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 12月30日。
 男は、バッグに必要なものを取りそろえ、そのバスへと乗り込んだ。22時。駅行きのバスには殆ど乗客はいない。乗車口に近い席に座ると、車内を見渡した。カップルであろう男女一組、小さな子供が一人、それに、中年男性と中学か高校生くらいの女の子がペアのシートに座っている。
『発車します』
 車内にアナウンスが流れる。
 バスが出発してすぐに、男は異変に気付いた。そして、席を立ち、中年男性に近づいた。隣に座っている女子が、男を見上げる。
 その目は濡れていた。
「……チッ」
 舌打ちをひとつして、男は鞄から――出刃包丁を取り出した。
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「はあい、皆注目ぅ」
22時数十分、最寄駅行きのバスもこれで残り一本となった今。車内に甘ったるい声が響いた。妙に通る声だったことは記憶している。
バス運転手の山内健太郎、今年で38歳は妻と娘の待つ家へ一刻も早く帰りたかった。いつも家に帰れば深夜で、娘はおろか最近贅肉の目立つ妻も熟睡している始末。娘の誕生日の今日こそは、と思っていたがバス運転手は年末年始もほとんど休みがとれない。12月30日の今日も例外ではない。
「見える?見えてるぅ?」
 馬鹿そうな女だというのが、第一印象だった。甘ったるいが、決して高くないハスキーな声、今時どこにでもいそうな容姿。巻き髪にニット帽、テレビで流行っていると取り上げられていた伊達眼鏡らしいフレームの太い眼鏡、インフルエンザ対策だと思われる――後の行動を考えれば顔隠しだったのだろうが――シンプルなマスク。服装は寒さ真っ盛りの今丁度いいくらいの厚着だ。
 一体何を言い出したのだろう、と赤い信号を見、停車した山内は怪訝に思いバックミラー越しに女と周囲を観察した。乗客は高校生くらいの女子と、まだ小学校にも通えないであろう小さな男の子を連れた、メタボリックな中年男性。おそらく親子だろう。それに、まあ若いもんがこんな時間に、と言われてしまいそうなカップル一組だけだった。皆何故か女に釘付けで、誰も言葉を発しない。バス内はしんとしていた。
 このバスは田舎と言われても仕方がない、いまだに山ばかりの場所から出発する、遠出用のバスだ。銀山市は、山も海もあることが自慢の県に存在するので、こういったことは珍しくはない。到着先は最寄駅から1分の市役所前。この路線は需要が少なく、一時間に、昼間は多くて二本、夜には一本しか走らない。つまり、出発した時点で客が大勢乗ることはない、駅に向かうにつれ普通なら客は増える。しかし夜はほとんどがらがらだ。乗客が少ない今といえば、先程出発場所であるバス停を出たばかりである。駅までは後一時間以上かかるだろう。
「は…?」
 運転手、山内はバックミラーに映るものに思わず声を上げた。まさか、そんな。そういった思いが多く、振り返り乗客達を確認することを躊躇させた。しかし、信号が赤の今しかそんなチャンスはない。山内はおそるおそる振り返った。
 目に飛び込んできたのは――包丁。
それも刃渡り20センチはくだらない、出刃包丁だ。
 それを、なんと乗客の一人につきつけている。刃先を向けられている中年男性は、顔面蒼白で、小刻みに震えていた。カップルの一人が――言わずもがな女が、甲高い悲鳴を上げた。
それを見て包丁を持った女性が口端をあげる。
「静かにして?でないと殺しちゃうよ、このオジサン」
 ――おいおい、マジかよ。
 38歳、つまるところ、15年近くバス運転手をしてきて初めてのことであった。山内は、今夜はきっと帰りがもっと遅くなるのだろうと悟った。すまん、芽衣子、帰ったらちゃんとプレゼント渡すから――帰れたらだけど。娘に心の中で誤って、震える手でハンドルを握った。

「…と、最初の印象はそんなとこですかねえ」

 山内は、先日起こったばかりのバスジャックの全貌を、刑事たちに吐きだしていた。
 銀山市バスジャック事件――。
 そう名付けられたバスジャックに、不幸にも居合わせた運転手、山内健太郎は事情聴取を続ける刑事たちに尋ねた。
「あの、お聞きしたいことが…あるんですけど」
「なんですか?」
 顔を上げたのは、整った顔をした優男風の刑事だ。ドラマでよく、極道みたいな刑事が事情聴取で恐喝未遂じゃないかというほどに声を荒げているが、あれは嘘なんだなあと、他人事のように思った。山内の場合は、犯人ではないのでそんな必要がないのは当たり前なのだが今は頭がまわらない。何せ色々とありすぎた。
「なんで今になってバスジャックが報道されてるんですか?…もしかして、警察の捜査までに時間がかかったのは市の根回しのせいですか?」
「…どうしてそう思われますか?」
 バスジャックが起きて実はもう一週間が過ぎた。驚くべきことに、バスジャックが報道されたのは今日、そしてジャックされたバスを運転していたのが山内だと判明し、警察がやってきたのは昨日のことだった。
