主と初めて会った日のことを、陸奥守吉行は鮮明に覚えている。
何か、温かな気配がしたのだ。
まどろむように曖昧な意識の中、誰かの指先が、おそるおそる、けれど優しく伸びてくるような。名を柔く呼ばれるような。
気づいたら、身を得ていた。
いま、自分に何が起きているのか。確認しようと思うや、自然に目蓋が開いた。持ち上げる目蓋の存在を認識するより、行動が先だった。
どうやら自らが発しているらしい桜吹雪が淡く視界を染める中に、呆気にとられたような顔をした人間が棒立ちになっていた。
それがみょうじなまえ、主だった。
こちらが名乗り終えても、なお呆然とするばかりな人間の様子が可笑しくて、陸奥守は笑いながらその人の頬をそっと、ぺしぺし優しく叩いた。
「いつまでボーッとしゆうがよ! 何か言っとおせ!」
「へ、あ、すいません」
と、いうわけで、主の第一声は「へ、あ、すいません」だった。
口をぱくぱくさせながら、ようやく絞り出した言葉らしかった。
「にゃはは、ようやっと話せたのう!」
「はい、あの、私、審神者です。みょうじなまえです。よろしくお願いします」
ものすごくぎこちない挨拶の後、小さく頭を下げた主が、差し出そうか出さまいか迷っているらしい手を引っ掴んで「よろしゅう!」と何度も繰り返した。
それが陸奥守吉行、刀剣男士としてのはじまりだった。
審神者と初期刀、初めての対面を終えた後、政府の施設からいざ本丸に向かわん、という折のことだ。
案内係らしき役人の男が、鞄を漁りながらわたわたし出した。どうやら事務室に忘れ物をしたらしく、主と自分をその場に待たせて、大慌てで事務室に駆け戻っていった。
「おお、おお。あがいに走ってええんじゃろうかのう?」
愉しげに笑う自分とは対照的に、ぼんやりと佇む主。
お役所施設の静かな廊下で、いつまでも所在なさげな主の様子に、陸奥守は若干の不安を抱いた。本丸に着いてもなおこの調子では、そこにいるものたちに示しがつかないのではないだろうか。とはいえ、仕方ないのかもしれない、とも思った。
亡くなった父親の跡を継いだのだ、と聞いていた。未だ、その事実についていけていないような、どこか迷いのあるような人だと思った。
「のう、主」
返事の代わりに、ぼんやりするばかりだった瞳がこちらを向いた。
「どういて、わしを選んだがよ」
緊張をほぐしてやろうという意図と、単純に気になるという好奇心と、少し試してやろう、という思惑が同居した問いを投げかけてみる。
五振の刀剣の中から、何故『陸奥守吉行』を選び取ったのか。
「龍馬伝……あ、いえ、あの、坂本龍馬が好きで」
「おお〜そりゃ嬉しいのう! 龍馬はええ男じゃき!」
手放しで喜んでみせると、主はようやく、ほんの少しだけ微笑らしきものを見せてくれた。
気持ちが緩まったのか、主は自ら言葉の続きを話し聞かせてくれた。
「それから陸奥守さんが、刀が時代遅れだって言うの……それがどうしてなのか気になって」
そのたった一言に、何となく、核心を突かれたような気持ちになった。
「……龍馬が好きなが?」
「はい」
「じゃあ、龍馬の最期は知っちゅうね」
「はい、近江屋で……」
主が浅く頷いたのを見届けてから、目を逸らす。塵ひとつ見当たらない真っ白な床に、陸奥守は行くあてを無くしたように視線を落とした。
「下手人は新撰組か見廻組か、はたまた長州か薩摩か、色々言われちゅう……けんど、わしには」
そがなことはどうでもええ、と言いかけて、やめた。どうでもいいわけはないのだ、自分の主を斬った人間が誰であるのか、無関心なわけはなかった。
けれど、それでも。何よりも。
「わしは、龍馬を守れんかった。それだけじゃ」
目の前で斬られる龍馬のそばに、ただ『在るだけ』だった『陸奥守吉行』、刀剣としての己が目にした光景は、ただひたすらにそれだけだったのだ。
そういう訳じゃ、と努めて明るい声で言いながら、顔を上げて、ぎょっとした。
主の目から、水。涙が溢れて止まらなくなっていた。
「にゃっ……なんじゃあ、どうしたがよ! どういて主が泣くんじゃ!」
「ごめんなさい」
