最近吐く息が白くなってきたなと思っていたら、空から冷たい雪の粒が降ってきた。冬だ。 千秋を好きだと自覚してから、もう一か月になる。かといって千秋に何か行動を起こした訳ではなく、俺は相変わらず千夏ちゃんと付き合っていた。肌寒い季節なので三人で中庭に集まることはなくなったけど、千夏ちゃんとはほぼ毎日一緒に下校するし、時々はデートもする。 だって千夏ちゃんと付き合っていれば、吉野との接点を持っていられるではないか。千夏ちゃんと別れることで、千秋ときまずくなるのが嫌だった。 もしも千夏ちゃんに別れを切り出したとして、千夏ちゃんは当然、何故別れたいのかと理由を聞くだろう。まさか君の兄に惚れたからだと言えないし、俺はとにかく別れたいのだと答えるしかない。 千夏ちゃんは納得いかないと怒り、泣くかもしれない。そうすると、あれで妹思いの千秋は、妹を傷つけたろくでもない男に憤慨するに違いない。もう俺と会話をすることも無くなるだろう。 俺は千秋に嫌われることだけが、とても怖い。好きでいることすら許されなくなるのは、きっと今よりもずっと辛いことだから。 千秋と友達ですらいられなくなるなら、今のままでもいい。例えその千秋と、俺に好意を持っている千夏ちゃんを裏切っているとしてもだ。 (……最低だな、俺は) かじかんだ手の甲に雪が落ちては体温を奪っていく。染み入るような肌寒さに、余計に気が滅入った。そういえば、今朝の天気予報で今日は一日冷え込むと聞いていたのに、手袋をしてくるのを忘れてしまった。 「……トリっ?」 いきなり後ろから肩を叩かれて振り向くと、鼻の頭を赤くした千秋が、身の丈の割に長いマフラーの中から顔を覗かせていた。マフラーの赤い色が、白と灰ばかりの世界でやけに目立つ。 学校の廊下で何度か会ったことはあるが、登校中に会ったのは初めてだ。俺はいつもはもっと早く家を出ているけれど、千秋はいつもこの時間にこの道を歩いているのだろう。 「やっぱりトリだ。珍しいな、お前がこんな遅い時間に登校してるなんて」 冬の弱々しい日差しより、千秋の笑顔の方がよほど眩しい。ついぽかんと見とれていたら、おい、聞いてんのかよ、と、眼前でぶんぶん手を振ってきた。ちゃんと聞いてる、と答えると、ならよし、と千秋は偉そうにふんぞり返る。口の端を上げて笑うと、体温が少しだけ上昇した。 「今朝は寝坊したんだ…昨日寝るのが遅かったから」 「ふーん。なんで?」 「…テスト勉強」 まさか夜中にお前のことを考えたら眠れなくなったから、とも言える訳がない。テストと聞いた千秋は、苦虫を噛み潰したような顔になった。 「そっか、もうすぐ期末だっけ。やだなあ〜。俺、こないだのテストでは赤点とっちゃって、補習受けたんだよな」 「あまり成績が悪いと、受験にも響くだろう」 「………受験かあ。あんまり考えてなかったんだけど、そういう訳にもいかないよな、このままだと。まだ何も結果出せてないし……」 「?」 マフラーに顔を埋めてごにょごにょと呟く千秋の台詞は、よく聞き取れなかった。 「ところでさ、トリはやっぱり進学だろ?どこの大学受けるつもり?」 今のところの第一志望を教えると、千秋が眉を下げて笑う。 「トリってやっぱり頭良いよなあ。千夏がお前と同じ大学行きたいってぼやいてたけど、それじゃあ相当頑張らなきゃ無理だな」 「…千夏ちゃんが、そんなことを?」 「そんなにびっくりするようなことじゃないだろ。千夏はさ、それだけお前のこと好きなんだよ」 千秋は時たまこんな風に千夏ちゃんのことを、眩しいものを見るような目で語ったりもする。これが、俺が千秋を妹思いと思う所以だ。本人の前では憎まれ口ばかり叩いていても、いつだって温かい情がかよっている。 一見すると口喧嘩に見えるやりとりも、二人にとってはコミュニケーションの一種で、兄弟のいない俺には二人の仲の良さが羨ましい。二人きりの兄妹で年も近いからお互いに遠慮がないのだと、以前に千夏ちゃんが言っていた。 「好きな人と一緒にいたいっていう、いじらしい乙女心じゃないか……いや、乙女とかしおらしい言葉、あいつには似合わないけどさ…」 「…………」 好きな人、か。そう言う千秋にこそ、いるのだろうか。 胸の内でぐるぐると苦い感情が渦巻き出す。一割は好奇心で、残りの九割は千秋が誰かのものになることへの恐怖だ。 千秋と恋愛の話をしたのは、1カ月前のあの秋の日以来だ。今このタイミングなら、聞いても不自然ではないだろうか。 「―――千秋はいないのか?好きな人」 「えッ!!?」 飛び跳ねるように驚いた千秋の顔は、一瞬でゆでだこのように赤くなった。 「な、なんで俺に話ふるんだよっ?いない、いない、いないから!!」 「……いるんだな…」 まさか、こうもあからさまに動揺されるとは思っていなかったので、俺こそびっくりした。 うう、と赤い顔でうめいた千秋は、すっかりほどけかけているマフラーを結び直し、すたすたと歩き出す。 「もういいだろ。この話、終わりな!