千秋に恋をしていると気付いたのは、秋のことだった。あのときはイチョウの黄色い葉が舞っていたけれど、今の千秋には別の色の葉が見えているらしい。 「でっかいもみじが貼り付いてんのかと思った…」 あの後千夏ちゃんに『お兄ちゃんなら、今日は漫画の新刊が出るから本屋に行くって言ってたよ』と促され(千夏ちゃんには本当に、何もかも見透かされている)店の入り口で出会えた千秋の第一声がこれだった。 千夏ちゃんに叩かれた頬がじんじんと痛むとさっきから思ってはいたが、もみじに例えられるくらいに赤くなっているらしい。 「何、どうしたの、それ?親に叱られたとか?」 「千夏ちゃんに別れるって言った」 「はあっ!!?」 驚いた千秋が、手にしていた書店の袋をバサリと落とした。人通りの多い午後の歩道、数冊散らばった本に構わず俺に詰め寄る千秋に、往来の人々が一体何事かとちらちらこちらを見ている。 「お前ら、うまくいってたんじゃねーのかよ!…つーかお前、そのほっぺた、冷やした方がいいんじゃ……ああ、千夏馬鹿力だから容赦なくやったんだろうな、それ…。……って違う、違う!そんなことよりも、なんで別れることにっ」 「―――千秋、場所変えよう」 散乱した漫画はしっかり拾ってやり、混乱している千秋の背中を押して、その場を後にした。 歩いてすぐの河川敷には、さっきの公園と同じく寒さのせいで散歩する者も少ない。ささやかなせせらぎと、近くの道路から車の走る音が聞こえてくるくらいだった。 適当な場所に腰を下ろすと、千秋も少し迷った後で隣に座る。 「千秋」 名前を呼ぶと、千秋はびくりと肩を震わせる。緊張で俺の声まで震えてきそうなので、ひとつ咳払いを挟んでから、続ける。 「さっきも言ったけど、千夏ちゃんとは別れる」 「……なんで、いきなりそんなことに…」 「俺に、他に好きな人がいるから。千夏ちゃんも知ってた。だから、別れることになった」 「………好きな人……?」 千秋の顔はまた赤くなっていて、怒っているのか泣きたいのかわからない。好きな人、と言った声は、切なく振り絞られたようだった。その顔を見て、再度確信する。 やはり千秋も辛い恋をしているのだ。 千夏ちゃんを好きな千秋にとって、千夏ちゃんが彼氏であった俺の話をしてくるのが、どれだけ辛かったことだろう。千秋が千夏ちゃんを好きでいる限りその痛みは消えないけれど、これ以上傷口を広げないことは出来る。 俺が千夏ちゃんと付き合っていたのは、千秋と繋がりを絶ちたくない俺の単なるエゴ。辛い恋を抱える痛みはわかるから、俺が千秋にしてやれることはこれしかない。 「だから、千秋は安心して欲しい。千夏ちゃんはいつか誰かのものになると思うけど、俺はその相手ではないから。今はまだ、お前は千夏ちゃんを好きでいてもいいんだ」 「―――――はあっ??」 しかし、てっきり安堵でもするかと思っていた千秋は、まるで真夏に雪が降ったかのように目を疑っていた。 「ごめん、トリが何言いたいのか全然わかんないんだけど」 「?…だから、お前は千夏ちゃんを好きで…」 「なんで俺が千夏を?千夏は妹だろう。好きは好きだけど、それがお前らが別れることに何の関係があるわけ?」 怪訝な様子で首を傾けている千秋は、どうにも嘘をついているようには見えない。俺の方こそ首を傾げたくなってきた。 「だから、お前にはそのうち諦めるつもりの『好きな人』がいるんだろう?それは、千夏ちゃんじゃないのか…」 「〜〜〜ッ、ま、まさか、そんな勘違いで千夏をふったんじゃないだろうなっ?俺に遠慮して、とか?ふざけんなよ、俺がどんな気持ちで千夏とトリのことを応援してきたか……お前、頭いいくせに、実はバカだろ!大バカだろ!!」 千秋が俺の胸倉を掴み、叫ぶ。 