願望 1 | ナノ

 急に頭が真っ白になったかと思うと、俺はドサリと床に倒れ込んでいた。
 一体どういうことだ。何故いきなりこんなことをするんだ。確かついさっきまで、こいつと抱き合っていたはずなのに。甘い雰囲気は一瞬で霧散してしまった。
 俺に回し蹴りをしてきた相手は、乱れた服を整えるのもそこそこに部屋から出て行こうとする。居心地が悪くて嫌いだった、俺の生家。ベッドとテレビ以外には大量の本ばかりのつまらない部屋でも、こいつはいつだって大きな目をくるくる動かして興味深そうにしていた。
 このままこいつを帰してしまったら、もう二度と会えない気がする。
 何故かそんな不安に駆られて、状況はまだよく飲み込めていないが、とにかく急いで後を追いかける。危うく滑り落ちそうになりながらも階段を下りて、小さな肩を掴もうと手をのばした。
 だが、掴めない。
 ……ああ、そういえばこいつは足がやたらと早いんだった。いつだったか手を握った時に、奇妙な叫び声をあげて走って逃げ出してしまったことがある。あのとき少しだけ触れた手の熱さは、今でもすぐに思い出せる。
 玄関を出て、通学路に出る。俺は必死に走るけれど、距離はどんどん開くばかり。あいつも必死なのかちっとも追いつかず、次第に息が苦しくなっていく。
 すっかり遠くなったあいつが、一瞬だけこちらを振り返る。そのとき俺は、頬に一筋、涙が流れていたのに気が付いた。
 彼の頬にも、俺の頬にも。





『ピリリリ―――……』
 聞き慣れた電子音にはっとして、まぶたを開く。枕もとに置いていた携帯電話を慌てて確認すると、着信の音ではなく、設定していたアラームの音だった。
(……そうだった、目ざまし時計の電池が切れてたから、携帯のアラームをセットしてたんだっけ)
 電話の着信音と似た音に設定していたから、仕事関係の連絡が入ったのかと身構えてしまった。小さく舌打ちをして、五月蝿いアラームを止める。
 カーテンを開くと、しとしとと枝垂れのような雨が降っていた。道理で空気が湿っぽい訳だ。あくびを一つしてベッドから起き上がり、洗面所に行って顔を洗う。歯ブラシを動かしながらふと、ある問題に気がついた。
 俺が持っていた一本だけの傘は、この間の台風で壊れてしまっていた。折り畳み傘も持っているが、会社に置きっぱなしである。……つまり。
(仕方ない。近くのコンビニまで走って、傘を買ってから会社に行くか)
 うちの会社の専務取締役なら『今日は雨が降っててダルいから休む』くらいのことは言いそうだが、一応普通のサラリーマンの俺には言えないわがままだ。
「…………サイアク」
 ぼやいたところで事態は好転しない。憂鬱な気持ちを流すようにコーヒーを飲み、朝食のトーストを口にくわえて、いつもより早めに家を出た。



 雨は一向にやむ気配がない。
 静かにとめどなく降り続ける雨はまるで悲しみの涙のようだ…と考えて、こんなセンチメンタルな乙女みたいな思いつきをしてしまうなんて、もはや職業病だなと密かに苦笑をする。
 丸川書店エメラルド編集部の編集長。それが今の俺の肩書きだ。以前勤めていた集談社では少年漫画誌の編集部にいたので、少女漫画は門外漢だった俺は、エメラルドに配属されてすぐに少女漫画を読みあさり、自分がくる前の雑誌掲載されたネームも全てチェックした。そのときに得た持論が、売れる少女漫画を作るには、購買層である少女たちの気持ちを理解しなくてはならないということだ。
 彼女たちは漫画に何を求めているか。夢のようなときめきか、燃えるような熱情か。大人の俺達が適当に作った一人よがりのストーリーなんて、肝心の少女だけではなく、きっと誰にも受け入れられない。
 だから、編集部内にぬいぐるみや人形といった少女趣味のものばかりを置いて、まずは環境から乙女に近づくのだと唱えた。編集部員を徹底的に叩き直すべく、大真面目に乙女だ胸キュンだと連呼した末に、他部署に付けられたあだ名が『乙女部』だ。俺はその乙女部の編集長だから、少々乙女思考になっていても仕方ないか。
 歩き慣れた坂道をのぼり、丸川書店の玄関で傘を閉じる。途中で購入した安っぽいビニール傘は、雨のしずくが張り付いてしばらくは乾きそうになかった。
「げっ、高野さんっ?」
 名を呼ぶ声に顔を上げると、今しがた到着したのだろう、傘をさした青年が目をぱちくりとさせて立っていた。

