「ちょっと遅くなっちゃいましたね、もう真っ暗」

ビル街の外れにある小さな公園のそばを歩きながら、ナマエちゃんが呟く。
観覧車が一周し、ぼくたちが地上に足をつけた頃には日が沈み切っていて、背の高い街灯が通りを照らしていた。
もう、夜が来ていた。朝日を迎え入れるために用意される、真っ暗闇の時間。街のあちこちではネオンも光り出し、通りをゆく車のヘッドライトも目に刺さるような光を放っている。それらが、夜をいっそう際立たせていく。押し寄せるようにやってくる明日を予感させ、不安を煽るような、夜。

「ねえ、ナマエちゃん」

縋るような声が、ぼくの口から溢れ出る。

「ぼくの家くる?」
「え」

急に立ち止まったぼくをわずかに振り返って、ナマエちゃんはその場で立ち尽くした。
こんなこと言っちゃだめだ、というブレーキが効く前に、口先だけが空回りしていた。
夜が怖い。一人になりたくない。夜も一人も受け入れたくない。
感情だけが先走って、そのくせ外面だけは平静を装っていられるのは、多分日頃の仕事のせいだと思う。何があっても、お客さんの前では慌てず騒がず、落ち着いて。それがいま機能しているのは、正しいことではないのかもしれないけれど。

「いき、ま……」

ナマエちゃんの顔が伏せられて、表情が見えにくい。だけど、苦し紛れに発せられた言葉尻には明らかな動揺が滲んでいる。
傷つけた、と思った。今日一日、ずっとナマエちゃんの善意に寄りかかってばかりだったくせに、今になってその善意に背くようなことを言った。きっとナマエちゃんは、ぼくの傷を解って、理解した上で優しかった。そんな女の子を困らせながら、ぼくはこの後どうなりたいのか、分からなかった。

「い、いけま、せん……」
「うん」

ナマエちゃんの、絞り出すように苦しげな声は、徐々に萎んでいった。頷くぼくの顔も見ずに、ナマエちゃんはただ俯いていた。目元に前髪の影が落ちるせいで、表情が余計に暗く見える。青ざめてさえ見える。
「行かない」と、言ってくれて良かった。ようやく、彼女の手を離してあげられる。もういいよ、大丈夫、ごめんね、と伝えた後に、さようならを言って、またこれまで通りの生活に戻る。これまで通りの関係に戻る。それで良いんだと思う。
聡い子だなあ、と思った。優しいけれど、境界線を越えないためのものさしを持っている。優しさと甘さの違いを分かって、そこを履き違えない。

「今日は」

ごめん、と言いかけて、けれどぼくの言葉を遮るように、ナマエちゃんは「あの!」と大きな声をあげた。

「クダリさん、ちょっと、ちょっとそこで待っててください」

手をわたわたと動かしながらそう言うなり、ナマエちゃんは即座に身を翻し、風のように走り去ってしまった。

「え、ええ……?」

取り残されちゃった。

寄る辺なく、迷子のように立ち尽くしながら、ぼくはポカンと口を開けることしかできなかった。
待ってて、と言われても、どうしたらいいのか。ちょっとだけオロオロしながら、そばにある小さな公園のベンチに目を留め、フワフワした足取りで近づく。レンガでできた花壇の脇を通り抜け、ベンチに静かに腰を落ち着かせてみると、少しだけ不安が和らいだような気がした。

とても静かだ。日が落ち切った小さな公園には、小さなこどもも、お迎えの親も、誰もいない。入り口に面した通りでは、帰路を急ぐサラリーマンが足を急がせているけれど、公園の中はささやかな風が通り抜けるばかりだった。入り口を隔てて、公園の中と外が切り離されているような感覚だ。
ゆるんだ空気に冷たい風が混じって、首元を吹き抜けていく。寒さで肌が粟立って、思わずゼニガメみたいに首を縮めてしまった。

「おまたせしました」

ナマエちゃんが息を切らしながら、しかしなにやら慎重な足取りで駆けてくる。手にはおっきなビニール袋。ナマエちゃんはベンチの端に腰掛けて、ぼくとナマエちゃんの間、ベンチの真ん中に袋を置いた。

「クダリさんのお家には行かないですけど、これ一緒に食べましょう」

何だろう、と思いながら、ナマエちゃんが袋をカサカサさせながら取り出したものを覗き込む。

「クダリさん、何が好きか分からないので適当に買ってきちゃったんですけど……」

出てきたのは、大きなプラスチックの器がひとつ。
中身は真っ白なハンペン、出汁の黄金色がしみしみなまん丸ダイコン、ふっくらしたゆでたまご、その他いっぱい、なんだかたくさん。
たくさんの、コンビニおでんだった。

「こんな、桶みたいな容器あるんだね」
「私も初めて見ましたよ……お箸とフォーク、どっちがいいですか?」
「うーん、フォークかな」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「二人で適当につまみながら食べましょう」