千秋が好きなのは、千夏ちゃんではなかったのか。ならば、一体誰なのだろう。 叫びながら、千秋の目からはぼろぼろと涙が零れ落ちていた。その涙を見たら、ぽろりと正直な本音が出ていた。 「――俺は千秋が好きなんだ。だから、千夏ちゃんとはもう付き合えない」 「はっ?」 千秋がぽかんと口を開けて黙ってしまったので、静かになった河川敷では時間が止まったかのようだった。しばらく動かないまま、近くの道路から車が走る音が聞こえて、千秋ははっと我に返る。 「なにそれ…なんだよ、それ…ッ」 気の毒なくらい真っ赤になった千秋は、怒ったように言う。 「ごめん、いきなり言われても迷惑だと思うけど…」 「そうじゃなくて…ああもう、勝手に自己完結すんな、ばかっ。…だって、俺が好きなのは…トリで……っ」 「えっ?」 そう言って、千秋は俯いて黙ってしまった。ぽたぽたと地面に染みが出来ているから、まだ涙は止まっていないらしい。時々漏れている嗚咽も、俺の胸倉を掴む手が震えているのも、やはり嘘には思えなくて……信じられない。 「ずっと、好きなんだ…。多分、教室で見たときから。一目惚れだった。千夏が本気でトリを好きなのも知ってたから、どうするつもりもなかったけど。トリと千夏が付き合ってれば、俺はトリとつながっていられると思ってたし、だから…」 泣きながら喋る千秋の言うことにどうも既視感を覚えると思っていたら、俺が考えていたことと同じだ。 千秋が、俺を?途端、ぼっと火が灯されたみたいに体の中枢が熱くなって、気が付いたら細い体を抱き締めていた。初めて抱いた千秋の感触は、女の子のように柔らかくはないけれど、どうしようもなく甘い。 「―――千秋が、好きなんだ…」 耳元で囁くと、背中にそろそろと手が添えられる。迷いがちな動きが焦れったくてもっと力を込めれば、震えた声が返ってくる。 「俺の妄想とか夢じゃないのかな、これ…」 半信半疑な千秋への否定材料は持っている。夢とは思えない、何故ならば。 「俺も夢みたいだけど、夢じゃないよ。千夏ちゃんに叩かれた顔が、まだ痛いから」 もしかしたら、千夏ちゃんはこのために頬をぶったのではないかとすら思えてきた。 実は今も千秋にキスをしたいのだけど、口の中を切ったので、流石に二人の間のファーストキスが血の味というのはどうなんだ、と内心で密かに葛藤していたりもする。 「グーじゃなくて良かったじゃん。千夏のストレートをもろにくらってたら、多分、気絶してたぞ」 ぷっと吹き出した千秋の目が細められて、小さなえくぼが出来る。俺の好きな千秋の顔だった。 第一志望の大学の試験が終わり、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。手応えは十分、だが過信は禁物…と思いながらも、少しくらいは自分に褒美をあげたくなった。 試験を控えた俺に遠慮してか、最近あいつから連絡がこなかった。そろそろ俺から会いに行ってもいいだろう。いや、会いたい。放課後コンビニに寄り、差し入れの菓子を買ってから、すっかり通い慣れた道を急いだ。 玄関のベルを鳴らし、出迎えてくれた千夏ちゃんによると、「お兄ちゃん今、燃え尽きてるとこだから。部屋でぐったりしてるよ」とのこと。どうやらあいつの戦いも一区切りついたところらしい。 「じゃあ、私は一階でテレビ見てるから。ゆっくりしていってね」 千夏ちゃんとは、別れた後の方がむしろ親密になった気がする。俺に対しても軽口を遠慮なく言うようになったし、ぞんざいな物言いもされるし、まるで本当の妹みたいだ。そう言ったら、千夏ちゃんが「どうせなら私も芳雪くんみたいに格好良いお兄ちゃんがよかったよ」と半ば本気で言うものだから、実の兄の方は横でふてくされていた。 