 小野寺律。
 俺の初恋の相手。

 薄い色素の髪を揺らして、白い頬を淡く桃色に染め、小野寺は戸惑った表情を隠さない。その正直な反応に、つい胸の中がむかむかとする。どうせ『朝から面倒な人に会った』とでも思っているんだろう。
「上司の顔見て『げっ』じゃねーよ。挨拶くらいしろ」「す、すいません。おはようございます…」
 目をそらして渋々と話しだす仕草を俺は嫌いではないので、少しだけ溜飲が下がった。閉じた傘を持ち、並んでエレベーターに向かう。ドアが開くと同時に、小野寺が意を決したように俺の顔を見上げ、口を開く。
「あの、高野さん……」
 続きの言葉を舌に乗せ、声に出される寸前。もう一つの耳馴染んだ声に遮られた。
「ああ、すまん、乗る」
「うわっ、横澤さ…」
 エレベーターに駆け込んできたのは、俺と背丈のそう変わらない男。大学時代からの友人の横澤隆史だ。横澤を見て、小野寺は苦いものでも飲んだような顔になり、小野寺に気付いた横澤は強面をしかめて、もっとおっかない顔になる。
 横澤は以前、俺に恋愛感情を抱いていた。きっぱりと断ってからは気の置けない友人同士という関係に戻っているが、俺の初恋のことを知っている横澤は、以前は小野寺のことを目の敵にしていた。今は誤解も解け態度も氷解してきているものの、一度芽生えた互いへの苦手意識はなかなか消えないらしく、横澤は眉間に皺を刻んでいるし、小野寺は乾いた笑みを浮かべている。
「……おまえ、人の顔見て『うわっ』はねーだろ。政宗、部下の教育位ちゃんとしろ」
「あー、まあ、確かにそうだな…」
 その上司には開口一番に『げっ』と言った部下に、いちいち注意するのも面倒くさい。ボリボリと頭を掻きながら生返事をすると、横澤はあっさりと引き下がり、俺に話を向ける。
「そうだ、政宗」
「ん? なんだよ」
「行きたいところがあるんだが、今度の日曜、買いものに付き合ってくれないか。校了も明けたばっかだし、暇だろ?」
「? ……まあ、いいけど」
 日曜には図書館に行こうと思ってはいたが、どうしてもその日でなくてはいけない用事ではない。
「じゃあ、また連絡する」
 チン、と到着を知らせる音が鳴る。横澤の所属する営業のある三階だ。じゃあな、と言って横澤は降り、エレベーターは俺と小野寺の二人を乗せて再び動き出す。
「…………にちよう……」
 小野寺が唐突にぽそりと呟いたが、よく聞き取れなかった。チン、とまた音が鳴る。
「なんか言ったか?」
「………っ、なんでもありませんっ!」
 そう言い放った小野寺は、ちょうど開いたドアの向こう、エメラルド編集部の方へ進み出す。
 どうして小野寺は俺につっけんどんな態度ばかりとるのか。俺を過剰に意識しているせいだとわかってはいても、横澤としたようには続かない会話のキャッチボールが、俺達の関係をそのまま表しているようで、もどかしい。
 ―――昔のあいつとは、もう少し話が続いていた気がするのだけど。
 溜め息を飲みこんで、俺も小野寺の後に続いた。





『………先輩が、好きなんです』
 真っ赤になって俯いた少年の顔は、俺からはよく見えない。変声期途中の高くも低くも無い声は耳触りが良く、鼓膜にすっと沁み込んだ。
 好き。真っ直ぐに向けられた真っ直ぐな愛の言葉に、心臓の音が早くなる。こんなに胸が熱くなったのは、いつ以来だろう。
『先輩は、俺のこと好きですか?』
 何を今更。好きでもない相手を、それも男を抱けるものか。何度も交わしたがむしゃらな口づけや愛撫に、想いの丈はこめていたのに。そんな心配をするこいつが馬鹿みたいで、そして可愛いと思った。つい笑みがこぼれる。
『好きに決まってるだろ』
 そう言おうと口を開きかけたところで、視界に火花が散ったのだ。自分が恋人に回し蹴りをくらわされたと理解するまで、数秒かかった。
 一体、俺はどこを間違えたのだろうか。掴んだはずの幸福が、手ですくった水のように、指の間からぽたぽたと零れていく。
 もう見えなくなった背中に懇願した。

 ―――待ってくれ。俺はまだ、お前に何も言っていない。





「………高野さん?」
 名を呼ばれ、はっと意識を呼び覚ます。編集部のいつもの机の前。窓の外では、まだ雨粒が静かに降り続いている。どうやら少しの間、ぼんやりしてしまっていたようだ。
「高野さんがぼーっとしてるなんて、珍しいですね。風邪ですか?」
 眉根を寄せた小野寺が、顔を覗き込んでくる。今朝と同様に、少し赤い頬が気になった。
「お前の方こそ、顔色悪くないか?」
「え?」
 目をパチパチと瞬かせた小野寺は、小首を傾げる。
「そうですか…?」
「熱でもあるんじゃねーの」
 前髪をかき分けて額に触れようとするが、益々赤くなった小野寺に即座に手を払われた。
「……大丈夫ですっ!これ、企画書のチェックお願いします!」
 紙束を押し付けて、小野寺は自分の机に戻る。隣の席の木佐にクスリと笑われているのにも気付いていない。
(…………まあ、本人が大丈夫って言ってるから、大丈夫なんだろうけど)
 そのときはそう思い、渡された企画書に目を通す。決断を下したのは五秒後だ。
「小野寺、これ、やり直し。全然駄目だ」
「…ッ、わかりました…!」
 再び立ちあがった小野寺はますます顔を赤くして、企画書をひったくっていった。





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