「高野さん、お疲れ様です」 「お疲れ様でーす」 「ああ、お疲れ」 足早に帰っていった羽鳥や木佐たちを見送り、もうそんな時間なのかと腕時計を見る。窓の外はすっかり暗くなっていた。 校了明けの編集部はがらんどうで、俺の他に残っているのは、昼間の企画書に未だに手こずっている小野寺だけだった。 「高野さん、チェックお願いします」 その小野寺に、紙束をずいっと渡される。初めは何がやりたいのかわからなかった紙上に、この企画が実現したときのビジョンが見えていた。上出来だ。 「OKだ。このまま出して良い」 俺の言葉に、小野寺がほっと息を吐く。 「今日は金曜日なので、これ、月曜の朝に営業に出しに行ってきます。じゃあ、俺ももう帰りますね…」 頷くと、小野寺の上体がぐらりと傾いた。さっき返した書類がバサリと落ちる。 「………小野寺っ!?」 床に倒れそうになった身体を抱きとめる。 林檎のように赤い頬。薄く開いた唇からは、ひゅうひゅうと浅い呼吸が漏れている。前髪を掻き上げて額に触れると、汗でしっとりと湿った額はいつもの小野寺よりも熱かった。 (……やっぱり、熱があるんじゃねーか) 道理で今日一日、妙に顔が赤かったわけだ。 俺も今日の仕事は終いにしよう。この状態の小野寺を連れて電車には乗れないので、タクシー会社に電話をかける。十分ほどで着くということだったので、手早く帰り仕度をすませて、ぐったりと力の抜けた腕を首に回させた。小野寺をおぶるのはこれが初めてではないが、大の男を運ぶのはなかなか体力を使う。 背に乗った小野寺は、それなりに重い。こいつは決して軽くはないし、もう子供でもない。一人の男なのだ。 落とさないようにしっかりと小野寺の身体を掴みながら、エレベーターに向かって歩き出した。 まだ降り続けている雨で服が湿っていくのが鬱陶しい。 タクシーから降り、辿りついたマンションの玄関先。やっと小野寺をベッドに寝かせてやれる…と安心したのも束の間、思いがけない関門に当たった。 小野寺の家の鍵が、見つからない。 小野寺のカバンの中は、小野寺の部屋の中と同等に散らかっていて、何がどこに入っているのか見当がつかない。手を入れるといつかの頒布物のプリントが出てきたり、ゼリー飲料の空の容器が紛れていたり。財布と定期入れらしきものは見つかったが、その中に鍵は入っていなかった。 (……しょうがない、俺の部屋に入れるか) キーケースを取り出し、自宅のドアを開ける。少し乱暴にベッドに下ろすと、小野寺がうっすらと目を開いた。 「たか…の、さん……? あれ、ここ……」 「ここは、俺んち。お前のバッグ、中身がぐちゃぐちゃ過ぎて鍵見つけられなかったから連れてきた。お前、すげー熱があんじゃねーか」 「え……。そんなわけ……」 「嘘じゃねーよ」 「うそじゃないなら、ゆめですね……」 「……好きに思えばいいけど」 寝起きのふにゃふにゃした小野寺の様子は、酔っ払っているときと大差ない。 濡らしたタオルを額に乗せると、小野寺は気持ち良さそうに目を閉じる。ケホン、と乾いた咳がこぼれた。 (水、持ってきてやるか) 確か冷蔵庫にミネラルウォーターがあったはずだ。 寝室から出ようとドアに背を向けたが、何かに引っ張られて立ち止まる。振り向くと、俺の服の端を握った小野寺が見上げていた。 「………ゆめなら、別にいいですよね」 「?」 「これ、あげます」 ごそごそとズボンのポケットを探り、くしゃくしゃになった紙を渡される。広げてみると、それは二枚の映画のチケットだった。宇佐見秋彦のデビュー間もない頃の小説が原作で、最近になって実写化した映画だ。 そして、そのタイトルは、俺達にとって思い入れのあるものでもある。 