願望 2 | ナノ

「高野さん、お疲れ様です」
「お疲れ様でーす」
「ああ、お疲れ」
 足早に帰っていった羽鳥や木佐たちを見送り、もうそんな時間なのかと腕時計を見る。窓の外はすっかり暗くなっていた。
校了明けの編集部はがらんどうで、俺の他に残っているのは、昼間の企画書に未だに手こずっている小野寺だけだった。
「高野さん、チェックお願いします」
 その小野寺に、紙束をずいっと渡される。初めは何がやりたいのかわからなかった紙上に、この企画が実現したときのビジョンが見えていた。上出来だ。
「OKだ。このまま出して良い」
 俺の言葉に、小野寺がほっと息を吐く。
「今日は金曜日なので、これ、月曜の朝に営業に出しに行ってきます。じゃあ、俺ももう帰りますね…」
 頷くと、小野寺の上体がぐらりと傾いた。さっき返した書類がバサリと落ちる。
「………小野寺っ!?」
 床に倒れそうになった身体を抱きとめる。
 林檎のように赤い頬。薄く開いた唇からは、ひゅうひゅうと浅い呼吸が漏れている。前髪を掻き上げて額に触れると、汗でしっとりと湿った額はいつもの小野寺よりも熱かった。
(……やっぱり、熱があるんじゃねーか)
 道理で今日一日、妙に顔が赤かったわけだ。
 俺も今日の仕事は終いにしよう。この状態の小野寺を連れて電車には乗れないので、タクシー会社に電話をかける。十分ほどで着くということだったので、手早く帰り仕度をすませて、ぐったりと力の抜けた腕を首に回させた。小野寺をおぶるのはこれが初めてではないが、大の男を運ぶのはなかなか体力を使う。
 背に乗った小野寺は、それなりに重い。こいつは決して軽くはないし、もう子供でもない。一人の男なのだ。
 落とさないようにしっかりと小野寺の身体を掴みながら、エレベーターに向かって歩き出した。

 まだ降り続けている雨で服が湿っていくのが鬱陶しい。
 タクシーから降り、辿りついたマンションの玄関先。やっと小野寺をベッドに寝かせてやれる…と安心したのも束の間、思いがけない関門に当たった。
 小野寺の家の鍵が、見つからない。
 小野寺のカバンの中は、小野寺の部屋の中と同等に散らかっていて、何がどこに入っているのか見当がつかない。手を入れるといつかの頒布物のプリントが出てきたり、ゼリー飲料の空の容器が紛れていたり。財布と定期入れらしきものは見つかったが、その中に鍵は入っていなかった。
(……しょうがない、俺の部屋に入れるか)
 キーケースを取り出し、自宅のドアを開ける。少し乱暴にベッドに下ろすと、小野寺がうっすらと目を開いた。
「たか…の、さん……? あれ、ここ……」
「ここは、俺んち。お前のバッグ、中身がぐちゃぐちゃ過ぎて鍵見つけられなかったから連れてきた。お前、すげー熱があんじゃねーか」
「え……。そんなわけ……」
「嘘じゃねーよ」
「うそじゃないなら、ゆめですね……」
「……好きに思えばいいけど」
 寝起きのふにゃふにゃした小野寺の様子は、酔っ払っているときと大差ない。
 濡らしたタオルを額に乗せると、小野寺は気持ち良さそうに目を閉じる。ケホン、と乾いた咳がこぼれた。
(水、持ってきてやるか)
 確か冷蔵庫にミネラルウォーターがあったはずだ。
 寝室から出ようとドアに背を向けたが、何かに引っ張られて立ち止まる。振り向くと、俺の服の端を握った小野寺が見上げていた。
「………ゆめなら、別にいいですよね」
「?」
「これ、あげます」
 ごそごそとズボンのポケットを探り、くしゃくしゃになった紙を渡される。広げてみると、それは二枚の映画のチケットだった。宇佐見秋彦のデビュー間もない頃の小説が原作で、最近になって実写化した映画だ。
 そして、そのタイトルは、俺達にとって思い入れのあるものでもある。
「………これ、高校のとき、お前に借りた本が原作だよな」
 小説コハルに掲載されていた、宇佐見秋彦の連載小説。最初の方の内容が気になると話したら、学校に雑誌を持ってきた。話自体は面白かったのだが、こいつと別れてからは続きを読む気になれず、この物語がどう完結されたのかは未だに知らない。
「……このチケット、知りあいに二枚もらったんですけど、だれと行こうかと考えて。そしたら、不本意ながらも、たかのさんがいちばんに浮かんで……。ほんとうは日曜に誘おうとしてたんです。今週の日曜が最終日の映画だから。…でも、たかのさんはその日、横澤さんと会うんでしょう? だから二枚とも、あげますよ」
 ばつが悪そうな顔で言った小野寺は、ぷいっとそっぽを向く。熱で火照ったせいもあり、ふてくされた表情は妙に子供っぽかった。
「…それで。なんで俺がチケット二枚貰う理由になるわけ?」
「だって、おれはやっぱりこの映画を見ない方がいいのかもしれない、と思って。だから、横澤さんとでも行ってください」
「? なんで見ない方がいいわけ」
「おれ、原作を最後まで見てないんです。あなたのことを思い出すから、続きが読めなくて………」

