※千夏ちゃんの彼氏が羽鳥で…という設定です 「羽鳥先輩が、好きなんです。私と付き合って下さい…っ」 ある初夏の放課後、下駄箱に入っていた手紙から呼び出された校舎裏。うわずった声で言った彼女は真っ赤になって俯いて、肩まで伸びた髪が心許なげに揺れた。 いいよ、と返事をしたのは、好きと言われて悪い気はしなかったから。別に今付き合っている相手も好きな相手もいないし、断る理由もない。 パッと顔を上げた彼女は、信じられないとばかりに大きな目を見開いていた。そのまっすぐな反応に、益々好感が持てた。ああ、可愛い女の子じゃないか。 これからよろしく、と手を差し出すと、そろそろと小さな手が重ねられる。しっとりと熱い掌から、彼女が緊張していることが伝わってきた。 その日から俺は、吉野千夏と付き合うことになった。 「はと……芳雪くん、お待たせ」 「そんなに待ってないよ、千夏ちゃん」 付き合い始めて一カ月。晴れた日は中庭に備え付けられたテーブルで一緒に弁当を食べるのが、彼女…千夏ちゃんとの日課となっていた。 はにかみながら俺の向かいに腰を下ろす千夏ちゃんに、つられて微笑む。まだ呼びなれないらしく、時々言い間違えかけるのがどうにもくすぐったい。 敬語で話されるのも先輩と呼ばれるのも落ち着かないので、友達に話すみたいに普通に話せばいいと言ったのは、付き合ってから一週間目のことだった。 元来人懐っこい性格の千夏ちゃんは、くだけた口調の方がお喋りになるらしい。大きな目をくるくるさせて、あちこちに飛ぶ色々な話をする。 授業の話、友達の話、部活の話、テレビの話、買い物の話。そして、よく登場するのが、彼女の二つ年上の兄だ。 「―――それで、お兄ちゃんったら私のケーキ食べちゃって…」 「それで、喧嘩?」 「だって、自分の分もあったのに、私の分までとったんだもの!………あっ、」 ケーキをとられたことをむきになって話す自分に照れたのか、不意に顔を赤くして口をもごもごさせ出した。 「……食い意地はっててごめんなさい」 ばつが悪そうに言うのでつい笑ってしまったら、千夏ちゃんは拗ねて唇を曲げてしまった。 俺には兄弟はいないから、千夏ちゃんの兄の話を聞くのはなかなか楽しい。 千夏ちゃんの兄はどうやら同じ学校に通っていて俺と同じ学年らしいが、今までクラスどころか授業も同じになったことがないので、会ったことも話したこともなかった。 千夏ちゃんに会って、初めて存在を知ったその兄とやらは、一体どんな人なのだろうか。話を聞く限り、千夏ちゃんと同じく明るくて、しかし千夏ちゃんより間が抜けていて大分子供っぽそうだ。 (……まあ、いつか会うこともあるかな) 素直でよく笑う千夏ちゃんとは、これからもうまく付き合っていけるだろうと感じていた。そのうち互いの家に遊びに行ったとき、写真を見せられることもあるだろう。 しかし、そのいつかは案外すぐに訪れる。 この日、昼食を済ませ教室に帰る途中、千夏ちゃんが呟いたのだ。 「あっ、お兄ちゃん?」 千夏ちゃんの視線の先には、わらわらと集まった男子生徒の集団が、俺たちと同じく校舎に向かって歩いている。中庭の近くには売店と食堂があって、生徒の溜まり場となっていたから、彼らもさっきまでそこでたむろしていたのだろう。あの中に千夏ちゃんの兄もいるのかと、少し興味がわいた。 …しかし、何人もいる男子生徒の中の誰がそのお兄ちゃんか、俺にはわからない。千夏ちゃんに尋ねてみようかと口を開きかけたときに、最後尾の男子生徒の一人が転んだ。 『あっ』 俺と千夏ちゃんが、つい声を上げてしまったのは同時だった。 