 お父さんなにかしたの?と疑うわが子の視線が痛かったなあと、思い出し涙が出そうになるのをこらえる。
「あの、山内さん?」
「あ、はい、すみません…。えっと」
 バスジャックにあったカップルはすぐさま警察に通報したらしい。しかし、相手にされなかった。そりゃあそうだろう。カップルも、乗っていた中年男性も、目的地である銀山駅でかすり傷ひとつなく無事に降車したのだから。バスが正規のルートを無視し走ること、大きなダイヤの乱れさえなかった。事件にかかわった者以外、異変に一切気付かない。今までそんなバスジャックがあっただろうか。
「犯人の女性が言ってたんですよ。1230を公表してもいいのか、って…もしかして、不正の証拠とかそういうものだったのかと…」
 1230。その数字の羅列にどんな意味があるかは分からないが、脅し文句に使うなら安いものではないだろう。
「…あなたにも詳細を聞きたいので、お話しますが…。…今日、ニュースはご覧になりましたか?」
「ああ、はい。バスジャックと東北での路面スリップ事故のものだけ」
「バスジャックと本当に関連性があるかはまだはっきりしていないのですが、実は銀山市で横領疑惑が浮上しています」
「……え?」
 目が点になった。
「業務上横領罪にあたるんですかねえ…、先輩」
「多分な」
 返事をしたのはノートパソコンの画面に視線を向けたままのもう一人の刑事だ。優男風の刑事――三原尚とは違い、無表情なので、山内は時々自分が疑われていやしないかと冷や冷やしていた。そういえば名刺貰ってないから名前はわからない。
「今の捜査段階でわかっている分では、横領は三年前から。今の市長、藤原市長になってからです。…あの、山内さん?」
「え?あ、はい!すみません」
 呆然としているうちに話がさくさく進み、ついていけない。山内はあわてて三原に視線を合わせた。
「つまり…もしかして、市長が税金を私用に使っていた、と?」
「端的にいえば、もしかしなくてもそうですね。ちなみに捜査が遅れたのは年末年始だったこともあり人出が少なく…バスジャックの明確な証拠がバス内に何も残っていなかったため、バスに乗り合わせたカップルの電話を悪戯として処理したからですね。犯人が証拠隠滅したのかは不明ですが…山内さん、業務後怪しい人物が営業所に出入りしていませんでしたか?」
「すみません…、実は娘が誕生日で…車内点検もろくにせずに帰ってしまいました…」
「…そうですか」
 三原の訝しげな視線にも気づかず、あれはそういうことだったのか。と、山内は内心勝手に納得していた。
 ――バスジャック犯の女性の言動。あれは裏金を示唆していたのだ。
「それでは山内さん、引き続きバスでのことを詳しくお願いします――」
         *
「動かないでね?」
 女性が人質にとったのは中年男性の方ではなく、少女と中年男性の前の席に座っていた小さな男の子だった。細腕ながら、ひょいと抱き上げて包丁をつきつける。
「や、やめてっ!弟を放してください!」
 少女が声を上げた。悲痛に満ちたそれは弟を心配するものだったにもかかわらず、何故かその言葉には真剣味、というよりは真実味が足りていなかった。何故なのか全くわからなかったが、それよりも、横にいる中年男性のことが気になった。一緒にパスに乗っているところを見れば、父親か親族に違いないだろう。
 しかし男性は何も言わず先程包丁をつきたてられたからか、動こうとしない。それはわが子を守ろうとする父親の動きではなく不審感が募った。まさか、少女と中年男性は他人なのだろうか。しかし、そうだとしたら少女は何故、これだけ空席があるというのに、わざわざ男性の座るペアシートに腰掛け、弟とは別に座ったのだろう――そこまで考えた時、信号が青にかわる。バスをだしていいものか、躊躇った。
「静かにねえ。ちゃあんと静かにしてれば弟君は死なないからァ。全員、あたしの言うとおりに動いて?」
 てきぱきと答えたバスジャック犯は、男の子を軽々抱え上げ小脇に抱えた。出刃包丁が首元に据えられる。乗客たちは首を縦に振った。
「まず、全員携帯電話だして?それで、ホラ、お姉ちゃん、回収して」
「っ…はい」
 指示された少女は弟のためにと立ち上がり、中年男性に視線を向けた。男性はすぐに携帯を取り出し、少女に手渡す。
「あ、運転手さん。出していいよ?安全運転よろしくねえ。ただ…本部に連絡とかはダメだよ?」
「…っわかりました」
 言うとおりにしなければ、少年はおろか、自分も殺されるかもしれない。このときはそんなふうに考えたが、今改めて思い出すと、未然に防げたかもしれないことだらけだった。
犯人は女性。それも凶器は刃物。
 大人の男――中年男性も、バスを運転している山内は無理だがカップルで座っている青年も、本気で抵抗していれば取り押さえることができたかもしれない。少年が人質に取られる前ならいくらでも隙はあった。
だが、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。
「携帯、そこの袋に入れて」
 犯人が顎で指した先には彼女のバッグ。バッグの中身は視力の良い山内でも流石によく見えなかったが、少女はうなずくと、集めた携帯をバッグから取り出したエコバックのような袋の中にすべて入れた。
