05



いやだ、痛い、怖い――そんな言葉を吐き出すことは、もう忘れてしまった。
 ごめんなさい、と何回謝っただろうか、許さない、と何度言われただろうか。愛の頭上で手を振りかざす父の激昂は止まらない――。
         *
「愛ちゃん?」
「……ッ!」
 肩を揺さぶられ、目を覚ますと目の前に高見の顔があり思わず声が漏れた。驚きと、安堵で。
「俺今から仕事行くから。朝飯作っといたから蒼にも食べさせといてくれ」
「あ…はい…、ありがとうございます」
 部屋にかかっている時計を見れば、短針が7を指している。勤務先は比較的近いとはいえ、自転車と徒歩で出勤している高見の朝は早い。ここ最近では朝食を作るのも愛の仕事だったが、今日は寝過ごしてしまったようだ。申し訳なく思っていると、高見が苦笑いする。
「俺が起こさなかったんだ、今日はのんびりしてたらいい。冷蔵庫にジュースと菓子もある。玄関は俺が出ていったら鍵、かけといてくれ。誰が来ても出るなよ」
「わかりました。た、高見さん…、いってらっしゃい…」
「ああ、行ってきます」
 照れ気味に手を振った愛に、高見は笑むと手を振り返した。ここ最近でできるようになった、愛の精一杯の甘えだ。
 高見が玄関から出ていくと、言われた通り鍵をかけた。簡易キッチンの隅にある冷蔵庫を開けると、ラップされた朝食が準備されている。いやな夢を見ていたとはいえ、ただでさえ養って貰っている身なのだ、これ以上は甘えられない――明日からはきちんと起きなければ、と自分を叱咤し、すうすう寝息をたてている蒼の隣に座り込む。テレビをつけると、銀山市バスジャック事件が大きく取り上げられていた。
 ――あの日からもう一カ月がたった、つまり、高見の家に愛と蒼が転がりこんでからそれだけの時が過ぎたことになる。
 バスジャックと横領事件はここ最近になって報道回数が増えた。バスジャック事件は被害者が出ず、更には警察にもしばらく気付かれなかった非常に巧妙な犯行として、手口は詳しくワイドショーで取り上げられている。
 横領事件は税金の歳出と歳入の資料に修正された痕跡があっとして調査が続いているらしい。また、会合のあった日にバスジャックがあり、市長が身代金を請求されたことから、何かしらの関連を疑われているとのこと。
「……高見さん、大丈夫なのかなあ…」
 ここ一カ月で、高見優という人の人間性が露わになってきた。一言で言うと、自分が被害をこうむるとしても困っている人を置いていけない、そんな優しすぎるタイプ。過去付き合っていた女性に、「優しすぎて、面白みにかける」と言われフられたという話を傳田から聞いた。何それ、贅沢すぎ。そう思った愛は間違っていないだろう。高見にそれを言うと渋い顔をされた。思い出したくなかったらしい。
「…おねーちゃん?」
「あ、起きちゃった…?」
「んー…おにーちゃんは…?」
 先日、高見にUFOキャッチャーでとってもらったくまのぬいぐるみを抱きしめたまま、目をこする。この一カ月で蒼は高見に完全に懐いてしまった。今まで一緒にいた大人は、ろくでもない人ばかりで、優しい高見といるのは安心できるらしい。最近では、愛よりも高見にべったりだ。
「高見さんはお仕事だよ」
「……ごはん」
 お腹がすいた、と主張するように、蒼の腹が鳴った。愛はくすくす笑って、キッチンに向かう。
 今まで、考えられなかったほどの平穏だ。幸せな生活だ。
――それらを全部与えてくれたのが、巷で騒がれているバスジャック犯なのだと、一体誰が信じてくれるというのだろう。
         *
「映画と遊園地、どっちがいいかな〜」
 目の前でにやにや笑う傳田に、高見は眉根を寄せた。この先輩は、また何か面倒なことを考えちゃあいないか。いやな予感が襲ってくるが、今むやみに話を変えたほうが面倒臭いことはわかっている。
「何の話ですか、傳田さんとうとうデートする相手でも見つかりました?」
「違うわよ〜愛ちゃんと蒼君変身させて、どこかに連れていってあげようって計画中なの。渡辺さんと私と志方さんで」
 あれ、なんで俺抜かれたんだ。なんて冷静に考えながら、珈琲のおかわりを注文する。傳田は、高見が異議を唱えることを待ち構えているようで楽しそうにニヤニヤ笑っていた。思い通りになるのも癪なのでここは無視して話を進めることにする。