 ―――続きが、読めない?

 身に覚えがある言葉に瞠目していると、ケホケホと、乾いた咳が今度は二つ続く。掴まれたままの服の端に目を向けて、ミネラルウォーターを取りに行こうとしていたのを思い出した。
「……水、取ってくるから、離せ」
 そう言って部屋を出ようとしたが、服を握る手にぎゅっと力を込められたせいで動けない。
「日曜はゆずってあげますから、」
 乾いた唇を一度舐めて、言葉が続く。
「いまは、いかないでください……」
 普段は過剰なまでに照れる小野寺が、高熱のせいで零した甘え。
 単に風邪を引いて人恋しい気分になっているだけなのだろう。だが、潤んで焦点の合っていない目で言われると、本人には全くその気はないのだろうが、凶悪なまでに艶っぽい。

 ……一体なんなんだ、こいつ。
 どうして自分はあっさりと遠くに行ってしまったくせに、俺が出ていこうとすると阻むんだ。
 真っ赤な顔は、おぼろげな記憶の中の姿と重なる。俺を好きだと言い、自分を好きかと聞いてきた、あのときの彼の表情とひどく似ていて………たまらない。
 くしゃくしゃのチケットを、ベッドサイドのテーブルに乱暴に置いた。

「―――――……律」
 頬に手を添えて、視線を合わせる。まぶたをとろんと重たくした小野寺は、口づけをあっさりと受け入れる。かさついた唇がしっとりと濡れるまで合わせてから離れると、息苦しかったらしく、はあ、と吐息が漏れた。
「………たかの、さん……っ?」
 やばい、止まれない。相手は病人で、熱があるのに。それもこれも小野寺が、手を伸ばせば届く範囲にいるせいだ。
「……もう、なんなんですか、たかのさんは……」
 小野寺がくしゃりと顔を歪める。潤んだ目から溢れた涙の一滴が、頬につう、と筋を描いた。
 小野寺は何故か、泣いている。
「ゆめの中でまで、そんな顔しないでください……っ」

 ―――お前こそ、自分がどんな顔でその台詞を言っているか、わかっているのか。
 小野寺が見ていたのは、きっと俺と同じ夢なのだ。

 貪るように、薄く開いた唇の合間に舌を入れる。びくりと肩が跳ねて退こうとしたので、頭の後ろに手を回して逃がさないようにする。
「……っ、たかのさ……っ」
 切れ切れに名前を呼ぶ声音には、制止を求められていると一応わかってはいるが、さっぱり止まる気はしない。
 すっかり汗だくの肌を、手のひらと指で辿る。風邪のせいでいつもより息を荒くした小野寺は、触れる度にぴくりとつま先を震わせた。濡れたまつげから、また一滴、涙が落ちる。
「小野寺。お前、なんで泣いてんの」
「なんでって…だって、たかのさんが……」
 悪い夢を見た子供をなだめるように頭を撫でるが、今日の雨のように静かな涙は止まらない。
「俺が?」
「たかのさんも、泣いているから……」