「………これ、高校のとき、お前に借りた本が原作だよな」 小説コハルに掲載されていた、宇佐見秋彦の連載小説。最初の方の内容が気になると話したら、学校に雑誌を持ってきた。話自体は面白かったのだが、こいつと別れてからは続きを読む気になれず、この物語がどう完結されたのかは未だに知らない。 「……このチケット、知りあいに二枚もらったんですけど、だれと行こうかと考えて。そしたら、不本意ながらも、たかのさんがいちばんに浮かんで……。ほんとうは日曜に誘おうとしてたんです。今週の日曜が最終日の映画だから。…でも、たかのさんはその日、横澤さんと会うんでしょう? だから二枚とも、あげますよ」 ばつが悪そうな顔で言った小野寺は、ぷいっとそっぽを向く。熱で火照ったせいもあり、ふてくされた表情は妙に子供っぽかった。 「…それで。なんで俺がチケット二枚貰う理由になるわけ?」 「だって、おれはやっぱりこの映画を見ない方がいいのかもしれない、と思って。だから、横澤さんとでも行ってください」 「? なんで見ない方がいいわけ」 「おれ、原作を最後まで見てないんです。あなたのことを思い出すから、続きが読めなくて………」 ―――続きが、読めない? 身に覚えがある言葉に瞠目していると、ケホケホと、乾いた咳が今度は二つ続く。掴まれたままの服の端に目を向けて、ミネラルウォーターを取りに行こうとしていたのを思い出した。 「……水、取ってくるから、離せ」 そう言って部屋を出ようとしたが、服を握る手にぎゅっと力を込められたせいで動けない。 「日曜はゆずってあげますから、」 乾いた唇を一度舐めて、言葉が続く。 「いまは、いかないでください……」 普段は過剰なまでに照れる小野寺が、高熱のせいで零した甘え。 単に風邪を引いて人恋しい気分になっているだけなのだろう。だが、潤んで焦点の合っていない目で言われると、本人には全くその気はないのだろうが、凶悪なまでに艶っぽい。 ……一体なんなんだ、こいつ。 どうして自分はあっさりと遠くに行ってしまったくせに、俺が出ていこうとすると阻むんだ。 真っ赤な顔は、おぼろげな記憶の中の姿と重なる。俺を好きだと言い、自分を好きかと聞いてきた、あのときの彼の表情とひどく似ていて………たまらない。 くしゃくしゃのチケットを、ベッドサイドのテーブルに乱暴に置いた。 「―――――……律」 頬に手を添えて、視線を合わせる。まぶたをとろんと重たくした小野寺は、口づけをあっさりと受け入れる。かさついた唇がしっとりと濡れるまで合わせてから離れると、息苦しかったらしく、はあ、と吐息が漏れた。 「………たかの、さん……っ?」 やばい、止まれない。相手は病人で、熱があるのに。それもこれも小野寺が、手を伸ばせば届く範囲にいるせいだ。 「……もう、なんなんですか、たかのさんは……」 小野寺がくしゃりと顔を歪める。潤んだ目から溢れた涙の一滴が、頬につう、と筋を描いた。 小野寺は何故か、泣いている。 「ゆめの中でまで、そんな顔しないでください……っ」 ―――お前こそ、自分がどんな顔でその台詞を言っているか、わかっているのか。 小野寺が見ていたのは、きっと俺と同じ夢なのだ。 貪るように、薄く開いた唇の合間に舌を入れる。びくりと肩が跳ねて退こうとしたので、頭の後ろに手を回して逃がさないようにする。 「……っ、たかのさ……っ」 切れ切れに名前を呼ぶ声音には、制止を求められていると一応わかってはいるが、さっぱり止まる気はしない。 すっかり汗だくの肌を、手のひらと指で辿る。風邪のせいでいつもより息を荒くした小野寺は、触れる度にぴくりとつま先を震わせた。濡れたまつげから、また一滴、涙が落ちる。 「小野寺。お前、なんで泣いてんの」 「なんでって…だって、たかのさんが……」 悪い夢を見た子供をなだめるように頭を撫でるが、今日の雨のように静かな涙は止まらない。 