フォークと一緒に、冷たいお茶もくれた。お茶はベンチの端っこに置いて、さっそくダイコンをつつく。フォークで刺して、一口大にして、息で冷まして口に入れた。

「はふ」
「熱いですよね」
「うん、でもすっごくおいしい」
「ダシはシンオウ産の海藻でとってるって売り文句でした。本当、美味しいですね」

口の中のダイコンは、噛むと出汁がじゅわりと滲み出て、ヤケドしそうになった。舌がじんわり痛いけど、すごくおいしい。もうひと口、さらにもうひと口。舌の痛みも二の次に、どんどん食べたくなる味。頬を撫でる冷たい風が、今は心地よかった。
ナマエちゃんはハンペンを食べている。ふとんみたいに柔らかそうなハンペンを、お箸でまるごと持ち上げて、ちょっと豪快な感じにかじりついていた。

「おいしいね」
「はい。コンビニのおでんって、たまに食べたくなるんですよね」

何もなかったみたいにおでんを食べるナマエちゃんのことを、ぼくはじっと見つめる。きっと、ぼくの気持ちを分かった上で、ささやかだけど温かな食事を一緒にしてくれようと、咄嗟の思いつきでコンビニに走ってくれたんだ。
お昼ごはんも一緒に食べた。今も、こうしておでんを一緒に食べている。
不思議だなあ、と思う。これまで、仕事でお世話になることはあったけど、食事を一緒に、なんて機会はなかった。いくつかの偶然が重なって、今がある。

「おいしいな、すごく」

食べ物を美味しい、と感じることは、幸せだ。

「嬉しかった。今日、きみに会えて」

会いたい人に会える、ということは、奇跡みたいなことだ。今のぼくには。
だから、こんなところまできみを連れてきてしまったのだと思う。

「楽しかった。きみと一緒にいられて」

大切な人がそばにいる、ということは、得難い至福だ。
だからこそ、手を離すタイミングを見失ってしまった。
ナマエちゃんは、お箸を器の端に置いて、何も言わずにぼくの言葉を聞いてくれていた。

「ノボリがいなくなってから、心にぽっかり穴が開いたみたいになってた。
きみと一緒にいて、おいしくて、楽しくて、嬉しくて。でも、楽しいって、思えば思うほど、ノボリがいなくなった穴を他のなにかで埋めようとしてるみたいで。でも、埋められる訳はなくて」

紛らわそうと思ったそれは、むしろ大きくなるばかりだった。
ナマエちゃんと一緒にいればいるほど、楽しければ楽しいほど。ノボリがいなくなって出来た穴が広がるばかりだった。後ろめたさは増すばかりだった。

「今のぼくの、気持ち全部が苦しい」

寂しさ、辛さ、悲しさ。ノボリがいなくなってから、当たり前にあったそれらの気持ちを、嬉しい、楽しい、明るい感情が照らそうとする。そのたびに、これは違う、今あっていいものじゃない、と心が叫ぶ。
大切な人が消えた、何かやれることがあったんじゃないか、ぼくに原因はなかったのか、もっと話したいこと、聞きたいことがあるのに、何ひとつ、もう話せやしないし聞けやしないんじゃないか。隣に立つことも、一緒に楽しい勝負をすることも、おいしいものを食べることも。
ナマエちゃんとの時間が楽しければ楽しいほど、そういう気持ちも一緒に膨らんでいった。そのくせ、ナマエちゃんと離れることもできずにいた。きみのことも大切で、過ごす時間は優しくて。でもナマエちゃんと一緒にいることで生まれる感情は怖くて、そのくせ一人になるのも嫌だった。何もかもが、どうしようもなく矛盾に満ちていた。
だから、ぼくは、きみに謝らなきゃいけない。

「クダリさん」

ナマエちゃんに名前を呼ばれて、下がり切っていた顔をほんの少しだけ持ち上げる。ナマエちゃんの、顔を見るのはこわくてできなかった。

「美味しいもの食べたり、楽しいって思ったり……そういうの、手放さないでほしいです、私は」

思いがけず、はっきりとした声で言い切られて、息が詰まる心地がした。

「クダリさん、これからずっと辛いと思うんです……ノボリさんが帰ってくるまで。これからクダリさんは、辛いのも苦しいのも嫌なことも、全部背負って、でも同じだけ楽しいことも嬉しいこともしていかなきゃいけないから、生きていくために」

ナマエちゃんの言葉すべてが、心に重い真綿のように積もっていく。暖かくて、苦しくなるほどに優しい。ずっとそうだった。ナマエちゃんは、今日一日、ずっと。

「辛いのも、苦しいのも、多分……ずっと消えません、完全には。それでも生きていくためには……きっと、心の栄養がなくちゃいけなくて」

ナマエちゃんの言う『心の栄養』は、きっと今日ナマエちゃんがぼくにくれたもの、そのものだ。こんなに優しくて痛い気持ちを、これからずっと受け入れていかなきゃいけないんだろうか。

