美しい貴児

 一年が過ぎ、二年が過ぎ、更に年月を経ても、ナマエが捨てられることはなかった。死という初めて直面する危機を前に驚くほどのスピードで知識やら何やらを吸収したからかもしれないし、周囲に気を配り弁えて行動するという日本人的な生来の気質が家人という役割をこなすのに適していたからかもしれない。

 旺季はナマエに家を任せるようにすらなった。本当に信頼された、と感じたのは、娘だという飛燕姫を紹介されたときだ。
 同じ年頃の(ナマエは奇児としての自分が一体何歳くらいなのか正確には把握していなかったが、十歳も離れているというようなことはないだろう)少女は、どうやらナマエのことを男と思っているようだった。もしかしたら旺季すら。かたくなに裸を見せることを拒んだ弊害がまさかこんなところで、とは思ったが、その勘違いはナマエにとって不利にはならない。力仕事を任されるのはむしろ願ったりだし(自分の居場所を作るためにも)、女だと見られて舐められるのはもうたくさんだった。
 少女の世話をするのは楽しかった。飛燕の方は自分が小柄な奇児の世話をしていると思っているようだったが。まあどちらも同じようなことだ。

「奇児!」
「はい、なんでしょう、ひめさま」
「姫様って呼ばないで。飛燕でいいのに」
「大恩ある方のご息女に、まさか。」
「もう」

 少女は少し膨れたが、ナマエが話の続きを促すとぱっと顔に笑顔を咲かせた。……かわいらしい。

「そう、あのね、前に聞かせてくれたお話があるじゃない?」
「どのお話し、で、ございましょう?」
「えっとね――――」

 内緒の話をするように声を潜めた飛燕に、ナマエは自分の表情筋が緩むのを感じた。
 この少女は、ナマエが元いた世界の話を何でも面白そうに聞いて、こうして時々また話してほしいとせがむ。妹と姉が同時にできたような不思議な気分だった。

「では、お茶を淹れてまいり、ます、お部屋、中で、お話しいたしましょう」

 ナマエがそう言うと、飛燕はにこりと笑った。





「……ひめさま?」

 早朝。ナマエはすっかりルーティンワークになってしまった馬の世話と畑の巡回を終え、邸へ入ろうとしていたのだが。井戸のそばでおろおろとしている飛燕を見つけた。まだ普段なら彼女は起きていない時間帯だ。早朝といっても日も昇り切らぬ未明のこと。

「どうかなさい、ました、か?」
「……奇児……」

 飛燕は今にも泣きそうに、だが決して涙をこぼすことなく、おそらく敷布であろう大きな布を抱えていた。薄暗い中で、だが、白い敷布に黒い染みが見えた。――――ああ。

「……ひめさま」

 この世界ではまだナマエには訪れていない月の巡り。飛燕の方に先に訪れたようだ。とはいっても元いた世界の少女らに比べればずいぶんと遅い訪れのように思える。……食べているものの栄養価が違うのだろう。

「シーツ……じゃなくて、敷布を、こちらへ。ひめさまは、着替えていらっしゃい、ませ」
「あの、あのね奇児」
「だいじょうぶ、わかり、ます。私は、汚れをよく落とす、方法、知っているのです。ひめさまもご存知、でしょう?」
「…………」
「どこか、お加減悪い、ところは?」
「……ないわ。ねえ、どうして奇児は、」
「後でお話しいたしましょう、厨房の爺が、来て、しまいます」

 向こうの世界の知識を駆使したナマエの掃除術・洗濯術は悠舜ですら感嘆するほどのものだった。旺季が負傷した際に血に染まった衣も勿体ながって繰り返し使おうとするので、何とか試行錯誤して技術を向上させざるをえなかったのだ。たとえば、しつこい血の染みには大根おろしを使うとよいだとか。
 飛燕も奇児の得意技は知っているはず。ナマエは普段めったに動かさない表情筋をどうにか緩めて彼女に微笑みかけた。安心させるように。……男所帯の中、少女ひとりで初潮を迎えるのはどれほど心細いことだろう。彼女にだけは自分の本当の性別を明かしてしまった方がいいのかもしれない――だがとりあえず今は対処が先だ。

「後でお茶でも、お淹れ、いたします、どうぞ室でお待ちください」
「…………ごめんなさい」
「謝ることでは、ないのですよ」

 それでも彼女は眉をきゅうっと寄せた表情のままだった。同じ女性としてなら掛ける言葉もあったかもしれないが、性別を明かしていない身ではナマエはそれ以上彼女を慰めることはできなかった。


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