 現在二人がいるのは、銀山市商店街内のさびれた喫茶店だ。仕事の後呼び出された高見が、何か重要な話かと思ってきてみれば、この通りである。
「…何だ、それ。志方さんは了承してるんですか」
「勿論してないわよ」
 志方潤、41歳、銀山市税務課課長。彼もまた、バスジャック事件の犯人の一人であり、高見たち三人と同じ高校の出身だ。肩書きを見るだけで堅い彼を巻き込んで、一体何をする気なのやら。何年付き合っても、傳田歩美という先輩の考えることはわからない。
「ちなみに、高見君を抜いたのはちゃんと理由があるわよ〜ここでは言わないけど」
「…察せと」
 しかし、大体わかった。バスジャックの実行犯の高見は、女装し、マスクや眼鏡などで顔を隠していたとはいえ、どこからバレるかわからない。あまり一緒に出歩かない方がいいのだろう。しかし、先日愛と蒼を連れ、近所のゲームセンターに行った身としては、今更だ。それに、バスに乗っていた少数の乗客の住所は、中年オヤジを除き、事情聴取をした渡辺から高見に伝わっている。その周辺には行かないよう心がけ、愛と蒼が見た目の印象を変えれば、滅多にバレることはないだろう。
「…察しました。…大丈夫だと思いますが、なら一応は…行かないことにします。」
「あれ、今残念そうに聞こえたけど?あれ?まあいいか。それで日取りはいつがいいかな〜」
「………」
 実は自分も愛たちと出掛けたい、などと言いだせない高見を、傳田は見透かしたようににまにまと笑う。意地が悪いこの先輩は、高見がまるで小さい子の様に「俺も一緒に行きたい」と言うのを待っているのだろう。そうはなってたまるか、と変な意地が働く。
「あ、その前に二人のお洋服新しく買わなくちゃね。大丈夫!あたしがもつから!」
 当たり前だ。ここ一カ月、食費と光熱費だけでも馬鹿にならなかったというのに――更に余所行き用の服まで買えと。そうは思うものの、計画外のことをし、二人を家に住まわせているのは高見だ。必要な金をもつのは当たり前だろう。一応礼を言うのが筋だ。
「…それは、ありがとうございます…」
「いや、いいの。…あ、それで、最近不便なこととかない?」
 こういった、人の目と耳がある場所での会話は当たり障りないものばかりだ。人から疑われるような言動は、極力避ける。四人はそれを徹底していた。
 だからこそ、バスジャック実行犯の高見は女装して事に及ぶ事になったのだ。今でも高見は、そのことを根に持っている。勿論計画の成功には、欠かせない物だったのだが。
「それは大丈夫だと思いますけど…できれば愛ちゃんに何か必要なものとか無いか、訊いておいてくれますか」
「あ…そうね。男に言いにくいこともあるしね」
 バスジャックから二週間経ったころ、遊びに来た傳田に愛が俯きながら、生理が…、と申し訳なさそうに言ったことは記憶に新しい。出勤していた高見は知らないが、傳田が一式用意したのだ。
「生理のことも。ちゃんと気を使ってやんなさいよ。ただでさえ男と同棲なんかしてるんだし」
 バツの悪そうな顔をした高見は、気をつけます、と小声で言うと珈琲を一気に喉に流し込んだ。公の場で女性が、そういった事を話すんじゃない!とは思ったものの、今は高見が駄目だしをされているのだし、素直に聞いておくべきだろうとの判断だ。女の事情は女にしかわからない。
「…それで、映画と遊園地、でしたっけ。遊園地の方がいいんじゃないですか」
 どっちも碌に行ったことがないので、よくわからないが、子供は遊園地の方が好きそうだ。そんな安易な考えで遊園地を推してみると、傳田が深くため息をついた。
「蒼君じゃ乗れないものとか多いじゃないの。それにジェットコースターとか、愛ちゃん苦手そうだし」
 そう思うならなんで選択肢に入れた。
「なら映画でいいじゃないですか」
「それだと、蒼君も愛ちゃんも私たちも面白いと思えるものじゃないと駄目でしょ?今ってあんまりそういう老若男女向けの映画やってないのよね〜」
「…老若男女って」
 まさかその「老」は志方さんのことか。志方さんまだ41だぞ、失礼だろ。そんなことを考えて顔を顰めていると、傳田が「あっ」と何か閃いたと言わんばかりに声をあげた。
「水族館とか動物園どう!?」
「……はあ」
