「また来たの、お兄ちゃん」 晴れた正午の中庭にて。千夏ちゃんがはあ、と溜め息を吐く。 俺と千夏ちゃんの向かいで、千秋がばくりとサンドイッチにかぶりつく。昼食を頬いっぱいに詰め込んで、大きな目をきょろりと動かす仕草には、昔飼っていたハムスターを彷彿とさせられた。…不覚にも、可愛いと思う。 もぐもぐとしっかり噛んでからサンドイッチを嚥下させた千秋は、困ったように頬をかいた。 俺が千秋と初めて会ってから季節が一つ巡って、秋になり。いつしか中庭に千秋も顔を覗かせるようになっていた。 確か最初のきっかけは、千秋が千夏ちゃんに『弁当忘れたから、お金貸して』と頼みに、中庭にやってきたことだ。 情けなく眉を下げた千秋に庇護欲をくすぐられて、空いていた俺の隣に無理やり座らせる。俺の弁当を半分わけてやると、よっぽど腹を空かせていたのか、おにぎりを手にした千秋の目は泣き出しそうに潤んで…かと思うと、急に大きな声を上げて立ち上がった。 『〜〜〜ああっ、もう!お前の隣に俺が座っちゃ駄目だろうが!千夏、俺と場所交換して。俺がお前らの向かい、千夏は羽鳥の隣な』 そうして俺達の正面に収まった千秋は、満足げにおにぎりに食らいつく。小さなおにぎりはあっという間になくなってしまって、千秋は指についた米粒まで舐めていた。 『あ、そうだ』 千秋が思い出したように言う。 『羽鳥、ありがと』 少し照れくさそうに紡がれる礼。 別に、弁当をちょっとわけてやるくらい、何でもないことなのに。濡れた唇から紡がれた言葉が、耳元で鐘でも突かれたみたいにぐわんと大きく響いた。 ――それから、忘れ物だ何だと千秋が千夏ちゃんを訪ねてくる度に、半ば強引に引き止めては向かいに留まらせた。自分でもどうしてこんなに千秋にこだわるのかよくわからないまま、気付けば千秋も一緒に中庭に集まるのが習慣となっていた。 最近自覚したことだが、俺はどうにも千秋のことを目で追ってしまうらしい。それはいつもずっと長い間のようで、でもたった一瞬のように短くて物足りないひとときだ。 どうして千秋を目で追うのか、理由も未だわからない。でも、やめられない。やめてしまうと、今度は千秋がどうしているのかばかり考え出して、授業中でも下校中でも家にいる時でも、いつでもお構いなしに落ち着かなくなる。 今もまた、向かいに座っているのをいいことに、千秋をちらちらと盗み見ていた。今の千秋は、不機嫌な妹に面食らっている様子だった。 「いい加減、芳雪くんと二人になるの邪魔しないで欲しいんだけど」 「いや、邪魔するつもりでは…ないんだけど……。でも、確かにお邪魔虫だよなー、俺」 千秋が眉を下げる。もしこいつに尻尾がついていれば、しゅんと垂れていそうな顔だ。 「……やっぱり俺、ここにいない方が良いよなあ」 寂しげにぽつりと言ったのが堪らなくて、つい口が開いた。 「別に、俺は邪魔と思ったことはない。ここにいればいいよ」 『……………はあ……っ』 すると、今度は兄妹同時に溜め息を吐かれた。苦笑をしている千夏ちゃんと、何故か余計に元気をひそめてしまった千秋は言う。 「芳雪くんはさあ…」 「羽鳥はなー…」 「何?」 『別に』 いつも小さな喧嘩ばかり繰り返す二人は、妙な時に仲良く声を揃える。 「………もう、いいや。お兄ちゃんがいちごミルク奢ってくれるなら、機嫌直してあげる。九十円で妹の機嫌が治るんだから安いもんでしょ」 「えっ。俺がいつも買ってるコーヒー牛乳より、十円も高いじゃんか!」 ぎゃあぎゃあと言い合う千秋と千夏ちゃんが微笑ましい。こんな応酬も恒例になっていた。 ……それにしても、千秋は千夏ちゃんと話しているときが、一番ありのままの表情をしている気がする。 すっかり暑気もどこかへ行って、中庭の木々に赤や黄色の葉が増えてきた。枯れ葉がちらちら混ざっているから、もう冬も近いのかもしれない。 いつものイスに座ると、先客の千秋は大きな目を見開いて驚いてみせる。 「あれ、今日は千夏は来ないって聞いてないの?部活の集まりがあるんだって」 「知ってる…けど、」 最初は千夏ちゃんと会うための場所だった中庭。だけど今では目的がすり替わっている。 「ここに来れば、お前に会えるから」 ぱちぱちと瞬きをした千秋は、大きな溜め息を吐きながらテーブルに突っ伏した。 「お前のそういうとこってさぁ…」 「何?」 「……なんでもないデス。あーあ、羽鳥って本当にモテるんだろうなー。千夏がいつも密かに心配してるの、わかるわ」 くぐもった声で千秋がぶつぶつと言っているのを聞いて、ふと思い出した。そういえば、以前から気になっていたことがあるのだ。 「―――俺のこと名前で呼べばいいのに、千秋も。俺もお前のこと、千秋って呼んでるんだし」 「へっ?」 パッと頭を上げた千秋は、パクパクと口を動かす。 「……芳雪って?」 「そう」 頷いてみせると、千秋が怒ったようにかっと顔を赤らめる。 「お前なんか羽鳥で十分だっ。なんで彼女でもなんでもないのに、芳雪くんとか言わなきゃなんねーんだよ」 「別に彼女じゃなくても、友達だって下の名前で呼んでもおかしくないと思うけど」 俺が千秋を名前で呼ぶのは、千夏ちゃんも同じ吉野という名字でまぎらわしかったからだが。 