「今そばにいない誰かや何かを大切に思う気持ちを失わずにいるためには、今そばにあるものを、気持ちを、少しずつにでも受け入れて、そういうものを明日への希望にして生きていく。多分、私もそうやって、今日まで生きてきたんだと思うんです」

ふと、いつか聞いた、ナマエちゃんがバトルをやめようと思ったという話を思い出す。何かの折に、好きなものを自ら手放そうとしたいつかのナマエちゃんは、それでも前に進もうと、そうやって歩いてきたのだろうか。
今を受け入れることでしか、人は生きていけないのだろうか。
そうだとしても、やっぱり。

「帰ってこないかもしれない人を待ちながらずっと生きていくの、怖いよ」

喉を締めつけるようにして絞り出した声が、尻すぼみになって震える。
ナマエちゃんは、ノボリがいつか帰ってくる日まで、と言ってくれた。だけど、やっぱり怖い。ノボリがいなくなってからの日々は、あっという間に過ぎ去って、もう何カ月も過ぎていて。ノボリがいない日々の中で、不意にあてどない不安に襲われることがある。先の見えない闇の中を手探りで進むような毎日を、ぼくは送っていけるのか、不安で不安でたまらない。

「クダリさんが希望を捨てない限り、きっとノボリさんにとってもそれが希望になると思うんです。なってほしいって……私の希望も込めて、ですけど……」

言いながら、ナマエちゃんはベンチから腰を上げ、俯くぼくの前で腰をかがめた。迷子の子どもの顔を、優しく覗き込むような仕草だった。

「ノボリさんはきっと、クダリさんの真っ白なコスチュームを灯台の光みたいに目指して帰ってくるって、希望的観測でしかないかもしれないけど……」

ゆっくりと、丁寧に紡がれる言葉が、優しくて痛くて、瞳の奥から湧き上がってくるものに堪え切れず、ぼくは思わず顔を上げた。

「サブウェイマスターのお二人を知る人なら、きっと、誰だってそう思うはずです」

そう言い切ったナマエちゃんの、きれいな黒目の真ん中に、ぼくがいるのが分かる。

「ナマエちゃん」

思ったよりも、ずいぶん小さくなってしまったぼくの声に、ナマエちゃんは「はい」と、頷く。

「ぼく、本当はずっと泣きたかった」
「はい」
「どうしていなくなったのって、ノボリに怒りたかったし、ぼく自身にも、どうしてノボリがいなくなるの、止められなかったのって、怒りたかった」
「はい」
「泣いていいのかな。怒ってもいいのかな」
「泣きたい時は、泣いたほうがいいものですよ。怒りたい時は怒るし、笑いたい時は笑って、お腹が空いたら美味しいもの食べて」
「うん」
「そうやって、普通に生きていいんです。私たちは、いつだって」

言うと、ナマエちゃんはぼくの膝の上で固く握られていた手に、そっと手を添えてくれた。

話している間にも、目の端っこから涙が流れていっていた。もうずいぶんと、身体の奥底に溜め込んでいた涙だったと思う。熱くて、痛くて、だけど流れれば流れるほどに、心を縛りつけていた何かが解けていくのが分かる。
泣いてもいい。怒ったっていい。時には心の底から笑って。美味しいものも食べる。
日々の当たり前を生きながら、ぼくはこれからもノボリを待ち続けるんだろう。

「ナマエちゃん」
「はい」
「ありがとう」

勝手に流れていく涙はそのままに、ぼくは握り拳をほどいて、ナマエちゃんの手を握る。握った手から、ぼくの心の中にある「ありがとう」が全部伝わることを願って、ほんの少しだけ力を込めてみた。握り返してくれたナマエちゃんの手の、その力、ぬくみが、ぼくの「ありがとう」への返事のように思えた。

ナマエちゃんのおかげで、ぼくの一日は「ごめんね」で終わらなかった。
あの後、少し冷めたおでんを二人で食べ切って、公園を出て、ナマエちゃんをお家に送っていった時にも。別れ際に「ありがとう」と「またね」の二言だけを伝えて、ぼくは少しだけ笑って手を振った。
その日の夜、ノボリがいなくなってから初めて夢を見なかった。深い眠りで、心身ともに回復できたのがはっきりと分かった。これから生きていくことを受け入れることができた、証のように思えた。
またやってくる朝を、怖がる気持ちが少しだけ減ったのかもしれない。

朝食は好きなものを食べた。フライパンでこんがり焼いたベーコンの上に卵を落としたやつ。バターを塗ったパンの上に乗せて、思い切りかじりつく。おいしくて、やっぱり涙は出そうだけど。
また明日の朝もこれを食べよう、と思った。