拗れた傲慢
消えたい。消えたい。消えたい。元の世界の私は、ここへ来て、消えてしまったのだろうか。私は元の世界から消えているのだろうか。だったらこの世界からも。
「……う、あ……」
頭を冷やした方がいいのだと分かっていた。今の自分は正常ではない。恐らくフラストレーションが溜まりすぎて、脳内の何かの物質が不足か過剰かになっているのだ。最近曇りばかりだったからセロトニンが不足しているのかもしれない。そうだ。きっとそうだ。いつもならこんな無意味な悩みは切り捨てられる。ただ生きるためだけに生きることができる。ナマエがこの世界で身に着けた、数少ない誇れることだ。生きる理由などをごちゃごちゃ悩まず、ただ生きること。それがどんなに困難で、どんなに軽微で些細で、そしてどんなに尊いことなのかを、ナマエはもう知ったのだ。ここへ来て。
言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。けれど元の世界の言葉を使うのが怖かった。
自分でも気が付いていないような、押し込めているような心の奥までさらけ出してしまいそうで。
「私は、」
吐き出さないとパンクしてしまう。
「私は学を、つけすぎた……陵王さまの、言う通り……何も知らず、何も考えずに、生きることができれば、それでよい……誰も私にそれ以上を望んでいない、求めていない、……必要としていない……どころか、不要で、厄介だ……」
その学は、元の世界で学んだものだ。あの時はそれを学ぶのが義務で、求められて、最低限必要なことだった。
「私が……」
じん、と、頭の奥が痺れていく。
“ 私がここに いる意味、など ない ”
足に力が入らない。旺季はナマエの意思を尊重してくれたのか、触れずにその場を去ってくれたが、恐らく気配が分かる程度の位置にはいるだろうと思う。倒れそうな人間を放ってはいかない。いや、あるいは、本当に去ってしまっただろうか。あの人はそこまで甘くはないかもしれない。助けが本当に必要な人間は必ず助けるが、そうでないだけのただの甘ったれに対しては一体どうだろう。自分で自分を傷つけ、自分で自分を悩ませ、勝手にただ絶望しようとしている、こんなどうしようもない人間に対しては。
“ では 君は 死にたいのですか ”
この世界でナマエより他に知る者のないはずの言葉が、聞こえた。ナマエの声ではない、別の声で。
バッと振り向く。
「ゆ……悠舜、さま、……」
“ここにいる意味がないとして。君が ここから出ていく意味は あるのですか”
「なんで……“なんで”」
手の先が冷たくなっていく。何もかもが終わっていくような気がした。
温かい巣の中から引きずり出された雛のような心地。
この人は、何もかも
――
「なんてね。あんまりたくさんはまだ、話せませんが。……どうしたんです、そんな顔をして」
「…………」
「そんなに驚くことですか?」
「ゆう、ゆ、……悠舜さま、おひとりで、ここへ?」
「ああ、足の件ですか。こんなもの、本気で治そうと思えば治らないものではありません。それより奇児、いいから中へお入りなさい」
「い、いやです」
「嫌だも何もありません」
「どの面下げて、」
「その面で構いませんよ。いいから、早く。顔色が悪すぎる。今ここで倒れられたら旺季さまを呼ぶことになりますよ。ぼくでは運べませんから」
「…………」
奇児はよろよろと一歩踏み出し、止まりかけて、今ここで踵を返してこの場を逃げ出したらどうなるだろうと少しだけ考え、どうせ途中で倒れてしまうかと一瞬で思い至り、悠舜の方へもう一歩踏み出した。
「ええ、そうです……その調子です」
怖いくらいに優しい声だった。なぜ、と問いたくなったけれど、もうそんな気力は残っていなかった。悠舜にもたれかかってしまうのが怖かったから、三歩以上の距離には近づかなかった。だというのに彼は、彼の方からあっさりその距離を詰めた。痛むはずの足を、引きずって。
「……手が冷え切っていますよ。……本当に君は、ばかですね。」
「な……」
「顔色が戻ったら教えてさしあげましょう。君から、聞きに来なさい。」
手を取られた。思っていたよりも強い力で引っ張られる。彼の足に負担をかけるわけにもいかないから、ナマエは一ミリグラムの重力も彼にかけず、引っ張られるがままに引っ張られて歩いた。
悠舜の手はとても熱かった。いや、違う、ナマエの手が氷のようだった。
その熱さに触れているうちに、何かが胸からこみあげた。吐き気。いや違う。
鼻の奥がつんと痛んで、目が熱くなって、それをこらえるために力を入れたら頭の奥がずきりと痛んだ。
ぐらり。視界が歪む。いや、今ここで倒れられるものか。
「ああ、後はお任せしますよ……」
悠舜の声が遠くなり、ナマエは倒れる寸前で誰かに抱き留められた。
力強く、熱い体
――
世界が闇に閉ざされた。