彩雲

「……ここどこだよ」

 遠くには連なる山脈、そこから広がるだだっ広い草原、びゅうびゅうと吹いていく風。
 そこにひとりぽつんと取り残されたナマエは、ぼそりと呟いた。

 と。

『あ、そうそう、これからとんでもなく長い時間を過ごすでしょうけど―何とかしてあなたの中に今ある記憶を保護しておいた方がいいわよ。じゃないと、戻れなくなるから』

「えっ…」

 後ろを振り向くと、ぐにゃぐにゃと揺れている空間の向こうに、さっきまで居た店の内装が見えた。そこから聞こえて来たのは店主である侑子の声。

『それじゃあね。ガンバ!』
「や、ちょっと、まだ聞きたいことが―――」

 しかし空間の歪みはすぐにぱちんと消えてしまい、そこにはただ草原の続きが広がるだけだった。いくら呼んでも、待ってみても、うんともすんとも反応しない。
 ナマエはホリックの他にツバサも読んだことがある。そして先ほどの空間の歪みはとても見覚えがあるものだった。

(まさか……異世界に次元移動した?)

「んなアホな」

 ひとりで突っ込んでみてもむなしいだけだった。


***


 とりあえずここは現代日本ではないらしい。地平線が見えるほどの広さの土地にひとつも建造物が存在しない場所なんて、ナマエの知る限り存在しない。

(……っていうか、何かいるし)

 現代日本でないと考えた理由がもうひとつ。さっきからナマエの周囲をふよふよと漂う何やら黒いモノたち。

「っあー、鬱陶しい、何なのコレ!?」
「………ふむ、そなた、それが見えるのか」

 思わずぶんぶんと腕を振り回したナマエの傍に、いつ現れたのか、真っ赤な衣をまとった絶世の美女が立っていた。

「…はい?」

 のちに分かったことだが、彼女はのちのち建国神話と共に語られることになるかの名高き彩八仙が一人、紅仙なのであった。


***


「あーもうホント、わけわかんないよなー」
「わけが分からんのはそなたの存在じゃ。なんじゃ、仙でもないくせに建国から今までしれっと傍に居よってからに」
「つれないこと言うなよー薔君。こうして君の暇つぶしにも付き合ってあげてるんだから許してくれよな」

 しゃらり、と、薔君の足元で鎖が揺れた。ここは縹家の敷地内、薔薇姫を閉じ込めておくための檻の中である。
 ここに彼女はこうして気が遠くなるような時間閉じ込められていた。愚かな子どもを助けた愚かな仙として。

 助けはまだ来ない。

「……ええい、鬱陶しい。その中途半端な言葉遣いはやめんか。恰好もじゃ。それなりにしていれば見られんこともない容姿のくせに、手を抜きおって」
「ええー?手抜きじゃなくて男装だって。だってこの国、徹底して男性優位なんだから仕方ないだろ?まあ、縹家みたいな徹底した女尊男卑もどうかとは思うけどな」

 そう言って薔君の傍で苦笑するナマエは、見事な男装をしている。政治に関わることはめったにないとはいえ、そろそろ”物語”が始まるのだ。女でいるより男でいた方が何かと都合がいいと思って、言葉遣いも男口調にしているのだが。
 百合と譲葉のようにはうまくいかないものだ。

「…フン。巷によくいる軟派男みたいな恰好しおってからに。茶のに鍛えられたとも思えんな」
「………いや、あいつこそ絶対に私のこと女扱いしてないからな?っていうか筋肉がつかないのは体質なんだからしょうがないだろ」

 茶仙、のちの燕青の師匠は、それはもう情け容赦なくナマエのことを鍛えてくれた。暇つぶしとかいってあちこち連れまわされたので、今や山の中でのサバイバル技術もお手のものである。
 地獄の特訓の日々を思い出して、ナマエは少し遠い目をした。同じく暇つぶしと称して黄仙にはありとあらゆる医療技術を習った。

「……でも、本当に、みんなには感謝してるよ。あそこで拾ってもらえなかったらこんなに長い間一人きりで発狂してただろうし」
「……別に拾ったつもりはないわ。長く生きてるからたまたま関わることも多かっただけであろ。その流れでたまたま、その、…友人というものになったとして、そなたに感謝される謂れなどないわ」

 友人と真っ向から言うのが照れくさかったのだろう。薔君は少し頬を染めてそっぽを向いてしまった。

「はは、本当に薔君はツンデレだな」
「つんでれ?なんじゃそれは」
「君みたいな人のことだよ」

 彼女は覚えたての言葉をすぐ使いたがる癖があるので、詳しくは説明しないでおいた。

「…ところでナマエ、今度はいつ来るのじゃ」
「ん?なんだい、まだ来たばっかりだっていうのに」
「すぐ去るつもりなのであろう。わらわを見くびるな」
「………参ったなあ」

 人間の勝手で捕らわれてしまった彼女の傍に、暇つぶしと称して無理やりナマエが忍び込むのはいつものことだ。いつもは一ヶ月くらい傍に居て、またふらりと立ち去るのだが。

 もう、物語が始まってしまう。その時に、ナマエは居ない方がいい。

「………ちょっと、野暮用があってさ。関わるかどうかはまだ、決めてないんだけど」
「どういうことじゃ?」
「………そうだな、君が一人の少年を助けてしまったせいでこうなっているように、私も…物語に介入したら、その報いを受けるかもしれない。その責任を取る覚悟が自分にあるかどうか、分からないんだ」

 ナマエは物語を知っている。ナマエが知っている物語の中にしか行けないようになっている。最初のころ侑子に忠告された通り、紫仙に頼んで自分の記憶は残らず保存しているので、物語の細部まで、今でも好きな時に記憶を引き出すことができる。

 そして、それに介入すべきかどうか。いっそ身を潜めるべきなのか。ナマエはまだ迷っていた。

「何を言う。そんなもの、そなたの好きにすればよいのじゃ」
「………でも、君がここにいるのは、」
「それはわらわが仙だからじゃ。わらわはわらわの行動に責任を取らねばならん。…そなたはそなたの好きにすればよかろ。……そなたは、人間なのじゃからな」
「薔君…」

 ナマエはぎゅっと唇を噛みしめた。…どのみち、ここに来たのには意味がある。
 自分の願いを思い出せない以上、ナマエは自分の意思に従って行動を続けるより他にないのだ。いつ終わるとも知れない旅の中で。

「いつまでもそんな顔をするな。そなたはいつものようにへらへら笑うのが似合っておる」
「…へらへらって、ひどいな。もう来てあげないぞ
「……………」
「はは、嘘だよ。また会いに来るよ。でもきっと、その時は、君はこんな檻から抜け出していると思うけどな」
「そんなわけあるか。…わらわがここから抜け出すには何を対価にせねばならんか、そなたも知っておろうが」
「うん、世界、でしょ。でも大丈夫。それでもいいっていう人間だっているんだ。…それじゃあね、薔君。また会う時は、本物の空の下で」

 そして姿を消したナマエに、薔君はわけが分からないという顔をした。
 仙じゃないくせに、時折仙よりもわけの分からぬ奴だ、とぼやきながら。



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