さに負けて、あーとかうーとか、犬みたいに唸る作兵衛の声だけだ。

「また夏が来ちゃいますね……」
「あっという間だなぁ」
「暑すぎて異常ですよー、まだ夏至なんですよ?」
「まぁな。ニュースどれ見ても異常だ異常だ言っちゃいるが、毎年聞いてる気がするよなぁ」

6月に入ってから、夏に向けて和太鼓の練習が本格化した。メンバーの年齢が、下は10歳から上は70代と、かなりの幅の広さなので、とにかく練習日を多くとり、集まれる人が集まって練習するという、言ってしまえばちょっと雑なやり方を、毎年続けている。
やはり日曜の午後は人の集まりがよく、今日は珍しくほぼ全員が集まった。その分、気合が入りすぎて、気づけば予定していた終了時間を少しばかり過ぎてしまっていた。そんなわけで、練習場として使っている市民会館を出ると、すでに日が傾き始めていたのだ。
それでもまだ明るく、太陽の光が獰猛なのは、もうすぐ夏が来るからだ。

留三郎がなまえに会った夏から、すでに一年が経とうとしている。

「なぁ、作兵衛」

呼びかければ、隣を歩く作兵衛の、まん丸い黒目がこちらを仰ぎ見る。

忘れ物の話をした。
電車に忘れ去られた傘の話。

この話を聞いたのは、窓際の席でも白いノートが薄暗く感じるような、梅雨寒の日のことだった。
一人暮らしのアパートで、安物のタンスの中の衣替えをしたばかりだったから、半袖のポロシャツの短い袖から伸びる二の腕のあたりに鳥肌が立った。
結局、その日の哲学の授業はまともに話を聞いていなかった気がする。
怖かったのだ、きっと。
自分の記憶の中には確かにあるはずのそれが、あまりに不確かで、触り心地も分からないそれが、忘れられていった傘の話と重なったような気がして。ちょうど、鬱屈とした梅雨空を見上げる子供のように、不安ばかりが煽られて。

彼女は覚えていたけれど、覚えていなかった。
彼女の中で、俺は忘れていった傘のような、あやふやな存在になっているのかもしれない。
なまえと再び顔を合わせたあの夏の夜、留三郎はそう思った。

「そんなの」
「ん?」
「そんなの、分からないじゃないですか」

一通り、忘れ物の話をし終えた留三郎の顔を真っ直ぐに見据えて、作兵衛はくしゃりと顔を歪めた。感情を喉の奥で押し殺したみたいな静かな声が、けれど少しだけ震えている。

「傘がまっさらに消えてしまう訳でもないし、傘の持ち主が取りに戻るかもしれない。忘れずにいてくれるかもしれないじゃないですか。
全部、その先生の想像に過ぎないじゃないですか。そんなの、みんながみんな、そうじゃない」

作兵衛は、頬を滴る汗も気にせずにきっぱりと言い切ったかと思うと、鼻から思い切り息を吐き出して、前を向く。「そんな話、気にすることないです」と吐き捨てるみたいに言う作兵衛の顔は、少しだけ怒っているように見えた。横顔を見ているせいか、あからさまに唇が尖っている。
この話をしたのは、ただ自分以外の誰かがこの話を聞いてどう思うのか、単純に知りたかっただけだった。
だというのに、どうだろうか。
今、作兵衛がこの話をザックリと両断してくれたことを、顔には出さずとも内心では喜んでいる。
結局、誰かに否定してもらうことで、救われたかっただけなのかもしれなかった。自分の胸の内で燻らせてばかりいては、自分は彼女のそばに近づくことすら、スタートラインに立つことすら出来ないような、そんな気がしていた。
女々しいことだが、多分そういうことなのだ。

「あれ、なまえさん?」
「え」
「ほら」

ブロック塀の角を曲がったその先には、淡い水色の日傘をさした女の後ろ姿が確かにある。ほら、と作兵衛が指さすのを合図にでもしたみたいに、前を歩いていたなまえがくるりと振り返った。

「あれ、作兵衛くん、食満さん」

なんか声がすると思ったと笑いながら、なまえは駆け寄ってきた作兵衛の頭をぽんぽんと叩いた。なまえの、まるで子供を相手するような扱いにむくれる作兵衛に苦笑いしながら、留三郎も二人に歩み寄る。

「今日、練習の日だったんだね」
「はい、もう夏に向けて動き始めないと間に合わないので」
「そっか、もうそんな時期かぁ。あ、私これからおばあちゃんちに行くけど、作兵衛くんも一緒に行く?」
「え、あ」

作兵衛は、しばらく固まっていたかと思うと、急に大声を出した。

「俺そういえば親に買い物頼まれてたんでした!ちょっと行ってきますんで!!」
「えっ」
「お気になさらず!では!」

言葉の勢いそのままに駆け出そうとする作兵衛の腕を、なまえは慌ててひっ掴んだ。

「待って作兵衛くん、これ!」
「へ?」

急に腕を掴まれてぽかんとしている作兵衛の手に、なまえは肩にかけている鞄から取り出した、ネイビーブルーの折りたたみの傘を押しつけた。

「雨、降りそうだから。貸したげる」

自分たちの進行方向には雲がなかったので気づかなかったが、言われて振り返ってみれば、確かに、背後にはずいぶんと低く重たげな、灰色の雨雲が垂れ込めている。雲の境い目がはっきりと見えていて、頭上にはまだ、青の絵の具をべったり塗ったみたいな空が広がっている。しかし、生温い風に煽られた雨雲は確かな足取りでこちら目掛けてやってくる。
留三郎と作兵衛にしてみれば、気づかないうちに雨雲と追いかけっこをしていたようなものだ。

