残照


漸う沈む夕陽を晏樹は三の姫の室の前で柱に凭れながら眺めていた。

あの男は気に入らないの!

誰が尋ねようと扉の向こうから返ってくる三の姫の言葉は同じだった。

室の中から閂を掛け押し入る事も出来ないまま、両親は仲人や祝いの席に駆けつけた重臣達と別室で話し合いを始めていた。

故に今此処にいるのは晏樹一人だけだった。

晏樹の嫌いじゃない蝶達も舞うことのないこの季節は庭を眺めていても面白味はないのかもしれないが、そんな寂しい庭先もやはり嫌いじゃないと飽きることなくその場にいた。

すると室の中から、カタンと小さな音がする。

「三の姫、こんにちわ。皇毅の友達の凌晏樹です」

扉に向かって何度目かの挨拶をしてみると、中から小さな声が聞こえてきたような気がした。

晏樹が扉の傍に寄ってみると、か細い声で「扇を持ってきて」と言っているようだった。

「君の扇が何処なのか分からないから、私の扇をあげるよ」

そう告げると、室の扉が少しだけ開いた。
風が抜けて晏樹の柔らかい髪が舞う。

「入れてくれるの?」

晏樹はゆっくりと室の中に進んで行った。

室中は彼女のお気に入りである化粧道具が床に散乱していた。
中には陶器が割れてもう使い物にならない道具もありそうだ。

その一つ一つに目を留めながら、晏樹は自分の扇を三の姫に手渡す。

渡された扇を開いて素顔を隠すと、三の姫はようやく晏樹の方を向いた。

「先程からわたくしの室の前から動かずに、一体なんですの」

「急に戻って来て、どうしたのかなって」

「そんな事、ご友人ならあの男に訊けばよろしくてよ!」

罵声を流しながら晏樹は足の踏み場もない室の椅子を向けて勝手に腰掛けた。

「だって皇毅は嘘吐きなんだもん。君に訊いた方がよっぽど本当の事が分かるんだよ」

「……言わないわ」

「そう、言えないくらい酷い目にあったんだね。私は誰にも言わないから、私にだけ本当のこと教えて?」

晏樹の落ち着き払った静かな声を聞いても三の姫はそのまま動かなかった。
この散乱した室を見ても全く動じない晏樹を珍しいと観察しているのかもしれない。

晏樹は三の姫が話し出すまで再び待つ事にして、薄い琥珀色の瞳を閉じた。





「……奥方がいました」

暫くしてポツリと三の姫が口にする。
その声は別人のように苦しそうであり儚げだった。

晏樹はゆっくりと目を開ける。

「いないよ、そんなもの」

晏樹は皇毅の邸をフワフワと遊びに行く振りをしながら、幾度となく様々な事を内偵していた。
だから地方にでも隠していない限り妻など存在しないと確信している。
そんな手落ちなど有り得なかった。

「でも、確かに邸に居ました……だから妻には出来ないと」

「………」

三の姫の扇が微かに震えている。

「凌晏樹様、わたくしの話を信じて下さるなら一つお願いがあります」

「どんな事かな」

自分の内偵をすり抜け皇毅が妻を隠していたと知らされた晏樹の声もまた深く沈んでいた。

「慌てて出てきてしまい、皇毅様に最後のご挨拶が出来ませんでした。わたくしはもうお会いする事は二度とないでしょうから、代わりに晏樹様から伝えていただけないでしょうか」

三の姫はひと呼吸して続けた。

「晏樹様がわたくしの代わりにその妻だという女を見てきてください。そして、その女がわたくしより少しでも劣るなら」


−−−皇毅様との縁を裂いて下さいませ


「それが……わたくしから皇毅様へのお別れの挨拶とさせていただきます」


彼女の持つ扇の端下から雫がぽたぽたと落ちていた。

晏樹は落ちてゆく涙を見ながら、静かに答えてやった。


「そうだね、必ず伝えてあげる」


晏樹にもどうしてこんな事になってしまったのか分からなかった。


今日も変わらないのは寒さが増してくる昊に昇る美し月のみ−−−




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