「入れました…」
「じゃあそのなかから一つとって?」
「あ、はい…」
 少女が言われた通り、中から携帯を取り出す。黒いそれは中年男性のものだったが、少女は手探りで袋から取り出したそれを戻し、違う携帯を取り出した。ピンク色のそれは、カップルの女性が持っていたものだ。何故だろうと考えたが、父親のものなら触られたくなかったのかもしれない、と無理やり納得するしかなかった。
「ごめーん、ちょっと借りるねえ?あ、運転手さん。これから駅はしばらくスルーしてください。お願いしまーす」
「は、はい…」
 言われた通り停車駅を通過する。
 ちら、とバックミラーを見れば少女が携帯を開いていた。携帯を開くよう、犯人が指示していたのは聞こえてきた。運転に集中しなければと思いつつ会話を耳が拾ってしまう。
「運転手さん」
「は、はい」
「いったんバスとめてえ、交通局に連絡して?至急市長と連絡したいからってケータイ番号教えてもらってくれますう?」
 そのままバスを走らせ、15分ほどだった後、犯人が山内に命令した。お願い口調だがこの状況では命令も同然だ。
「え…と、あの…」
 確かにこのバスは市が運営しているものだが、交通局に直接連絡したからと言って市長の個人情報である携帯電話の番号を知ることができるのだろうか。普段の連絡先はこの路線担当の営業所。山内は一応緊急時連絡先として携帯には番号を登録してあるが無線では連絡できない。山内は不安になって、犯人を横目で見る。
「どうしたの?連絡できないとかあ?」
「い、いえ…ただ、本部に連絡しても…市長の番号を教えてもらえるか…」
「1230」
「え…?」
「交通局の局長さんに、もし教えなかったら『1230』を公表される、って言えば通るからァ」
「は、はあ…」
 1230。
 数字を並べられたが、意味はわからない。  
「1230」はどうやら市長にとって後ろめたい物なのだろうが、市長に一体何の関係があるのだろう。しかし、人質の少年がじっとこちらを見ているのに気づいてしまえば、もう四の五の言っていられない。山内は言われた通りに近くのバス停にバスを停車し――幸い新たな乗客はいなかった――銀山市交通局に連絡をとった――。
         *
「成程…犯人は『1230』を持ち出したんですね?」
「はい…あの。『1230』って何なんですか?横領に関係した事だっていうのはわかりましたけど…」
 刑事は話の内容を小型録音機に記録しつつ、考え込むようなそぶりを何度かみせた。それは、犯人の言動を聞いたときや、人質にされた少年と少女のことを言っている時がおおかったが――より深く、眉間に皺を寄せたのは『1230』と聞いたときだった。
「『1230』はおそらく横領をしたグループが使用していた隠語です。…12月30日の略でしょう」
「12月30日?」
 あのバスジャックがあった日であり、山内の娘の誕生日である。
「正しくは…三年連続行われた、『横領した金の山分け会』のことですよ」
「や、山分け…?」
 まるで山賊や強盗犯が遣うような言葉だ。
「まあ、罪を犯す奴っていうのは、同じようなことをするもんですよ。一人じゃできないから複数で、獲物は皆で均等に。一人に大金や高価なものが入れば疑われますが複数で分ければ額も少なくなりますからね。それに罪も複数でなすりつけあい、責任転嫁し放題でしょう」
「はあ…でも複数犯ということはだれかが裏切ったり、秘密を漏らす可能性が高くなるということでは…?」
「その通りです」
 あ、まさか警察が目を付けたのはそこなのだろうか。山内が尋ねる前に、刑事は机を人差し指で叩きながらつまらなさそうに言った。
「おそらく、そのグループの誰かがバスジャック犯人に秘密を漏らしたものだと思われます。妻になのか、愛人になのか、娘になのか、それとも全くの他人になのかはわかりませんが」
「…そのグループは…もう逮捕に?」
「いえ…市長の任期中なので、それにまだはっきりしていないし、言質もとれていませんので逮捕には踏み切れていません。書類送検止まり。ですから山内さんも、ご内密にお願いします」
「…市長が代わってから、横領が始まったと仰っていたので…まさかとは思っていましたが…」
「ええ。市長と、それから市長側の市議の派閥、それと事務の方でも何人かです。10人いるかはわかりません。そしてそのグループが行っていた12月30日の山分け行事―『1230』なんですけどね」
「はい…」
「あのバスが銀山駅の近くで停まるバス停、『瑞穂浦』の近くのホテルで行われていたんです」
「え…?」
 瑞穂浦は山内がいつも運転するバスが必ずといって停まるバス停だ。終点である銀山駅から近いので、大きなショッピングモール等もあり、近くにはビジネスホテルもあったはず。そして、記憶に新しい――バスジャック犯が市からの「身代金」を受け取った場所だ。
「じゃあもしかして…あの金は…」
         *

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