 視界が一瞬ぼやけて、冷たい雫が一筋、自分の頬を流れていくのがわかった。
 そうか、これは夢の延長なのか。ならば、あのとき言えなかったことも、言えるだろうか。

「律、」
 鼻先が触れそうなくらいまで顔を近づけて囁く。
「好きだ」
 小野寺は零れんばかりに目を大きく見開いた。
「好きだ、律」
「た…たかのさ……」
「お前は? 俺のことどう思ってんの」
 あのとき、こいつに聞かれたのと同じ質問。
 これ以上無いくらいまで顔を赤くした小野寺は、ぶんぶんとかぶりを振っただけで答えず、あとは声にならない喘ぎしか聞けなかった。
(……好きだけじゃ、駄目なのかな)
 昂ぶりを吐き出して、汗で少し冷めた、しかしまだ熱い身体の上に倒れこむ。後始末もそこそこに、俺はいつのまにか眠りに落ちていた。





 前を行くあいつに、走っても走っても追いつかない。
 どうして追いつかないのか、その理由にやっと思い至った。あいつに止まる気がないからだ。
 俺の何がそんなに悪かったのか、やっぱり見当はつかないが、弁明も謝罪もさせてくれないのは納得いかない。
 こちらを見てくれないか。お前の顔を見せてくれ。とにかく、俺の話をちゃんと聞け。
願いをぎゅうぎゅうに詰め込んで、焦がれた相手の名を叫ぶ。
『――――律ッ!!』
 すると、びくりと肩を震わせたあいつは立ち止った。やっと追いついた俺は、小さな肩を掴んで、こちらを向かせる。
『………高野さん……?』
 潤んだ深い緑の瞳で見上げてきたのは、もう少年ではない、大人になったあいつだった。大粒の涙をぼろぼろと流し、小野寺律はしゃくりあげる。
『俺……っ、俺は………』
 無理に話さなくていい。お前にはお前の想いがあるということを、現在のお前と同じく大人になった俺もようやく、わかるようになったから。親指の腹で涙をぬぐい、薄い身体を引き寄せる。腕の中にすっぽりと収まった小野寺は、温かくて心地よかった。
 あのときの俺達はお互いに子供で、ひとりよがりの恋愛をしていたのかもしれない。だから、これからお前と恋をするなら、もっと丁寧に恋をしよう。他愛のない話を沢山して、些細なことも思い出になるような恋を。あの頃言えなかった『好き』を耳にたこができるくらいに言って、呆れられるのもいいかもしれない。
 だから、焦る必要はない。お前がまた俺を好きだと言うのも、いつまでも待っているから。
 抱きしめる腕に力をこめると、小野寺が俺の肩に顔を埋めてくる。小野寺の細い髪が頬に当たったのがくすぐったくて、ふっと息が漏れた。