「―――千秋、入るぞ」 ノックをしてドアを開けると、部屋の主は床にぺたんと座り込んで漫画の雑誌を広げていた。俺の姿を認めると、すぐに立ち上がり抱きついてきた。 「トリっ!ちょうどよかった、今メールしようかと思ってたんだよ!」 「?」 何かと照れ屋な千秋にしては珍しい。すり寄せられた身体からは千秋のにおいがして、会うのも久しぶりなら触るのも久しぶりだから、ざわざわと欲望が疼き出す。…駄目だ、理性が保てているうちに話の筋を戻さないと。 「何かあったのか?そんなにはしゃいで」 「ああ、そうだった。これを見ろ!」 べしりと顔面に押しつけられたのは、先ほど千秋が広げていた雑誌だと思われる。…視界が真っ暗で判別出来ないが。 「お前は俺に見せる気はあるのか…。離せ、近過ぎて見えない」 「あ、悪い」 顔面から引き剥がした雑誌は、千夏ちゃんが購読し千秋が愛読している少女漫画誌だ。その表紙を見ただけで千秋の喜びの原因が察せられたけど、千秋が言いたくてうずうずしているから言わせてやろう。 「それで、この雑誌がなんだって?」 「入賞した!」 折り目が付くほど開かれたのであろうページには、新人賞と大きく書かれた文字に、千秋のペンネームである『吉川千春』の名が並んでいる。 「じゃあ、デビューってことか?」 「再来月号に読み切りとして掲載されるって!」 千秋が少女漫画家を目指していると知ったのは、去年の春だった。男が少女漫画家なんて笑われるかと思ったようで、今までは言うのを躊躇っていたらしい。むしろ、将来やりたいことがはっきりと浮かばない俺にしてみれば、夢を持ち、それに向け励むことは尊敬に値するけれど。 今回の投稿作は受験勉強と平行して描いたもので、あのときの本人のぼろぼろな有様とは真逆のきらきらとした恋が題材らしかった。開かれたこのページの講評にも、滑り落ちるような展開と、ストレートな感情表現が眩くて魅力的だったと書かれている。 「おめでとう」 「ありがとう。トリも忙しいのに、アドバイスとかくれてすっごく助かったよ。お前、意外と編集者とか向いてたりして」 編集者か。千秋の担当になれるのなら悪くないかもしれない。無邪気に笑う千秋を見ていたら、その道も良いかもしれないと思えてきた。 吸い寄せられるように、千秋の頬に唇を寄せる。ついばむようなキスを何度も落として、調子に乗って千秋のシャツに手をかけたところで待ったがかかった。 「ちょっ、こら、ストップ」 「なんで」 「今、うちには千夏がいるだろうが!続きなんて出来るか!あの女のデリカシーの無さを舐めるなよ!!」 「…じゃあ、俺の家に行く?」 「俺がおばちゃんに申し訳ないから!おばちゃんちで、人様の息子に手を出して」 どちらかと言うと、現在進行形で手を出されているのは千秋だと思うけど。 一応付き合い始めてから一年になろうとしているが、千秋はなかなかキス以上を許さない。照れくさいのと、家族が傍にいるから落ち着いて出来ないというのが主な理由だ。 …まあ、その気持ちはわからなくもないので。 「じゃあ、卒業旅行だ」 「え、」 「春になったら、二人でどこかに行こう」 「………」 ぼすりと手近なクッションに顔を埋めた千秋から、約束だからな、とくぐもった声が聞こえてきた。 そう言えばここに来る道中で、今すぐ開かんとばかりに梅のつぼみが膨らんでいた。だからきっと、春はもうすぐだ。 end にしなさんから、『千夏ちゃんの彼氏が羽鳥』というお題を頂いてました。 遅くなってしまいましたが、続きもUPしました。 にしなさんが同じ設定で別のお話を書いてくれるそうなので、楽しみです…! 『お前が好きなんだ(俺をやる)』 2012.12.2 |