 この話はいつまで続くのだろうか。遠い目をしながら、高見は珈琲のおかわりをした。
         *
 銀山市市役所、税務課。
 ここ最近、警察の出入りが頻繁に行われているそこで、課長の志方はパソコンの画面を見て顔を顰めた。
「…どっちも捨てがたいぞこれは…」
「そうかなさったんですか?課長」
「何かあったんですか?また横領のこととかですか?また警察の方が来るとか?」
「…いや、そうじゃないんだ」
 課内では、二枚目として人気のある志方に、珈琲を入れてきた女子職員が我先にと尋ねる。尋ねられた志方といえば、最早パソコンの画面と睨めっこ状態である。
「あれ?これって…」
 画面に表示されたサイトに女子職員は目を見開く。それは当然の反応だった。
「課長、動物園行きたいんですか?」
 銀山市動物園。
 ホームページの真ん中には、その文字が点滅していた。
「…水族館と動物園で迷ってるんだ。どっちがいいかな」
「えーっ!何それ、かわいー!ギャップよギャップ!」
 きゃあきゃあと盛り上がり始めた女子たちに、課内の男共は仕事しろよと言わんばかりの視線を向けた。ただでさえ、税務課は横領のことで信用がガタ落ちだ。市長達の工作のせいとはいえ、誰も歳出記録の不正に気付けなかったのだから。
――否、一人だけ、把握していた者はいた。
 志方潤だ。彼は銀山市バスジャック事件四人目の犯人であり、歳出記録の不正について詳細を指摘した文書を作成。警察に届ける三千万に同封した。
 勿論、その記録を作る事が出来たのは、志方が只単に税務課の人間だったからではない。
 勧誘されたからだ。
 『1230』に――。
「課長、女子独占しないでくださいよ〜ほら、お前ら仕事仕事!」
 渋々自分たちのデスクに戻る女子職員達。しかし、志方はそんなものには興味が無いと言わんばかりに、相変わらずパソコンと熱心に見詰めあっていた。
「…志方課長。そういうことは仕事の後にお願いします」
「竹島君はどっちがいいと思う?」
「はい?」
「動物園と水族館。動物園ならリスが見られるし、水族館ならペンギンが…いや、銀山動物園にはペンギンもいたっけ?」
「……俺が嫁と行った時にはいませんでしたけど」
「そうか…だったらペンギン…水族館かな」
「……誰と行かれるんですか?もしかして恋人とか…」
 志方は課長という地位に就いていながら、41歳という年齢で未婚だ。更には、女性に人気があるにもかかわらず、周囲に女の気配が全くと言っていいほどない。
 しかし水族館や動物園に友人同士で行くことはまずないだろう。何せ41歳の男性だ。相手は女性に違いない。そのことに気付いたのは竹島だけではなかったようで、課で未婚、更に志方狙いの女子たちはギラギラした目をして、答えを待っている。当の志方は、そんな課の部下達に小首をかしげつつ、なんでもないように言った。
「高校の後輩たちだよ」
         *
「志方さんはペンギンが見たいらしいんだけど、蒼君的には動物園の方がいい?」
「……」
「あおくーん、動物さんみたい?」
「…くまさん、いる?」
「アライグマならいるんじゃないかな…」
「くま…」
 高見が傳田を部屋に入れると、愛と蒼は露骨に緊張し、自分から関わろうとはしない。人とふれあうことに不安があるのか、それとも人見知りなのか、傳田の性格が強烈なせいなのか、それはわからない。
 ただ、愛と蒼に深い心の傷があることは明白だ。最初、人質の二人を解放しようとした時、泣きつかれた時のことを思い出すと、自然と高見は珈琲カップを握る手に力を込めた。
「高見さん…?」
「…なんだ、愛ちゃん」
「あの…傳田さんが、動物園に行こうって…でも、今ってテレビとか、報道よくやってますし。危ないんじゃ…」
「ああ…渡辺さんの話だと、人質は解放されたとして捜査を進められてるらしい」
「え?」
「捜索届がひと月出ない時点でおかしいだろ。解放されたが口止めされて親に言えないって可能性もあるしな。まだ人質にされてる可能性もあるから一応ニュースでお前たちが乗ってたことは報道してないし、他人に言った場合も誰も信じないだろう。だから警察にも伝わらないだろうっていう考えだ」
「…?」
「…わからないならいい。ややこしかったか。まあ、…まだ警察は一応お前らを探してはいるし、危ない事に代わりはない」
