安室透との邂逅

 それは全くの偶然だった。

「あれ?コナン君じゃありませんか」

 コナンと一緒に街中を歩いている時。掛けられた声に、ナマエは固まった。一瞬で全身の血液が凍り付いたようだった。
 コナンはすぐに振り向いて、

「あれ?安室の兄ちゃん!」

 と子供らしく対応したが、ナマエは振り向けないままだった。それを不審に思ったらしいコナンがナマエの顔を覗き込み、その顔から血の気が失われ蒼白になっているのを確認する。

「…ナマエ姉ちゃん?」

「そちらの方は?」

 安室はにこやかに、そして飽くまでも紳士的にナマエに尋ねた。

「あ…えっと、博士のお客さんなんだ。ちょっと気分が悪くなっちゃったみたい。あんまり具合が悪くなるとよくないから、またね、安室の兄ちゃん!」

 何かを察したらしいコナンがナマエを彼から遠ざけようとしてくれたが、彼は彼で何かを察したらしい。いまだ振り向かないナマエの肩に、手が添えられた。反射的に撥ね退けそうになるのは意地で抑えこんだが、細かく震えるのは抑えられなかった。

「それはいけない。送っていきますよ。だいぶ顔色も悪いようですし。倒れたらコナン君じゃ運べないでしょう?」

 傍に車があるので、と示した安室は、そのままナマエの顔を覗き込もうとした。ナマエはぎゅっと固く手を握り、必死に顔を背けた。しかし抵抗もむなしく、目と目が合う。

「……あなたは……」

「……っ」

 安室が目を見開いたのが、スローモーションのように分かった。
 それが限界だった。置かれた手を振り払い、身を守るように自分の腕に爪を立てるほど固く握りしめ、安室と距離を置く。
 コナンは、黒の組織の気配を感じ取った時の灰原のような反応を示すナマエに、しまった、と思った。一体どうこの場を収めればいい?何といえば安室は引き下がる?
 ちょうどその時。

「コナン君?どうかしましたか?」

「あ……昴さん」

「おや…あなたは確かナマエさん…もしかして、博士のところへ向かわれるんですか?」

「う、うん」

「ではご一緒しましょう。お隣ですし」

「そ、そうだね」

 さりげなく安室とナマエの間に割り込みながら、ごく自然な様子で昴はナマエに肩を貸した。その肩にナマエがぎゅっと縋りつくのを、安室はつぶさに観察している。

「それでは、失礼します」

 昴は安室に軽く会釈すると、踵を返した。安室がそれ以上追求してくることはなかった。



 三人は工藤邸ではなく博士の家に入った。博士は出かけており、灰原は地下へ籠っているらしい。ドアを閉めた瞬間、ナマエはそれまで縋りついていたのが嘘のように昴から離れた。

「おっと。…もう大丈夫ですか?」

「………っ」

 ナマエは二、三度口を開閉したが、結局言葉を発することなく身を翻して、いつも逃げ込む一室へ向かったようだった。

「あ、ナマエさん…!」

「今は追わない方がいい」

 その後を追おうとしたコナンを、昴が引き留めた。コナンはその顔を見上げ、しばらくじっと考えた後、窺うように口を開いた。

「………ねえ、ナマエさんと昴さんと安室の兄ちゃんって、やっぱなんかあったの?」

「…ボウヤが知るにはまだ早い」

 沖矢の声は硬かった。三人のただならぬ関係には、やはり何かあるらしい。



「いやだ、さわるな、くるな…っ!おまえはたすけないくせに!おまえはいちどもわたしをたすけない、おまえはわたしにいやなことをする…っ」

 逃げ込んだ部屋の片隅にうずくまる彼女は混乱しているようだった。昴はコナンを下がらせた。

「なんで、なんで、なんで!わたしはいうことをきいてたのに!たすけるって言ったのに!」

「…………ナマエ」

「いやだ!わたしはマッドドッグじゃない、いぬじゃない、いぬじゃない、いぬじゃない!」

「ええ、あなたは人間ですよ、ナマエさん」

「いやだっ…よるな、さわるな…!」

「いやなことはしません。傍に行きますよ」

「いやだっ!」

 昴は二三歩そばへ寄ったが、彼女の恐慌状態は酷くなるばかりだった。下がらされたコナンがナマエを案じて昴を見上げた。本当に大丈夫なのか、と。

「……コナン君、少し出ていてくれませんか。部屋に誰も近づけさせないで」

「でも…」

「少々手荒になると思いますので」

「………酷いことしない?」

「それは、お約束しかねますが。大丈夫ですよ、大丈夫」

 コナンは疑わし気に昴を見つつも、言う通りに外へ出てくれた。




「さて、と」

 昴は声を切り替えた。赤井本来の声へ。

「マッドドッグ、いつまでそうやって醜態を晒すつもりだ?」

 怯える彼女の制止の声など一切無視し、傍へわざと足音を立てて歩み寄る。ジンが彼女にいつもそうしていたように、赤井は彼女の首を締めあげた。

「俺がいま見たいのは貴様のそんな姿ではない」

「あ…ご…ごめんなさい…」

「謝罪に何の意味がある?」

 ジンがいつもそうしていたように、強く彼女の首を絞める。
 彼女の過呼吸が収まった。本能的な恐怖は時に精神の恐慌状態に勝る。いまここで醜態を晒し続ければ死もありうると彼女は知っている。いまここで、“ジン”の前で。

「見苦しいところを見せて…もうしわけ…ありませ…」

 呼吸が徐々に正常に戻る。組織でならば一瞬でできていたのができなくなっているのは、気が緩んでいたところに急に昔の顔に会ったからだろうが。

「足りないか?」

 チャキ、と冷たい金属音を耳元で響かせる。彼女は容易に銃を想像したのだろう。青ざめていく表情とは反対に、呼吸は正常の範囲内に戻っていた。

「…………………落ち着いたか?」

「………沖矢……さん…?」

 焦点が定まっていなかった彼女の瞳に光が戻った。その瞳が正確に昴の瞳を捉え、そして見開かれた。

「さ…わらないで!」

「…やむをえなかったんですよ。いつまでもここに居続けるわけにもいきませんし」

 昴はぱっと彼女の首から手を離した。
 かたかたと彼女の全身が震えているのが分かった。

「……いいんですか?“僕”の前でそんな姿をさらしても」

「…っ、好きで晒してるわけじゃ…!」

 彼女は心底屈辱的そうな顔をしていた。しかし震えを自分でとめることはかなわないらしい。

「気が緩んでいるのでは?…これくらいのこと、あなたにとっては日常だったでしょう?」

 少女は沖矢を睨み付け、自分自身を落ち着かせるように強く体をかき抱いたまま、荒く息を吐いた。

「…………日常だからって慣れるというものでもないの。…五分で収めるから、出て行って」

「…まぁ、今日のところはそうしてもらうのが最善でしょうね。それでは僕は扉の前にいますから」

 その肩を抱くなり背を撫でるなりして落ち着かせてもよかったのだが、今の彼女にそれをしても逆効果だろう。昴はあっさりと部屋を後にした。



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