Innocence is bliss

 彼女はもうすぐそこにいるんだ、と言ったシュウの様子がおかしいことに、レイはすぐ気が付いた。どういう意味なのかと問いただすと、彼は観念したようにひとつ息つき、店とつながっているプライベートルームのソファを示した。

「すぐそこって―普通そういう意味ですか!?」

「静かに。起きると面倒だ。睡眠薬は?」

「睡眠薬なら、バスルーム……にあります、けど……ああ……まさか」

「ああ、まさか、だ。……想定外か?想定内か?」

 レイは言葉を失った。最近彼女がゲイバーを中心にあちこち姿を見せていることは知っていた。日本人の留学生など珍しくはないが、大抵が冒険心で覗きに来るものだ。ここまでしつこく、しかもよりディープな場所まで潜り込んでくる日本人、加えて人を探しているとなれば、その界隈では噂になるものだ。ゲイのコミュニティは狭い。だから、彼女の存在は想定内だった、だが―こんな傷を負って目の前に現れるなんてことは、想定していなかった。いや、こんな状況になることがあまりにも容易く想定できていたからこそ、拒んでいたのに。

 シュウがナマエをソファにおろし、バスルームから薬と水を取って戻ると、ナマエの隣でレイがそのまだあどけない顔を覗き込んでいた。

「……こんなケガをするなんて」

 レイの顔すらもあどけなく見える。その悔恨の表情に言葉を出すのを一瞬ためらった後、シュウはコップの水をサイドテーブルに置き、努めて何でもない口調で言葉をひねり出した。

「ほとんど俺がやった。肋骨一本、鎖骨にヒビくらいは入ってるだろう。鼓膜は破れていないだろうが、あとはどうだったかな……」

「なっ、」

「シッ。」

 シュウは唇に人差し指を当てた。レイははくはくと口を開閉させ、しかし、ナマエが今目覚めてはいけないので、言う通りに声を落とす。

「どうする?今ならまだ間に合うが。どこかに置いてくるか?」

 容器からじゃらりと錠剤を手に取り、ナマエの口に押し込んで、コップの水を流し込む。いくらか口の端からこぼれた水滴はレイがタオルでぬぐった。そのままレイは歯を食いしばりながらナマエの服を脱がせ、傷の治療を始めた。服の破れ方で何があったか察したらしい。レイは無言でアフターピルをケースから出し、成分を確認してから、彼女の顎を持ち上げて錠剤をのませてやった。

「どこかって、どこへ?バックストリートに置いて行けば、あっという間にギャングの餌食。かと言って人目につくような場所へ置きに行けば、ぼくたちの素性がバレて今までの苦労が水の泡です。選択肢はひとつしかないでしょう」

 静かな、苛立ちを抑えているような声で、しかしきわめて冷静に、レイは言った。

「ホォー。……なら最初からその判断をすればよかったんじゃないのか?」

 シュウのその一言にはさすがにキッと睨みつける目を抑えられず。

「関わらせるわけにはいかないでしょう」

「結果的にはこうして関わった。余計な傷も負わせた。想定しうる中でも最悪に近い関わり方だ。まあ、どんな病気を持っているとも知れん奴らにヤらせなかっただけマシか。」

「あなた……その、本当に」

「挿入まではしてない。……そんな顔をするな。どう言えば満足だ?」

 レイはシュウを責めることに失敗して、言葉を失った。そのまま行き場を失った視線を、眠っているナマエに向ける。その眉間には微かな苦悩の色。

「……このまま、あの時に戻れたらいいのに」

 それはあまりにささやかな願いだったが、どんなに願っても叶わない願いだった。
 人はそれを罪と呼ぶ。赦しを求めることは、二人にとって、それもまた過ぎた願いであった。
 手早く着替えたシュウは、そっとナマエの治療をするレイに向き直った。

「君が考える唯一の手段が何かは知らないが。……こいつのパルに、ジョナサンがいる。アレックスの従兄弟だ。最低限信用には足る。俺が適当に顔を変えてそいつを経由で戻せば―目が覚める頃には知り合いのドミトリー。そう悪くない道だろう?」

 パル。すんなり出てきたその単語に、オールド・パルを思い出すのはたやすいことだった。
 甘いのが苦手だからスパイシーなライで作ってほしい、と言った数か月前の彼女の屈託ない笑顔とともに。
 レイは思わず顔を覆ったが、治療を終えた彼女の全てをシュウに託すより他はなかった。




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