「俺が?」 「たかのさんも、泣いているから……」 視界が一瞬ぼやけて、冷たい雫が一筋、自分の頬を流れていくのがわかった。 そうか、これは夢の延長なのか。ならば、あのとき言えなかったことも、言えるだろうか。 「律、」 鼻先が触れそうなくらいまで顔を近づけて囁く。 「好きだ」 小野寺は零れんばかりに目を大きく見開いた。 「好きだ、律」 「た…たかのさ……」 「お前は? 俺のことどう思ってんの」 あのとき、こいつに聞かれたのと同じ質問。 これ以上無いくらいまで顔を赤くした小野寺は、ぶんぶんとかぶりを振っただけで答えず、あとは声にならない喘ぎしか聞けなかった。 (……好きだけじゃ、駄目なのかな) 昂ぶりを吐き出して、汗で少し冷めた、しかしまだ熱い身体の上に倒れこむ。後始末もそこそこに、俺はいつのまにか眠りに落ちていた。 前を行くあいつに、走っても走っても追いつかない。 どうして追いつかないのか、その理由にやっと思い至った。あいつに止まる気がないからだ。 俺の何がそんなに悪かったのか、やっぱり見当はつかないが、弁明も謝罪もさせてくれないのは納得いかない。 こちらを見てくれないか。お前の顔を見せてくれ。とにかく、俺の話をちゃんと聞け。 願いをぎゅうぎゅうに詰め込んで、焦がれた相手の名を叫ぶ。 『――――律ッ!!』 すると、びくりと肩を震わせたあいつは立ち止った。やっと追いついた俺は、小さな肩を掴んで、こちらを向かせる。 『………高野さん……?』 潤んだ深い緑の瞳で見上げてきたのは、もう少年ではない、大人になったあいつだった。大粒の涙をぼろぼろと流し、小野寺律はしゃくりあげる。 『俺……っ、俺は………』 無理に話さなくていい。お前にはお前の想いがあるということを、現在のお前と同じく大人になった俺もようやく、わかるようになったから。親指の腹で涙をぬぐい、薄い身体を引き寄せる。腕の中にすっぽりと収まった小野寺は、温かくて心地よかった。 あのときの俺達はお互いに子供で、ひとりよがりの恋愛をしていたのかもしれない。だから、これからお前と恋をするなら、もっと丁寧に恋をしよう。他愛のない話を沢山して、些細なことも思い出になるような恋を。あの頃言えなかった『好き』を耳にたこができるくらいに言って、呆れられるのもいいかもしれない。 だから、焦る必要はない。お前がまた俺を好きだと言うのも、いつまでも待っているから。 抱きしめる腕に力をこめると、小野寺が俺の肩に顔を埋めてくる。小野寺の細い髪が頬に当たったのがくすぐったくて、ふっと息が漏れた。 ―――ああ、なんだ。追いかけたりしなくても、お前は初めから、すぐ近くにいたんじゃないか。 雨はもう小降りになっているから、昼前には上がるだろう。 翌朝の小野寺は、身に纏ったぶかぶかの俺のシャツと、そこから覗く鬱血のあとを見て、しばらく唖然としていた。 「俺は一体……なんで、ここに……?」 「なんでって、お前、また覚えてねーの?」 呆れながらも、顔を青くしている小野寺の額に触れる。熱はすっかり下がっていた。声は少々枯れているが、それは風邪のせいだけではないので、ほぼ全快したと言い切っていいだろう。 「………あの、俺、昨日の記憶が全くないんですけど、なんで俺は高野さんちにいるのか教えてくれませんか…?」 「お前、昨日の夜、会社で倒れたんだよ。今は下がってるけど、すげー熱があって。だから、連れて帰ってやった」 「そ、それは…ありがとうございます……」 「そうだ、お前が昨日着てた服も洗っといたから。雨と汗でびしょびしょだったし」 「えっ!?」 小野寺がベッドから飛び上がろうとしたので、ベッドサイドにあるテーブルを指差して制する。 