優しいご主人様
その日ナマエは酷くむしゃくしゃしていた。原因は判然としない。体調のせいかもしれないし、普段はうまく思い出さないように閉じ込めている過去の記憶をうっかり思い返してしまったからかもしれないし、いつものようにジンに甚振られ、それをナマエがすぐ殺してしまえるような下っ端の虫けらみたいな男たちに嘲笑されたからかもしれない。
どれも、いつものことだ。取り乱すようなことじゃない。だってそれは日常なのだから。こんなのでいちいち取り乱していたらやっていられない。
それでもその日、ナマエはとても、むしゃくしゃしていた。
*
「……遅かったな」
男は、煙草を吹かしながら、窓際の壁にもたれて立っていた。ナマエは後ろ手にゆっくりドアを閉めた。
「…あら、てっきりあの男<沖矢昴>の方の姿で来るのかと思ったわ」
「追手には十分注意した。周辺に狙撃手もいないようだしな」
「当たり前でしょう、私がそんなヘマをすると?」
マッドドッグは眉を顰めて見せた。赤井は悪びれた様子もなく、「それで?」とナマエの瞳を射貫いた。
「わざわざ呼び出した理由は?」
「ご主人様の顔が見たくなっただけよ」
「………」
近辺の安全はオールクリア、ジンとウォッカは現在遠く離れた場所にいる、焦る要素はない。赤井は溜め息を吐いた。飼い犬の我儘にたまには付き合ってやるのも飼い主の務めだ。
「何をそんなに気を立てているんだ」
「………組織の任務よ。ジンの命令でもないのにある会社の役員に媚びを売って潜り込んだの。…随分いい趣味をお持ちのクソ親父だったわ。今時ハニートラップだなんて笑えもしない」
「……」
ああ、でも。とナマエは笑った。うっそりと。
「あなたも同じ方法で組織に入ったんだったかしら」
赤井は腕を組んで壁にもたれたまま黙って聞いていた。ナマエはその傍の窓に近寄りながらくす、くす、と笑った。
「やっぱり顔と体さえよければある程度は有効な手段なのかしらね。男も女も
――――」
窓のブラインドを、下ろす。
「あなたも媚びるような台詞を言ったの?…あの人は下卑た男とは違うものね。さぞお綺麗な、歯の浮くような言葉を並び立てたんでしょう?宮野あけ、」
ぐしゃり、と、ブラインドが歪んだ。ナマエの真横に鍛え抜かれたスナイパーの腕。顔のすれすれを通り過ぎていった拳と、剣呑な光を孕んだ眼光に、ナマエは満足そうに笑った。…窓にヒビくらいは入ってしまったかもしれない。
「その名をわざわざ出したのは、俺に手酷くされたいからか?…それとも本気でただ俺を怒らせたいのか?」
どちらも同じことだ、とナマエは思ったけれど、おくびにも出さずにっこりと笑った。
「さあ。あなたのその澄ました顔を歪めてみたいとは、結構本気で思っているけど」
ナマエが手酷くされたいだけの時、赤井は決してナマエの望み通りにはしない。ならばいっそのことどこまでもその感情を逆撫でてしまえばいい、そう思ったのだ。
だが、予想を裏切って、顔の横に乱暴に置かれた手がそれ以上の無体をナマエに強いることは無かった。
「……………煽るならもっとうまくやれ。」
その腕は優しくナマエを抱え上げて、部屋にひとつだけあったシンプルなベッドに横たえた。
「……………ご主人様には全部お見通しってわけ。悔しくて泣けてきたわ。」
嘘だ。この男が優しいことは、本当は最初から知っていた。…この男は一体どこでその身の内に孕む激情を発散するのだろう?素直にナマエの誘いに乗って発散しておけばよかったものを。ナマエが傷ついて自棄になっている時は、決して乱暴なことはしないのだ。
ベッドに横たえられ、まるであやすように背をとんとんと叩かれる。
「最初から素直に口にすればしてやらんこともないものを」
「………できるわけないでしょ」
できたらこんな回りくどい手段はとらない。優しくしてほしいなんて、抱いてと頼むより困難だ。酷い自嘲の笑みを浮かべて、ナマエは隠し持っていたデータを赤井の手に握らせた。赤井はデータをちゃっかりポケットに入れつつ、ナマエの背に腕を回した。
ナマエは、男の腕の中で、存分に泣いた。