オオカミ男の暴走
その日の月は赤かった。
耐え難い喉の渇きは、前の満月の時から癒えることは無かった。山の中ならば安全だろうと、枷も錠も付けずに山を彷徨いていたのがどうもいけなかったらしい。
「わぁぁああぁああ!はなせぇええ!」
どこか遠くの方から、子供のわめき声が聞こえていた。意識が途切れる。記憶が曖昧で、思考がはっきりしない。いつもの症状。女でも無いのに、月に一度の障りに悩まされることになろうとは思ってもいなかった。…意識が一瞬浮上する。
「……い、おい、ナマエ、ナマエ!」
遠くから聞こえる誰かの声。また意識が途切れて、そして浮上した。ぐるる、と耳障りな唸り声。怯えた子供の顔。子供が獣にでも襲われているのだろうか、それなら助けてやらなければ
―――そこまで思考が回った時点で、ナマエはようやく子供が何に怯えているのかを理解した。獰猛な唸り声がどこから漏れているのかも。
一体、俺は、何を。
「ナマエ!目を覚ませ!!」
はっと目が覚めた。否、目なら疾うに覚めていた。化け物と化し失っていた理性を取り戻した、という方が正しい。遠くから聞こえた気がしていた子供の声は、実際には耳が痛くなるほどの至近距離から聞こえていた。
「ナマエ!」
子供の顔に酷く見覚えがあること、自分の名を呼んでいるのがシャンクスであること。ふたつを認識した瞬間、ナマエは頭が真っ白になった。
*
最近森に化け物が出るらしいと村人たちが噂をしていた。そして今日、ルフィが攫われたと聞いた。真っ先に思い当たったのはナマエのことで、赤髪海賊団の一味は最悪の事態を想定して険しい顔をした。そして目撃情報の多い山へと向かう途中、ルフィの叫び声を聞き付けていち早く先へ飛び出したのがお頭で、他のクルー達はその後から追いつく形で声のした方へと駆けつけた、のだが。
「おいおい、冗談だろ。おれァ夢でも見てんのか?お頭だぞ?あのお頭が、だ。何で、劣勢なんだ」
「…ナマエがおれたちに言ってないことは他にもあるっつってたよな、副船長。ちなみにその内容ってのは、」
幹部を含むクルー達が目にしたのは、巨大なオオカミに押されているシャンクスの姿だった。この男がこんなにも苦戦を強いられているという、俄には信じがたいその事実に、クルー達は息を呑んだ。誰かが恐る恐る尋ねた問いに、ベックマンは眉ひとつ動かすことなく答える。
「オオカミ男って話だ。…悪魔の実の能力者ではなく」
「それはもう聞いた………って、ええ!?悪魔の実じゃねェのか!?…じゃなくてだな!」
聞きたいのはもっと別の事だ、と目線で訴えてくるクルー達に、ベックマンは僅かに間を置いてから言い加えた。
「………馬鹿力なんだと。
―――海楼石にひびをいれる程度の、な」
「それを早く言え!!」
ちなみにそれは生身でか!生身でなんだな!?と慌てたはじめたクルーを横目に、ベックマンは吸い終えた煙草の殻を握りつぶした。
加勢すべきか否か。あの赤い髪の男はどちらを求めているだろうか。
「ナマエ!馬鹿、おれだ!シャンクスだ!おれの顔を忘れちまったってェのか!」
ルフィを庇いながら、シャンクスは剣でナマエが次々に繰り出してくる牙や爪を受け止めていた。一瞬確かにこちらの言うことを理解したような目をしていた気がしたのに、突然牙を剥いてきたものだから対応に少し手間取った。
「…ヴヴヴ…」
喉から時折漏れる声は完全に獰猛な獣のそれで、シャンクスはさてどうしたものかと頭を捻った。
「シャンクスぅ!何でやっつけちまわねぇんだよ!そいつ化けもんだぞ!」
受け止めるばかりのシャンクスに、ルフィからそんな声が掛かる。化けもん、の言葉にシャンクスは少しだけ笑った。
「悪いなルフィ、こいつはおれの大事な仲間なんだ」
「…シャンクスを殺そうとしてるのにか?」
「おれを殺そうとしてるのに、だ」
全く困ったもんだ、とシャンクスはまた少し笑った。完全に理性を失っているらしく、繰り出される牙や爪に躊躇は見えない。
「お頭、」
「ベックか。ルフィを頼む。
―――お前は手を出すなよ」
後方から掛かった声に、視線はナマエに向けたままで答える。ルフィが攻撃範囲から消えた瞬間、ナマエは先程までとは比べものにならない程の勢いでシャンクスに向かってきた。子供に傷一つ付けなかったあたり、無意識のうちに彼の自制は働いていたのかもしれない。
「うおっ、ちょ、ナマエ、落ち着け!」
ガキン、鈍い音がしてシャンクスの剣が折れた。サァ、とその場に居た男達の顔から血の気が引く。
「………っ、く、ナマエ!!」
シャンクスとナマエが揉み合い、地に転がる。再度距離を取った両者、ナマエの口元とシャンクスの肩口に血が付いているのを見て、ベックマンは銃を構えた。
「ベック、お前誰に銃向けてるんだ!止めろ!ナマエ
―――!」
ドォン…!
ナマエの名を呼ぶ声と共に、銃弾の放たれる重低音が辺りに響いた。
「ナマエッ!」
そして、獣の唸り声が 消えた。