It is insane of her
母が傷つくのはいつもの事だったけれど、父の暴力があんまりにも酷かったりして本当に危ない状態になると必ず、どこからともなく現れて助けてくれる人がいた。今振り返ってみると、その人も魔女だったのだと思う。
傷ついた母に、しかし魔法を使って完全に傷を癒すのではなく、ある程度だけ魔法で癒してから、後はマグルの方法で丁寧に丁寧に包帯を巻いて、包帯の上から微かな微かなキスをいつも決まって肩口に落としていくのだ。
魔法のように傷が消えていては父が訝しむからということまで考えての治療だったのだろうと思う。
*
「リリー」
「なあに、セブルス」
花冠を作ることに夢中になっている幼い少女に呼び掛ける。返事が返ってきたことに痺れるような幸福感を得ながら、セブルスは聞こうと思っていたその質問を投げかけることに少しばかり躊躇して、手慰みに足下の白詰草の葉っぱをちぎった。
「どうしたの?」
「この前、言ってたろう……キスに、意味があるって」
拙く、要領を得ないセブルスの言葉に、リリーは振り向いて少しばかり考えるような仕草をした。そして思い当たることがあったのか、ぱっと顔を輝かせる。
「ああ、”手の上なら尊敬のキス”、の続き?」
「うん、…多分」
自分の言いたいことを汲み取って会話を続けてくれるリリーは、やっぱり特別だ。他の人だとこうはいかない。
「でも急にどうして?あの時はあんまり興味がないみたいだったのに」
「ちょっと気になって………肩へのキスはどういう意味か、リリー、君は知っている?」
「肩?肩ねえ……」
ちょっと待って、と言って少女は編みかけの花冠を傍へ置いた。雨上がりの草原の土は匂い立つように湿っていた。考え込むように顎に手を当てた少女の手と顎に少し土が着いたのを、セブルスは目敏く見付けていた。
「うーん、肩なんてあったかしら。フランツ=グリルパルツァーのキスのお話よね。家に帰って、本を確認してみましょう」
「リリー、でも、花冠は」
「花冠はまた作れるわ。ここに置いといて、続きから編めばいいもの。それよりセブルスがそんなこと言うからわたしも気になってきちゃった」
思い立ったら即行動の彼女は、そう言うとセブルスの手を取ってぱっと立ち上がった。片手をポケットに突っ込んで、少しよれたハンカチを差し出そうかどうか迷っていたセブルスは、急に手を引かれて少しバランスを崩した。
もう片方の手で握るリリーの手は小鳥のように柔く温かくて、少しだけ湿った土の感触さえもいとおしかった。結局ハンカチを差し出せずに、セブルスは少女に手を引かれて草原を後にした。
本を手に取る前に手の汚れに気付いたリリーによってハンカチは出番を得た。その時に顎の汚れも指摘したセブルスは、少女の少し尖った顎をハンカチで拭うという大役も得た。
「えっと、フランツ=グリルパルツァーの…『接吻』よね、あったわ。
手の上なら尊敬のキス
額の上なら友情のキス
頬の上なら満足のキス
唇の上なら愛情のキス
閉じた目の上なら憧憬のキス
掌の上なら懇願のキス
腕と首なら欲望のキス
―――さてそのほかは、みな狂気の沙汰」
綺麗になった掌でページを捲ったリリーは、歌うようにその一節を読み上げた。
「肩は書いてないから、きっと狂気の沙汰ね」
あの女性の行いは、狂気の沙汰であると言う。名前も知らないあの女性は、一体母の何なのだろう。母に聞いても知人だと言うばかりで詳しいことは教えてくれなかったけれど。
「セブルス」
俯いて考えに耽っていたセブルスに柔らかな声が掛かり、ぼんやりと意識が引き戻され掛けた瞬間、額に柔らかな感触が降りた。
ぱちくりと目を瞬かせる。一体、今何が起こったのだろう。
「わたしたちにふさわしいのは、ここね」
何の衒いもなく、悪戯っぽく笑ったリリーの言葉に、額にキスを落とされたのだとようやく気付いた。
「……っ…!!」
頬にじわりと熱が滲む。考え事なんかしていないでちゃんとリリーの顔を見ていれば良かった。
君は一体、一体どんな顔をして、どんな風にぼくにキスしたの。
「あは、顔、真っ赤よ。セブルス」
「ず、るい…」
セブルスは、くすくすと笑う口元を抑える少女の手の甲に素早くキスを落とした。やられてばっかりでは悔しいというのと、リリーへの思いが只の友情なんかでは無いというのを示すだけで精一杯のキスだった。唇にキスを落とす勇気はないから。
「ふふ、セブルスは紳士ね」
彼女の手からは、柔らかな春の大地の匂いがした。
ふふっと笑った彼女の明るい緑の瞳に、心地の良い目眩がセブルスを襲った。
違うんだ、本当にぼくがキスをしたかったのは――――。
「ねえ、セブルス、」
ああ、いっそのことその瞳にくちづけられたなら幸せだ。例えそれが狂気の沙汰だったとしても。
「セブルスってば」
「あ、ああ。ごめん、何?」
「肩にキスをされたの?」
「…ぼくが?」
「だって、急にこんなこと聞いてくるから」
「違う」
興味津々、といった呈で聞いてくるリリーの問いに慌てて否定を返す。変な誤解をされては堪らない。
「でも、何だかちょっと素敵ね。やっぱり女の子としては唇のキスがいちばん憧れだけど
―――狂気の沙汰って、ちょっと素敵だわ」
その言葉を、セブルスはいつまでも、いつまでも忘れられなかった。
It is insane of her
(彼女は狂っている)
(けれど恐らくぼくもそうなのだ)