昨日、小野寺に渡された、二枚の映画のチケットだ。 「ズボンと一緒に洗濯してねーよ。ちゃんと、そこにある」 「あ……」 小さく安堵した小野寺は、くしゃくしゃのチケットを見て、また固まる。 「………あの、高野さん。もしかして昨日の俺は、何かしたんでしょうか……」 「何かって……ああ、ちょっと待て。電話だ」 ジーンズのポケットで携帯電話が震える。ディスプレイに表示されていたのは、横澤の名前だ。電話に出てすぐ、スマンと謝られた。 『日曜、行けなくなったんだ。自分から誘っておいて悪いが、日を改めさせてくれ』 「あー…いいけど。俺も日曜には予定が入ったし。そういやお前の買いものって、何を買うつもりだったわけ?」 『……知りあいの娘の誕生日が、来月なんだ。エメ編に置いてるような、よくわからんフリフリした小物を売ってる店とか、お前は詳しいだろうと思って』 「人の編集部の装飾に『よくわからん』という形容詞を付けるな。じゃあ、また俺の都合の良い日教えるから」 『わかった。またメールしてくれ』 電話機の向こうから、ソラ太のものと思われる猫の鳴き声と、げほげほと誰かが咳こむ声が聞こえてくる。もしや横澤も、身近な誰かが風邪を引いて看病する羽目になったのかもしれない。 通話終了のボタンを押し、ぽかんと口を半開きしている小野寺に向き直る。 「………そういう訳で、小野寺。お前、明日俺とその映画に行くだろ?」 「はい?」 「お前、原作付きの映画は、先に原作読みたい派? だったら今日は本屋に行って、原作買ってくるか。確か、もう文庫版が出てたはずだから……」 「あ、あの、高野さん」 「なに?」 「昨日、俺は何を言ったんでしょうか……?」 恐る恐る聞いてきた小野寺に、ニヤリと笑って伝える。 「俺とその映画に行きたいって泣いてたけど」 「はああっ!?」 白く戻っていたはずの顔が、一気に真っ赤になる。 「そ、そんなこと……」 照れをごまかすようにあたふたし始めた小野寺が、ベッドから慌てて抜け出る。シャツの下は下着だけの姿だから、自分の姿を改めて見てみれば、昨日何があったのかは大体わかりそうなものだが。 「とにかく、俺、もう帰ります。倒れたのを連れて帰ってくれたのは、ありがとうございました! それじゃあ……」 「ここにいれば。服、まだ乾いてないし。お前、その格好で外に出るの?」 「うっ」 ようやく自分の格好に気付いた小野寺が、開いたシャツの前を合わせる。蚊の泣くような声で言った。 「……着替え、貸して下さい……」 「やだ。それに、雨もまだ降ってるだろ。急いで出る必要もない」 「雨は関係ないでしょう! 家、隣同士なんですし」 確かにそうだが、小野寺には俺にとって一番大事な理由は察せられてないらしい。 「じゃあ、俺が一緒に居たいから、もう少しここにいろ。朝メシも作ってるし」 「…………っ」 悔しそうに睨んできた小野寺だったが、タイミング良くきゅうと鳴いた腹の音に負けて、ダイニングに向かう。 すっかり可愛げの無くなった小野寺を引きとめるのは一苦労だ。 夢は願望の表れと、以前読んだ本に書いてあった。 俺の夢には、昔の小野寺が度々現れた。過去を変えたいと無意識に望んでいたのだろうか。……夢の中でいくらあがいても、過去は変わりはしないのに。 実際の俺に変えられるのは、過去ではなく、現在とこれからのこと。あのときの小野寺とは別れてしまったが、今の小野寺を決して離さずにいたいものだ。それから、あいつに俺を好きだと言わせて、十年前の様に付き合いたての恋人みたいなことをして、もっと互いのことを知るようにして―――……。 願望は果てなく生まれる。夢の終わりは、まだ遠い。 2013年春コミ発行『最初で最後の』より再録 2014.8.20 |