名もなき絶望

 幾日が過ぎたのか。

 幸いなことに、胸を切り落とした傷は膿みもせず、感染症にもかからず、せいぜいナマエは高熱を出したくらいで済んだ。悠舜の処置がよかったおかげだ。彼にはかなり呆れた目で見られたが、怒られはしなかった。……てっきり怒られると思った。悠舜がそんなに熱い人間になるのは、もっと後のことなのかもしれない。

 重量の減った胸はそれだけ軽くなったが、以前よりもたやすく“わるいもの”を溜め込むようになった。切り落とされた脂肪の塊に、どれだけの防御力があったのかは知れないが。
 それまでならたやすく発散できていた理不尽への憤り。たやすく呑み込めていた遣る瀬無さ。あるいは怒り。そして言いようのない寂しさ、もしくは虚しさとでも言うべき、感情。

(あぁ…………)

 息をするのが時々ひどく億劫になった。そんなとき、ナマエはいつも馬屋へ行った。どこぞの姫ではないが、馬といるのは落ち着く。人間のようにナマエを煩わせることはない。糞尿を垂れ流し人の髪を食んできたりはするが、相手が馬ならかわいいものだ。
 もう今日はここで眠ってしまいたい。そうしようか。藁へ体を埋めて、薄い壁板の隙間から入ってくる冷たい風を、馬たちの生温い体温でもってやわらげながら、ここで眠ってしまおうか。
 ツ、と、僅かな気配がした。

(あぁ、もう、ほんとうに…………)

 なぜだろう。
 それが旺季の足音だと、ナマエはすぐに気が付いた。気配を消すのに長けた相手だ。ナマエなど足元にも及ばないような鋭い感覚を持つ、根っからの武人、なのに文官をしている、彼の男。一時の帰還か、急用か。今度の旅は長くなると言っていたのに。

 彼は馬屋の入り口にすっと現れ、ナマエをただ見つめた。
 旺季が何を言いたいのかなんて、言われなくても分かっていたけれど、それでも些細な抵抗としてナマエはただ黙っていた。

「…………中へ入れ」

 しばらくして、ナマエが口を開かないと分かったのか、ただ命じる口調で彼はそう言った。ぶっきらぼうな、しかし確かに見せる優しさ。それだから多くの誤解を生み、それだから多くの人間に慕われ。彼は、心底、人間らしい人間だと思う。物語の中の人間の癖をして。

「…………かつて、……これまで、……そのようなことは、ただの一度も、仰らなかったくせに。」

 中へ入れと、形の上では言われた気もする。今までも。しかし、ナマエが馬と居たいのだと言えば、あるいは態度で示せば、ひとつため息をついてそれを許容してきたはずだ。お前も馬が好きなのだな、私もだ、などと優しく言われた記憶もある。
 今の旺季の気配は、容赦なく、厳しかった。

「感染症になりたいか。……是と言われたところで許可はせんが。」

「…………。……では、傷が、完全に、治ったら、……もう、そんなことは、言わずにいて、くださるのですね?」

 懇願するように、ナマエはそう言った。
 旺季は答えなかった。
 旺季に引きずられて邸の中に入れられながら、ナマエは、なんでこんなことをしてしまったのだろう、とぼんやり考えていた。





「お前は官吏になりたいか、奇児」

「……いいえ、旺季さま」

「では、何を望む」

 答えに迷って視線をうろつかせると、壁に穴を見つけてしまった。隙間を鼠がこじ開けたのだろう。隣に転がっている穴だらけの桶に居場所を求めでもしたのか。
 こんな粗末な暮らしをしているが、この人は、貴族だ。―奇児は、この生活を“恵まれている”と感じる程度には、この世界の実情を見てきた。泥の上で、着物も食べ物もなく、這いながら生きている人間をどれだけ見ただろうか。たいていは怪我人か、病人か、親のない子どもか、そうでなければ女性だ。健康な男性が混じっていたのは見たことがない。

「…………旺季さま。私は、……環境のせいにする、つもりはありません。……私が馴染めないのが、いけないのです。ここは、こういう、世界なのですから……」

 旺季はしばらくじっとナマエの顔を見つめた。

「お前は、……なにに絶望しようとしているのだ?」

 ああ本当に、この人は頭が良い。そして察しも。

「…………何にも。あるいは、時代に。世界に。社会に。……人間に。」

 この世界にはマルクスもジェファソンもルターもいない。
 意外と覚えているものだな、とナマエは笑った。そういえば、旺季はビスマルクのようだと思っていた。あの物語を読んだときは。

(いまはどうだろう?)

 私は私の価値観を共有できる人間がほしい。こんな世界はおかしいと、そのことをただ共感してくれる人間がほしい。主君など要らない。すべてを掛けられる強い望みなどいらない。ただ普通に、普通のことを許されながら、普通の人間として生きていたいのに。
 ナマエの求めている世界や考え方は、旺季にしてみれば革新的な考え方なのかもしれないが、ナマエにとってはただの日常だ。国の悪いことを取り除き、民のためを思い、民が主権となって生活する権利を追い求めるのは。

 ナマエが享受していた生活へたどり着くまでの長い長い闘争を、ナマエは歴史の教科書でしか知らない。この世界ではまだ始まってすらいない闘争だ。……始まりそうにもない闘争だ。これから先、永く王に支配されてゆくこの国では。

「……私が、ただ、諦めるよりほかに、ないのです。私は、」

 そこまでは、考えてから口にした言葉だった。


“ 帰りたい ”


 ぽろりと、口から言葉が零れ落ちて、ナマエは目を丸くした。
 違う。そんなことを言うつもりではなかった。
 旺季は言葉の意味が理解できなかったようで、怪訝そうにしている。当然だ。

“ どうして 私は 私が こんな目に…… こんな立場に? どうして もっと、……何も、私の力では どうしようも ない 何も 私の力では なにひとつできない この場所では ”

 面白いくらい、言葉が止まらず、回り続ける。自分がこんなことを思考していたことすら知らなかった。最近では、頭の中に響く内声や、考え事をするときの胸の内の声でさえ、この国の言葉になっていたのに。

“ なのになぜ あなたはそんなに 気高い…… あなたの気高さはあなたが作ったものではないのに… けれど そのあなたでさえ わたしを認めない この世界の気高さは そういうものだ…… ”

 自分ですら、自分の言っている言葉の意味がうまく理解できない。支離滅裂だ。
 ナマエは自分の口を押さえた。そのまま、その場に膝をつく。慌てたように旺季が腰を支えようとしてきたが、振り払った。今、触れられたくはなかった。今触れられたら、自分の定義を見失いそうだった。
 だからナマエは、ただ、言った。

「……私が、わるいのです……放っておいてください。ただ、放っておいて」



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