愛しい背
「薬は侍女の何方かに塗って頂きますので器を返してくださいませ。私が傍にいて皇毅様にキチガイがうつったら大変です」
埒があかないので精一杯興ざめな事をぶつける。
これで宮城の官吏達のように「もう失せろ」と命じられるだろうか。
指に貴重な軟膏を乗せたまま皇毅は目を眇めていたが、やがてクックッと低く嗤いだした。
「気違いは伝染などしない。なにせお前にしつこく絡まれても、紅秀麗の上司やっていても、凌晏樹のお守りをしていても、私だけは依然としてマトモだからな」
「それは……よかったです」
また何か変なことを言っている。
本当にまともな人は自分の事まともだとは言わないものだ。
「軟膏は皇毅様のお口に塗ってみたら如何ですか。その暴言が治るかもしれま……いたた、」
言葉の途中で玉蓮は顔を歪める。
体当たりして擦り切れた皮膚が炎症を起こしたのか今になって痛み出した。
背中に気を取られた一瞬の隙に玉蓮の身体は宙に浮きコロン、と寝台の上にうつ伏せに転がされた。
うつ伏せになった横に皇毅が腰掛ける気配がして驚くが、背中に何か塗りつけられている感触がした。
「皇毅様、!」
「この軟膏でお前の減らず口も治ればいいのだが」
恥ずかしい気持ちは擦り切れた皮膚の痛みにかき消され、痛みに堪えながら敷布に顔を埋めた。
傷口に塩でも塗りつける勢いで嫌がらせされるかと思ったが、優しく塗ってくれている。
背を向けた玉蓮が沈黙に堪えきれずほとほとと言葉を洩らした。
「今の私は皇毅様にとってしつこいキチガイでしかないでしょうけれど、もう少しだけおいてください。きっともう少しだけになると思いますから」
「………」
返事は返って来なかった。
旺季がどうして自分の故郷の村を焼いたのか。
皇毅はその時何をしていたのか。
それが分かったら本当に縁も終わり。出て行くつもり。
きっと皇毅にとっては知られたくない事だろう。もはや妻になど出来ない存在に成り下がってしまったけれど、知らないまま終わるよりもいい。
そう決めてしまったから此処にいる。
「今度はこんな変な妻候補連れて来ないで、名門の出で素直でマトモな奥様を娶られてくださいね。皇毅様をきちんと支えて下さる奥様が来てくだされば私も嬉しいです」
涙が出るのは背中が痛いから。
そしてこんな可哀想な自分に酔っている。
(みっともない…)
しかし涙する玉蓮が必死に声を絞りだして訴えた言葉は皇毅の耳には届いていなかった。
正確には背中を撫でる事に夢中で全然聞いてなどいなかった。
「それはそうと晏樹から何か言われなかったか。あの男が置き土産せずに帰るとは思えん。何を言われたか思い出してみろ」
一人で悲しみ、一人で盛り上がっていた玉蓮は皇毅の返事が全く噛み合っていない事に眉をしかめつつ、晏樹の言葉を思い出してみる。
けれど言い掛けにもならずまったく意味をなしていなかった。
「私に何か仰ろうとしていたのは確かですが、一言『あ』しか聞こえませんでした」
−−−−−−『あ』
皇毅はその一言で嫌な予感が的中した事を肌で感じた。
『阿片』
あの男はきっとそう言い掛けた。
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