「ご、ごめんなさい馬鹿で…で、でも。私たちが人質にされてたことを隠してて大丈夫なんですか?」
「警察か?犯人刺激して殺されたりしたらまずいと思ってるんだろ。まあ同感だ。それに、後でマスコミに露見しても、そういう理由で逃げられる」
 警察の考え方は間違ってはいない。しかし、高見は最初から人質はバスを降りてすぐに解放する気でいた。愛と蒼を人質にしたのは、横に座っていた中年男性から引き離すためだけだったのだから。
「変なの、高見さんは私たちを殺したりしないのに…」
「……あー…」
 時々不思議なことをいう愛だが、今回はどう反応したものか悩むことになった。警察は犯人が高見だとは知らないのだから、と笑うべきなのだろうか。
「殴ったりも、しない、のに」
 しかし、次の愛の言葉に喉まで出かかった声が引っ込んだ。
 それと同時に、こんな会話になってしまったことを申し訳なく思う。
「…ああ、しない。俺がお前らを殴るわけないだろ」
「し、知ってます!だって、高見さんは…私を助けてくれたから」
 普通の人間は、バスジャックで人質に取られて「助けてもらった」なんて考えないだろう。しかし、愛と蒼では状況が違う。
 意図せず――とまでは言えないが、高見は愛達のヒーローになってしまった。
「愛ちゃん!愛ちゃん!」
「っ!は、はいっ!なんですか?傳田さん…」
 蒼の相手をしていた傳田が愛を呼ぶ声で、高見のぼんやりした頭が覚醒する。最近よく眠れていない。
 年頃の女と同棲、なんてものは女の扱いに慣れていない高見には高跳びすぎた。自分があまり人に執着しないことは高見が一番よく知っている。いままで愛のように長い間共に過ごした女性はいない。だからこそ、変に気を使ってしまう。
 そもそも、喫茶店で傳田に、最近不便なことはないか、と訊かれてすぐに思い浮かんだ事は、部屋が一室しかないことだった。いい歳の男女と年端もいかない子供の3人で川の字になって眠っている今の状況――愛は気にも留めずすうすう眠っているので、意識している自分がたまに恥ずかしくなってしまう。高見が玄関先で寝てもいいのだが、この季節は寒すぎる。
「はぁ…」
 控え目な愛は自分に不満を言わない。住まわせてもらっておいて、だなんて言わせたくないのによく口にする愛に、高見はよく不安になっていた。もしかしたら、俺が臭いとか、うざいとか、そんな風に考えているかのしれないし、と年頃の娘を持つ父親のように心配する。
 虐待されていた状況に比べたらましだから。
 今の生活をそんなふうに考えられていたら。珍しく消極的になっていると、そんな高見の様子を見透かしたように、傳田がにんまりと笑った。
「たーかーみーくんっ」
「っ!な、なんですか?」
「やっぱり高見君も動物園に行くこと!決定!」
「はい…?」
 面喰って、傳田と愛の顔を見ると、愛は顔を真っ赤にして俯いてしまっている。ここ1カ月の間でまれにみた、「めちゃくちゃ恥ずかしい」ときの顔だ。
「愛ちゃんが高見君も一緒に行きたいって」
「……っ!や、やました、さん…、い、いいですから!高見さんにご迷惑かけたくないですし…!」
「遠慮はするな」
 思わず先程まで考えていたことが口から滑り落ちる。
「え…?」
「お前、俺に文句とか何も言わないだろ。言っていい。したいこととか、高卒で低所得の俺に遠慮してるのかも知れないけど、気にしなくていい」
「………、そ、そんなこと…文句なんて、ないですし」 
「今少し間があったぞ」
 指摘すると慌てだした愛に、高見の顔は渋くなる。傳田は相変わらずのにやにや笑いだ。
「俺は愛ちゃんのことを、もう他人だとか思ってないから。迷惑がられても、御節介でもちゃんと面倒見るから」
 だからちゃんと頼ってほしいんだ。男と女で、やりにくい事はたくさんあると思うけど、俺、頑張るから。
 たどたどしく、しかし本心から言葉を投げかける。愛は俯いて聞いていた。その顔は心なしか、赤い。ややあって、愛が顔をあげる。
「…ありがとうございます、高見さん…」
「…ああ」
 はにかんだ愛が今迄みた表情の中で、一番可愛らしくて、高見は思わず目をそらした。

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