理由の分からない謝罪をされて、いっそう困惑するばかりだった。
「私も」
と、か細い声が言うのを聞きとめ、陸奥守は何か言わねばと喉元に出しかけていた言葉を飲み込んだ。
「私も、何もできなかった」
鞄の中から取り出したハンカチで目元を抑えながら、主は鼻を啜った。
「お父さんに……何もしてあげられなかった」
そこでようやく、合点がいった。
主も自分と同じ、今まさに「何も出来なかった後悔」に苛まれている真っ最中なのである。
大切な人を守れなかった刀、大切な人に何も出来なかったと嘆く人。何て頼りないふたりなんだろう、と思った。
けれど、これから支え合って歩いていくとなれば、ちょうど良い歩調で歩いてゆける者同士であるのかもしれなかった。
「ええき、ええき」
主の背中を手のひらでさすりながら、陸奥守は主のために自らの意思で、自らの身を動かすことができていることの喜びに、胸がわずかに震えた気がした。
「泣きたい時は、泣くのが一番じゃ」
我慢などしなくていい。
これから、主がこうして泣くことがあっても、自分はその手を離さず、背を押し、共にあろう。
そうすることで、自分が刀剣男士として歩む道も、見えてくるかもしれないから。
「あ〜、けんどこのままじゃわしが主泣かしてしもうたみたいな……ん、いやわしが泣かしたみたいなもんじゃろうか?」
「いえ、私が勝手にアレしただけなので、陸奥守さんは全然悪くなくて……」
「アレてなんじゃ」
「なんか……アレですよ……」
「なんじゃそりゃ」
ずび、と鼻を啜りながら要領を得ない言葉選びをし始めたのは、多少気を許してくれたからなのかもしれない。時代がどれほど移ろおうと、腹を割って話すことができれば、人は歩み寄ることができるのだろう。
「しっかし、う〜ん、アレじゃのう」
「何ですか……?」
「陸奥守さん〜いうがは、何じゃ……どうもざわざわするのう」
「嫌、ですか?」
「嫌じゃあないんじゃが……う〜ん」
仮にも従うべき相手から、敬称を付されるというのはいかがなものだろうか、と思わなくもない。まだ他の刀剣男士が集う本丸という場所を知らない自分に、何が正しいかは分からないが、少なからず違和感はあった。
「陸奥守……むつ……む……」
主は眉間に浅く皺を寄せ、小声で陸奥守の名を呟いた。ふ、と何やら頭に浮かんだのか、小さく頭をもたげた主は、
「むっちゃん……」
と、予想の斜め上なあだ名らしきものを口にした。
「にゃはは、むっちゃん! ええのう、ええのう!」
「え、いいの?」
大口を開き笑ってみせると、主は頬に困惑の汗を垂らしながら首を傾げた。
「あれ、何か盛り上がってます?」
案内係の男がようやく戻ってくる頃には、主の涙は引いていて、互いの距離も変わっていたように思う。
あの、ほんの短い時間こそが、今の主と自分の関係性を形づくったと言ってもいいような気がしている。
政府の役人が忘れ物をしたという偶然のもと生まれた時間。そこであった出来事。
その全てを、自分はずっと忘れないのだろう。
*
ちょうど、丸二年前のことを思い出していた。
この日、刀剣男士たる自分にとっての全てが始まった。
そして、それは主も同じ。審神者としてのみょうじなまえという人間の、はじまりの日である。
すっかり日常風景の一部となった大広間を花やら紙の飾りやらで彩って、卓上に主の好きな食べ物も並べた。
足音が近づいてきて、日本号に連れられてきた主が戸を開く。
「おまさんは、今日で就任二周年じゃ」
待ち構えていた陸奥守は、長谷部が花屋で買ってきた特大の花束を、主の懐に抱えさせた。
「わしらを支える、でっかい柱になったのう!」
言いながら両肩を叩くと、主は嬉しげな笑顔を顔いっぱいに広げさせた。その笑顔が伝播するみたいに、自分の表情も崩れていくのが分かる。
また一年が巡った。この一年は目まぐるしく、けれど目まぐるしいなりに、何ものにも代え難い思い出をいくつも積み重ねてきた。
同じように巡りゆく次の一年も、どうか主と共に歩んでゆけるように。笑って過ごせるように。
祈りながら、主の手をとり、強く握った。
前 後