「えっと、でも、悪いですし……」
「大丈夫だよ。今さしてる傘ね、晴雨兼用だから。作兵衛くん、傘持ってないでしょ?」
「でも……」
「あ、それともこっちの今さしてる水色のがいい?縁にフリルついてるけど」
「……すみません、折りたたみのほう借ります」
「はい。あ、でもちゃんと返してね?お気に入りだから」
「はい……ありがとうございます!」

頭を深々と下げて、たった今来た道を猛ダッシュで戻っていく作兵衛の背中を見送る。

「あの折りたたみ傘」
「ん?」
「食満さんがくれた傘、いつも持ち歩いてるんです」
「ああ、気に入ったんなら良かった」
「嬉しかったので」

はにかむみたいに少し俯くなまえの顔に、夏の、濃い影が落ちる。
なまえの誕生日に留三郎から贈られた折りたたみ傘は、中央の薄い群青色から外側のネイビーブルーに向かってグラデーションがかかっている。竹製のハンドルが手によく馴染んでくるくらいには、頻繁に使っていた。いつも鞄に収まっているそれが、なまえには心強かったのだ。

「行くか、降り出す前に」
「そうですね、この辺りも少し陰り出しましたし、急ぎましょうか」
「あー、送ってくわ」
「え、でも……」
「どうせ近いし」

ほら、と歩きながら促せば、なまえは小走りでその隣に追いつく。

「明日から仕事で出張でな、新宿まで出なきゃならないんだ」
「新宿かぁ……私も久しく行ってないです」
「じゃあ土産買ってくるわ」
「わ、嬉しい。いいんですか?」
「ああ、だから、帰ってきたら会おう」

なまえが数回、瞬きを繰り返した。
何気ない会話の流れから、するりと出てきた自分の言葉に、留三郎本人すら驚いている。

帰ってきたら、少しずつでも近づけたらいい。ほんのちょっとずつでも、気持ちを伝えていけたらいい。
たとえ、何百年と抱え続けてきたかもしれないこの想いも、過去の自分すらも、彼女の中で忘れ去られた傘のようになったとしても。また、これから想いを重ねていければいい。
些細なことだ。またこうして会えたこと、そのものと向き合えば良かったのだ。

「何か食いに行くでもいいし、どっかに行くでもいい」

また、ここから始めよう。
そう強く思えているのは、きっと作兵衛のおかげだ。

「話がしたいんだ」

俺のことを知ってくれ。
お前のことを、もっと教えてくれ。
今まで出来る限り抑えてきたなまえへの想いを隠さずに、梅雨明けを迎えた空で輝く太陽みたいに笑って、心のうちを打ち明けた。
眩しそうにまばたきをしたなまえは、ちょっとだけ泣きそうな顔で、くしゃりと笑って「はい」とひと言、やっと絞り出した。

本当は、ずっと好きだったんだと、なまえは心の奥底に優しい温度の火が灯ったような心地で、そう思った。
私は、この人のことを小さい時から好きだった。
再会してから、いつだって一歩踏み出そうと思えば、もっと近づけたはずだった。それでも、自分の中であと一歩を踏み出させないようにする箍のようなものが、いつもそれを邪魔していた。
彼のそばにいていいのか。
彼は私に自分のことを話してくれるのか。
常に付き纏う不安は、なまえの心の中で目には見えないストッパーのようになっていた。恋愛というものは、こんなにも不安なものだっただろうかと一人問答を繰り返したりしながら、それでも今、留三郎が自分から一歩、距離を縮めてくれたことが嬉しかった。

ぽつん、という水の音がなまえの鼓膜を揺らした。
見上げると、傘が一滴の雫を受け止めていた。
その一滴を皮切りに、大粒の雨がコンクリートの色を濃くしていく。
なまえは、自分がさしている傘を留三郎にさしかけた。留三郎は、傘の下に身を収めるようにして腰をかがめる。

「降ってきちゃいましたね」
「だな……悪い、今日は傘持ってねぇんだ」
「入ってください、一緒に行きましょう」
「ありがとな」

持つぞ、と傘の持ち手に手を添えたが、何でかなまえは傘を持つ手を離さない。

「いいんです、たまには」
「いや、でも」
「たまには、私が食満さんを助けあげたいんです」

雨の音に紛れさせて、ちょっとだけわがままを言ってみる。なまえは留三郎が楽に歩けるように、腕を伸ばして笑ってみせた。
仕方ないなと困ったように眉を下げながら笑う留三郎と二人、肩を並べて歩き出す。

もっとお互いを知りたいと、お互いが思っていることに、二人ともなんとなく気づいている。それが確信に変わるのは、雨音ばかりの日々を超えた、賑やかな夏の日のことだった。