遅刻するぞ、遅刻」 「…いや、でも…。そんな風にはぐらかされると、余計気になるだろう。俺の知ってる奴とか?」 「しつこい、やだ、言いたくないっ」 「………悪い」 千秋がここまで嫌がるとは思わなかった。多分、他人には簡単に言えない事情があるのだろう……俺のように。 お互いに黙ったまま歩を進めて、ちょうど赤信号だったので横断歩道の前で立ち止まる。この間に、まだパラパラと降っている雪が肩に積もっていく。 「知ってるも何もなあ…」 信号が変わると同時に再び口を開いたのは、千秋の方だった。俺が歩き出すのも待たず、雪で見えにくくなった横断歩道の白い部分だけをひょいっと踏んで、どんどん先に進んでいく。 「つーか、俺の好きな奴については、あんまり語りたくないんだけど…」 「なんで?」 「そのうち諦める予定だからっ。…今は、まだ無理だけど。とっとと忘れたいんだけどさ、しょっちゅう顔を合わせるから、そうもいかないし」 「無理に忘れなくてもいいんじゃないか?」 本当は、これは自分に言いたい台詞だ。 忘れようとしても、忘れられなくても辛いのならば、想いを抱えたままでいるのを選ぶは悪いことなのだろうか。――好きでいては、駄目なのか。 横断歩道を渡り終えてから、前を歩いていた千秋がくるりと振り返る。 「それさ、トリには言われたくねーよ」 笑おうとしたらしく細められた千秋の目から、涙が零れ落ちる。今まで千秋の色々の表情を見たけれど、涙を流すところは初めて見た。 「俺はさ、もうずっと、千夏とトリを見てるの辛いんだから」 「え?」 「……喋り過ぎた。俺、先に行くな」 そう言って、千秋は逃げるように走り去ってしまう。小さくなっていく背中を呆然と見送ってから、いい加減に俺も学校へ歩きださなければ遅刻すると思い出した。 中途半端に積った雪をざくざくと踏み進みながら、思考を巡らす。 好きな人。諦める予定。しょっちゅう顔を合わせる。千秋はそう言った。 千秋の周りに、該当する相手はいるだろうか。千秋と同じクラスの誰かだろうか。いや、俺には余計なことを言われたくない、ということは、俺に近しい人物か。だとすると、選択肢はぐっと少なくなる。 諦めなければいけなくて、しょっちゅう顔をあわせて、千秋の好きな……女の子………… ―――ああ、いるじゃないか、もっとも千秋に身近な人物が。確かに、俺と同じく結ばれるはずもない相手だ。それでいて温かく見つめるのをやめられない。 (……………そうか、千秋が好きなのは、千夏ちゃんだったのか) 次の日曜日。いつものデートでは来なかった少し遠方の公園に誘って、別れを切り出した時の千夏ちゃんの顔は、俺の予想に反して無表情だった。 理由を聞いてくる訳でもない。そう、とだけ言って、黙ったきり。散歩するには寒すぎる冬の公園には俺達の他に人は少ないので、沈黙がやけに重たく感じる。 でも、千秋の気持ちを知ったからには、もう千夏ちゃんとは付き合えない。俺が好きなのは千秋で、千秋と接点を持ちたいが為に千夏ちゃんと付き合っていたけれど、それは決して千秋を傷つけたかったからではなかった。千秋を泣かせてまで、二人の傍にはいられない。 「……あのね、芳雪くん」 やっと口を開いた千夏ちゃんは、どこまでも平坦な口調だ。 「グーは我慢してあげる」 「え?」 パン!と小気味の良い音が公園に響く。今まで親にこっぴどく叱られた経験もないので誰かに思いっきりぶたれたのは初めてだが、二三発殴られてもしょうがないくらいとも思っていたので特別驚きはしなかった。 うつむいた千夏ちゃんは肩をわなわなと震わせて、再び顔を上げたときには目元が赤くなっていた。 「やっと言った。言うのが遅いのよっ!」 「え…」 「芳雪くんは私じゃない、別の人のことが好きなんでしょ?わかってるよ、ただぼうっと一緒にいた訳じゃないもん。私、芳雪くんが言ってくれるの、ずっと待ってたのに」 いや、全くの予想外の行動ではなかった。 千夏ちゃんは怒っている。俺の想像とは少し違う方向に。 「それでもいつか私を好きになってくれないかなって思ってたけど、芳雪くんは私のことなんか全然見てもいないし。私がどんなに悲しかったか気付きもしないで」 「……ごめん」 「ついでに、謝るのも遅い!謝らなきゃいけないことしてるって自覚してたんなら、もっと早く言うのも優しさだってとっくに気付いてたんでしょ」 千夏ちゃんの言葉が胸に突き刺さる。何もかも見透かしていて、なのにいつもと変わらぬように振る舞っていたのだと今更教えられた。 「ごめん」 「最後に一個。『元』彼女からのお願い」 お願い、と言った千夏ちゃんの語気は、いつかの千秋にジュースをねだったときのように、苦笑が半分混じっていた。 「私が芳雪くんに告白したときみたいに、芳雪くんも好きな人にちゃんと好きだって言って。もう逃げちゃ駄目だよ。……じゃなきゃ芳雪くんのこと、許さないんだから」 目を真っ赤にした千夏ちゃんの声が震えていたから、俺はもう頷くしかなかった。 →next |