阪神共和国

 初めての次元移動が終わり、侑子の知人らしき人物に助けられた後。
 部屋にサクラと小狼を下ろし、壁にもたれた黒鋼は、視線だけで辺りの様子を探った。それに気づいたファイが口を開く。

「あの子ならちゃんとついてきてると思うよー。オレの腕に触れて居場所を教えてくれてたしー」

 ファイがそう口にした途端、淡くファイの隣が揺れて、白いシャツと黒いズボンが現れた。相変わらずその姿は見えず、声も聞こえない。

「…ふん」

 黒鋼は特に何も答えることなく、興味を失ったように目を閉じた。
 暫くして、小狼が目覚めるまで。

 しばらくして小狼が目覚め、各自、自己紹介に入った。一通り一同が顔を合わせる。そして何となく場を取り仕切っていたファイが、正座している黒ズボンと白シャツの方に顔を向けた。

「でー、きみはーナマエちゃん?ナマエくんー?」

 答えはない。あわあわと腕を動かしているらしいことは、ひらひら動く白い袖から何となく分かるのだが。「うーん」とファイは困ったように首を傾げた。

「モコナ、ナマエとお話できるよ!えっとねぇ…………好きなように呼んでいいって!自分が男の子なのか女の子なのか、分かんないんだって。変なのー」
「へぇー。ちなみにモコナはナマエの顔も見えてるのー?」
「ううん。お顔はねー、なんかもやもやしててよく見えないー」
「そっかー。まあ、よろしくねー」



「うわっ!!」

 小狼の体をファイがまさぐった。ナマエはやはりあわあわと腕を動かしていた。ファイが羽根を見つけ出したのを横目に、黒鋼はそんなナマエの様子を見ていた。
 そして羽根をどうやって見つけ出すかという話になり、モコナが目を大きくさせた。

 ―――めきょっ

 びくうっ
 面白いように白シャツと黒ズボンがはねる。なるほど、意思疎通は難しいが何を考えているか全くわからないわけでもないらしい、と黒鋼は感じた。
 そして。
 言っておくことは言っておこうと黒鋼が口を開いた時。小狼は迷惑はかけないと真面目すぎるほど真面目な返答をし、ファイが本気かどうか分からない答えを間延びした口調で答え、そしてナマエは。

「そっちの透明のはどうなんだ」
「…透明のって、黒りんセンス悪いー」
「うっせえ!てめぇも、俺は黒鋼だっつってんだろうが!」

 白シャツが揺れる。困惑しているのか、あるいは笑っているのか。モコナがその傍でふんふんとナマエの言葉を聞いた。

「えっとねぇ、できることがあればやりたいってー」

 モコナを通じたナマエの言葉に、小狼は表情を緩めて「ありがとうございます」と頭を下げた。

「つーかいちいち面倒だな。何とかなんねぇのか、そりゃ」

 モコナを通じないとまともに会話もできないのか、と黒鋼が至極面倒そうに眉を寄せると、それに反応して白シャツの肩が縮こまる。しゅんとしたその肩にモコナが乗った。

「うーん、あのね、手袋と紙とペン欲しいってー」
「手袋ー?」

 ファイが首を傾げると同時に、「よう!」という声と共に扉が開いた。その瞬間ナマエは近くにあったシーツをばふっ!と被った。ものすごい勢いで。

「お、何や?さっきそんなんいたか?シーツお化けがおんなぁ」
「えーっと、一応オレたちの仲間なんですけどー、すごい恥ずかしがりやみたいでー」
「そうなんかー」

 黒鋼が呆れた目をする横で会話が流れていく。その後、空汰があれこれ説明してくれている間にも、ナマエはシーツを退けることはなかった。


 そして、一通り説明が終わってそれぞれの部屋に案内されるとき。

「んでー、そっちのシーツお化けは兄ちゃんか?姉ちゃんか?」

 …沈黙。

「おーい?」

 沈黙。

「……聞こえとるか?」

 こくこく。

「ファイと黒鋼と同じ部屋でええか?」

 ………こくり。
 声の代わりに肯きで意思表示する透明人間に、空汰は気を悪くした様子もなく、「ほんまえっらい恥ずかしがり屋さんなんやなー」と鷹揚に笑った。

「すみませんー、ありがとうございますー」

 声の無い透明人間の代わりにファイが返事をした。透明人間も、シーツを被ったままぺこりと頭だけは下げている。
 結局、小狼とサクラを残して部屋を出ていく時も、そのシーツが外されることはなかった。



 そして、部屋に案内された後。ようやくシーツを外したかと思うと。

「失礼します」

 不意打ちで入ってきた嵐に、透明人間はびっくぅ!と肩を揺らした。しかし嵐は浮いているように見える服にも動じず、その傍へ近寄り、真っ向からその顔のあたりを見詰めた。

「よろしければお使いください」

 そして差し出された盆には、手袋や紙、ペン、包帯などが乗っていた。しかし透明人間は差し出されたそれを受け取るために手を出すのをためらい、盆はしばらく宙に浮いていた。嵐はやはり気を悪くした様子もなく、微笑んで固まる透明人間の傍にそっと盆を置いた。嵐が一礼して去る背中に、ようやく固まっていたのが解けた透明人間は慌てて頭を下げた。



 中空を、ペンがまるで見えない糸に操られているかのように動いている。紙に、次々と文字が現れていく。しばらくすると、透明人間は作業を終えてその紙を黒鋼とファイに見えるように差し出した。まるで宙に紙が浮いているようだ。

「…何て書いてあんだ?」
「んー、全部読める訳じゃないけど、いろんな国の言葉でおはようって書いてあるみたいだねー」

 オレこれとこれは何となくわかるよー、とファイがいくつかの言葉にペンで丸を付ける。

「黒りんはー?分かる言葉ないー?」
「だから黒鋼だっつの!……二番目の」
「ほいほい、これねー」

 ファイが二番目の言葉をペンで四角く囲んだ。すると透明人間がまた紙に何かを書き付け始める。そして、上と下に違う言語で文字を書き終えると、また二人に見えるように差し出した。

「…“迷惑 かける ごめんなさい よろしく がんばる” ガキの手習い帳かよ」
「こっちも似たようなこと書いてあるよー。すごいねー、いろんな国の言葉が分かるんだねぇ」

 するとまたペンが動き、紙に簡単なニコニコマークが現れた。ご丁寧に眉まで書かれているが、眉が下がっているせいでどことなく情けない顔に見える。

「えーとちなみにー、君の方からはオレらの声とか姿は全部ばっちり分かる感じー?」

 今度は紙に○のマークが現れる。ややあって、その横に「はい」と二種類の文字。ついでのようにその下の方に×マークと「いいえ」の二種類の文字も現れた。

「なるほどねー。とりあえずこうやって意思疎通するしかないかなぁ。後で小狼くんたちにも教えてあげようねー」

 もう一度○のマーク。

「じゃあとりあえず今日はもう遅いから寝よっかー」

 ○マーク。ややあって、不安そうに「おやすみ」の文字が現れた。

「…綴りがちげぇ」

 おやすみと返す代わりに黒鋼はそう言い放ち、ナマエからペンを奪って綴りを直すとさっさと横になった。

「おやすみー」

 ファイもそう返し、横になる。
 透明人間は、見えない涙をそっとぬぐった。おやすみと言い合う相手がいるという久しぶりの幸せをかみしめて。



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