しかし、自分で言っておきながら、友達という単語にちくりと違和感を覚えた。 果たして俺と千秋は友達なのだろうか…いや、強いて言うなら友達だけど。さっきの口ぶりだと、千秋にとっての俺は友達ですらなく、なんでもない単なる知り合い程度に思われているのかもしれない。 内心で少し落胆していると、千秋が苦笑混じりに言った。 「…じゃあ、トリって呼ぶよ」 「トリ?」 「うん、羽鳥から羽をとって、トリ。いいあだ名だろ」 千秋が得意げに鼻を鳴らす。あだ名なんて久しぶりにつけられたから、千秋が『トリ』と呼ぶ唇の動かし方がどうにもこそばゆかった。 ああ、そうだ。千秋はそうして笑っている方がいい。 既に昼食を食べ終わって暇そうにしている千秋の前で、自分の弁当を広げる。 頬杖をついてランダムにひらひら落ちる木の葉を眺めていた千秋は、不意にぽつりと言った。 「―――なあ、俺とお前が初めて喋ったときのこと、覚えてる?」 勿論覚えている。何故か、何度も反芻していたから。 「お前があの校舎のあたりでこけてたときのことか?」 「うん。…俺にとってはさ、正確には『はじめまして』じゃなかったんだ、あのとき。俺はトリのこと、もう少し前から知ってたから」 「?」 いきなり何を言い出すのだろうか。 千秋はテーブルの上に落ちていたイチョウの葉をつまんで、くるくると回す。目の前にある窓の向こうの、ずっと遠くの風景を見ているような目だった。 「千夏に彼氏が出来たって聞いたとき、お前の顔を見にこっそり教室に行ったことがあるんだよ。千夏が家であんまりノロケてくるから、いくらなんでも褒めすぎだろうって思って。でも、いざ現物を見てみれば、お前本当にすっごく格好良い顔してるから笑ったね。流石は俺の妹、見る目あるよ」 …それは気付かなかった。そういえば初対面のときの千秋は、どこか妙な態度だった気もする。一方的に見知っていたことへの気まずさからだったのか。 千秋はイチョウを手放して、地面に落とした。 「お前、千夏とはうまくいってんの?」 「…一応」 唐突な話題の方向転換に応えると、俺の返事が気に食わなかったらしい千秋が眉根を寄せた。 「一応ってなんだよ…。じゃあ、もうキスとかした?」 キス。 千秋が言うには珍しい単語に、どきりとした。千秋が話す内容は主に食べ物や友達、趣味の漫画のことで、色気のある話題など今まで一度も無かったのに。 さっきの質問の答えはといえば、俺は千夏ちゃんとキスはしている。下校中そういう雰囲気になって、触れるだけのキスを何度かした。 けれど、千秋にそれを言うのがなんとなく躊躇われた。…だから、適当にはぐらかす。 「趣味が悪いぞ。兄妹とは言え、聞くべきじゃないだろ」 「そうだよな、ごめん」 あっさりと謝った千秋は、それきり黙ってしまう。一体何が言いたかったのか。俺も千秋に何を言えばいいのか、わからない。 漂った沈黙を割ったのは、ひらりと降ってきた黄色い葉だ。 『あっ』 テーブルの上に広げていた食いかけの弁当の上に、イチョウの葉が落ちそうになる。 とっさに受け止めようと手を伸ばしたのは同時で、同じ対象を追ったのだから、この手が触れたのは必然だ。 イチョウをつかんだ俺の手に、千秋の手が重なる。 (………?) いつかの千夏ちゃんのときみたいに、掌がしっとりと熱かった。 どうしてこんなに熱いのだろうか。千秋の手が熱いから?いや、それだけじゃない。 俺の手が、どうしてだか熱いから。 「―――あっ、悪い」 すぐに離された手が名残惜しかった。 「…なんで謝るんだ」 「なんとなくっ。そうだ。俺、五限目は移動教室だから、もう行くな」 言うが早いが、千秋はすっくと立ち上がる。 去っていく直前、一瞬俺と目があった千秋の目は、少し潤んでいるように見えた。その目が無理やり細められて、明るい笑顔が作られる。 「トリと千夏はさ、ちょっと羨ましいくらいにお似合いだと思うよ。あーあ、俺も早く彼女でも欲しいなあ」 なんとも切ない笑みだった。 千秋がいなくなって空になった向かいのイスに、イチョウがまた一枚落ちていく。 食べかけの弁当箱に再び箸をつける気になれず、さっきの千秋のようにぼんやりと木の葉を眺めて、物思いにふけっていた。 なんで千秋はあんな風に笑ったのか。 じわじわと汗ばんだ俺の掌は、さっきまで張り詰めた緊張を表していた。なんで俺が千秋に緊張しなくちゃいけないんだ。 千秋に関することだと、訳がわからないことばかりだ。 『羽鳥先輩が、好きなんです』 ――不意に、千夏ちゃんに告白されたときのことが思い浮かんだ。 そういえばあの時の千夏ちゃんは、緊張で掌が熱くなっていたな。あの時は、言葉以上にその手の熱さから伝わってくるようだった。 この子は俺のことが好きなんだな、という思いが、じりじりと。 (――――ああ、そうか、) 千秋を可愛いと思う。千秋を目で追ってしまう。千秋のことがとても気にかかる。 それら全ての事象、たった一言で説明出来るではないか。 (俺は、千秋が好きなんだ) 言える筈もない本音は、生唾と一緒に飲み込んで無くしてしまおうとした。 →next 2012.11.19 |