 ―――ああ、なんだ。追いかけたりしなくても、お前は初めから、すぐ近くにいたんじゃないか。





 雨はもう小降りになっているから、昼前には上がるだろう。
 翌朝の小野寺は、身に纏ったぶかぶかの俺のシャツと、そこから覗く鬱血のあとを見て、しばらく唖然としていた。
「俺は一体……なんで、ここに……?」
「なんでって、お前、また覚えてねーの?」
 呆れながらも、顔を青くしている小野寺の額に触れる。熱はすっかり下がっていた。声は少々枯れているが、それは風邪のせいだけではないので、ほぼ全快したと言い切っていいだろう。
「………あの、俺、昨日の記憶が全くないんですけど、なんで俺は高野さんちにいるのか教えてくれませんか…?」
「お前、昨日の夜、会社で倒れたんだよ。今は下がってるけど、すげー熱があって。だから、連れて帰ってやった」
「そ、それは…ありがとうございます……」
「そうだ、お前が昨日着てた服も洗っといたから。雨と汗でびしょびしょだったし」
「えっ!?」
小野寺がベッドから飛び上がろうとしたので、ベッドサイドにあるテーブルを指差して制する。
 昨日、小野寺に渡された、二枚の映画のチケットだ。
「ズボンと一緒に洗濯してねーよ。ちゃんと、そこにある」
「あ……」
 小さく安堵した小野寺は、くしゃくしゃのチケットを見て、また固まる。
「………あの、高野さん。もしかして昨日の俺は、何かしたんでしょうか……」
「何かって……ああ、ちょっと待て。電話だ」
 ジーンズのポケットで携帯電話が震える。ディスプレイに表示されていたのは、横澤の名前だ。電話に出てすぐ、スマンと謝られた。
『日曜、行けなくなったんだ。自分から誘っておいて悪いが、日を改めさせてくれ』
「あー…いいけど。俺も日曜には予定が入ったし。そういやお前の買いものって、何を買うつもりだったわけ?」
『……知りあいの娘の誕生日が、来月なんだ。エメ編に置いてるような、よくわからんフリフリした小物を売ってる店とか、お前は詳しいだろうと思って』
「人の編集部の装飾に『よくわからん』という形容詞を付けるな。じゃあ、また俺の都合の良い日教えるから」
『わかった。またメールしてくれ』
 電話機の向こうから、ソラ太のものと思われる猫の鳴き声と、げほげほと誰かが咳こむ声が聞こえてくる。もしや横澤も、身近な誰かが風邪を引いて看病する羽目になったのかもしれない。
 通話終了のボタンを押し、ぽかんと口を半開きしている小野寺に向き直る。
「………そういう訳で、小野寺。お前、明日俺とその映画に行くだろ?」
「はい?」
「お前、原作付きの映画は、先に原作読みたい派? だったら今日は本屋に行って、原作買ってくるか。確か、もう文庫版が出てたはずだから……」
「あ、あの、高野さん」
「なに?」
「昨日、俺は何を言ったんでしょうか……?」
 恐る恐る聞いてきた小野寺に、ニヤリと笑って伝える。
「俺とその映画に行きたいって泣いてたけど」
「はああっ!?」 白く戻っていたはずの顔が、一気に真っ赤になる。
「そ、そんなこと……」
 照れをごまかすようにあたふたし始めた小野寺が、ベッドから慌てて抜け出る。シャツの下は下着だけの姿だから、自分の姿を改めて見てみれば、昨日何があったのかは大体わかりそうなものだが。
「とにかく、俺、もう帰ります。倒れたのを連れて帰ってくれたのは、ありがとうございました! それじゃあ……」
「ここにいれば。服、まだ乾いてないし。お前、その格好で外に出るの?」
「うっ」
 ようやく自分の格好に気付いた小野寺が、開いたシャツの前を合わせる。蚊の泣くような声で言った。
「……着替え、貸して下さい……」
「やだ。それに、雨もまだ降ってるだろ。急いで出る必要もない」
「雨は関係ないでしょう! 家、隣同士なんですし」
 確かにそうだが、小野寺には俺にとって一番大事な理由は察せられてないらしい。
「じゃあ、俺が一緒に居たいから、もう少しここにいろ。朝メシも作ってるし」
「…………っ」
 悔しそうに睨んできた小野寺だったが、タイミング良くきゅうと鳴いた腹の音に負けて、ダイニングに向かう。
すっかり可愛げの無くなった小野寺を引きとめるのは一苦労だ。





 夢は願望の表れと、以前読んだ本に書いてあった。
 俺の夢には、昔の小野寺が度々現れた。過去を変えたいと無意識に望んでいたのだろうか。……夢の中でいくらあがいても、過去は変わりはしないのに。
 実際の俺に変えられるのは、過去ではなく、現在とこれからのこと。あのときの小野寺とは別れてしまったが、今の小野寺を決して離さずにいたいものだ。それから、あいつに俺を好きだと言わせて、十年前の様に付き合いたての恋人みたいなことをして、もっと互いのことを知るようにして―――……。

 願望は果てなく生まれる。夢の終わりは、まだ遠い。










2013年春コミ発行『最初で最後の』より再録
2014.8.20
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