研ぎ澄まされた、痛いほど冷たい空気の中。月明かりに照らし出された地面を一歩一歩、祈るように踏みしめる。私はくのいちのたまごなのだから、この時間帯に歩いていておかしいことは何もないのだけど、今夜はいやに静かだ。踏みしめる砂がじゃりじゃりいう音以外はほとんど無音といってもいいだろう。
学園の門の前まで来て、足を止める。開く気配のない門をしばらく見つめて、自然と出たため息に苦笑しながら、塀に背中を預けた。深い吐息が白く立ち昇るのを見送りつつ、空を見上げた。澄んだ空気のおかげか、月が明るくとも星がよく見えた。ここ2、3日はこうしてここに来て空を見上げている。
ふと、カラカラと車輪が回るような音に加えて誰かの足音が近づいてくるのが耳に入った。その音に耳を傾けながらその正体が誰であるかを頭の中であれこれ予想してみる。一番有力なのは、多分。

「こんな時間にこんなところにいたら、風邪ひきますよ」
「田村だね」

男にしてはまだ少しばかり高く甘みのある声は、顔を見ずとも聞いただけで誰か分かる。声のしたほうへ目をやると、ユリコを引いている田村がどこか呆れたような、困ったような、微妙な笑顔を私に向けている。やっぱり、あのカラカラという音はユリコが立てる音だった。

「田村は、ユリコと散歩?」
「はい、最近は星が綺麗に見えますから、ユリコにも見せてあげたくて」
「そうだねぇ、確かに」

誰かと一緒に見たくなる空だ、と言いかけて、その言葉は飲み込んだ。なんだか、声に出しても情けなく宙ぶらりんになってしまいそうで、怖かった。
田村は火器に名前をつけて、女の子みたいに大切にしている。おまけにアイドルだなんだと自惚れも激しく、初めはいい印象がなかった。というか、訳のわからん奴だと思った。しかしその自惚れが口だけではなく、彼自身の努力によって裏打ちされる、根拠のあるものだと後に分かった。会計委員会の厳しい活動もきっちりこなす、あれで頼れる男なんだと、潮江も言っていた。

「みょうじ先輩は…何をなさっているんですか?」

田村に問われて、改めて自分が女々しいことをしている自覚が湧き上がってくる。分かっている、自分が今どれだけ情けない顔をしているか。だから田村もどこかぎこちないのだろう、こちらの様子を伺うようにそっと顔を覗き込まれる。

「…潮江、単独で実習に行ったきり、帰って来ないね」
「…それは」
「学園長先生のお使いで予定より遅れてる…ってことになってるけど、田村もなんとなく分かってるんじゃない?」

潮江が多分、行方不明になっていることを。
1週間で戻ると言った潮江は、その1週間を5日過ぎた今も帰って来ていない。実習が長引くことは珍しいことじゃないが、もう学園内最高学年としてプロへの道を見据えている潮江は戻ると言った日きっかりに戻ってきていた。
だというのに、今回に限って5日もその日を過ぎている。それでこうして来る日も来る日も潮江のことを待ちわびてしまっているのだ。

「駄目だよなぁこんなんじゃ。到底プロになんてなれない」

自嘲しつつ溢れた言葉はため息まじりで、後輩の前で情けないと思いつつどうも自分で自分の感情を上手くコントロール出来ずにいる。俯き、固く冷たい地面を見つめる。風が吹くと、少しだけ砂埃が舞った。
潮江が帰ってこない、ただそれだけでこんなにも思考が鈍くなり心が弱くなってしまうさまを、彼の委員会の後輩である田村に見せてしまうとは。恥ずかしくて田村の顔も見られない。色恋で簡単に弱味を見せるだらしない先輩だと思われたかもしれないし、私は一体何をしているんだろう。毎日こうしてここに来て待っていたって、潮江が帰ってくる保証もないというのに。

「割り切れない大切なものがあるのは仕方ない…と私は思いますよ」

沈黙を破った田村の声は、一つ一つ言葉を選んで発しているような、丁寧で、けれどまっすぐな声だった。その声に顔を上げ、田村のほうを見る。彼は腰を屈めてユリコを優しく撫でながら言葉を続けた。

「頭では分かってる…自分たちはこの学園にいる限り、だいたいの人間は忍びの道を行く。そうなれば当然、自分の大切な何かを失うこともあるかもしれないですよね」
「…うん、そうだね」
「でも私は、大切な何かのために、という感情を完全に取り払う必要はないと思います。だってそうでしょう?私はユリコがここで、学園で待っていてくれると思うから実習に出てどんな目にあってもここに戻ってこようと思える。先輩に教えていただきたいことが、後輩に伝えなければならないことがまだまだたくさんある」
「…そっか。そういうものに、田村は生かされてるんだね」

すいません長々と、と言いながら眉を八の字にして笑う彼は、中途半端な私よりずっと偉い。色んな何かや誰かのおかげで生きてゆけているのを、きちんと理解している。

「それに潮江先輩は言ってましたよ」
「え?」
「確か……って、あれ?」

田村が言葉を切って、私のすぐ後ろの塀、その上を見て、目を大きく見開いた。何事かとその視線の先を慌てて目で追う。

「し…」
「潮江先輩!?」

田村の叫び声に被せて、ドサリというどこか生々しい音が、静かな学園中にこだましたような気がした。暗がりでも分かるほど体中傷だらけの潮江が、塀の上から落ちてきたのが見えた。