ちらりと隣を見やれば、膝をさすっている彼に向けて、千夏ちゃんは呆れ混じりの苦笑を浮かべていた。 「やっぱりお兄ちゃんだ。なんで何もないところで転けてるのよ、恥ずかしいなあ」 親しみのこもった口振りと、お兄ちゃんという呼び名。そうか、この彼が噂の兄らしい。 お兄ちゃんと呼ばれた男は、うーんと唸りながらも、ひょいと顔を上げた。 小さな顔の中で、ガラス玉みたいな瞳が印象的だった。 伸ばしすぎた前髪が、その大きな目に影を落とすのが勿体ない。柔らかそうな唇を、なんとも不服そうに尖らせていた。 千夏ちゃんから聞いていた印象そのままだ。明るそうで、子供みたいに無邪気そうで、すごく可愛い……。 (―――って、俺はなんで男を可愛いなんて思うんだ……?) 自分の中に浮かんできた男にはふさわしくない形容詞に、内心で首を傾げる。特別な美系という訳でもない、なんということのない普通の少年を見て、こんなことを思ったのは初めてだ。 そうだ、千夏ちゃんに似ているせいだろうか。兄妹だけあって、大きな目や長いまつげもそっくりだし。でも彼の所作や声だとかは、どう見ても男のそれなのに…おかしいな。 歩み寄る千夏ちゃんに気付いた彼は、小さな口を豪快に歪める。 「げっ、千夏じゃん。お前、なんでこんなとこにいるんだよ」 「『げっ』とは何よ、もう。中庭でお弁当食べてたの、芳雪くんと」 「えっ?」 彼はようやく、千夏ちゃんの隣に立つ俺に気付いた。目が合えば、彼の瞳の大きさがよくわかる。 「………あ……っ」 (…………?) 俺の顔に何かついているのだろうか。彼の視線はなかなか俺から外れない。その視線が、いきなり口に入れた氷みたいに、刺さるように沁みる。 何故かじわじわと赤く色づいていく彼の頬をぼんやり見つめていたら、彼は突然ハッとしたように笑みを作った。 「……え〜〜〜っと、もしかして例の『すっごく格好良い彼氏』?お前が毎日毎日、『今日の芳雪くんがいかに格好良かったか』って聞いてもいないのに語り出す…ふがっ」 からかう調子は、悪戯っぽい少年の口調。千夏ちゃんが慌ててその口を塞いでしまった。 「もうっ、お兄ちゃんったら!芳雪くんの前では言わないでよっ」 妹の掌に鼻と口を塞がれ、呼吸が出来なくなった彼は早く離せともがいている。手加減なしの兄妹のじゃれあいは、彼の目が涙ぐむまで続いた。 「……ぶはっ。…ったく、何今更照れてんだよ。毎日飽きもせずノロけてくるくせに」 「だから、言わないでってば!」 顔を赤くしている千夏ちゃんにくすりと笑ったその顔は、大人ぶった兄の表情。再び俺を見た彼の目には、もうさっきみたいな緊張感は無かった。 「え〜っと、初めまして。俺、千夏の兄の吉野千秋です。こいつ、かなり口うるさいけど根は良い子だから、許してやってな」 「ちょっと、口うるさいってなによ」 「本当のことだから先にちゃんと言っとかないと。後で知られても、こんな筈じゃなかったのにってもめる原因になるぞ。似合わない猫なんてかぶるなって」 「余計なお世話よっ!」 ご立腹の妹に、けらけらと笑う千秋。長いまつげを揺らして、口元には小さなえくぼが出来た。 そうか、笑うとこんな顔になるのか。脳裏に浮かんだ形容詞は、またも『可愛い』だった。 「おーい、千秋ー。もう行くぞー」 「あっ、ごめん!待てよ、優ー」 遠くで名を呼ぶ友人に気付いた千秋は、細い足で駆けだして離れていく。 兄の背中に「もうっ」ともう一度文句を言った千夏ちゃんが、俺を見上げて呼びかけた。 「じゃあ、私たちも行こっか、芳雪くん」 そうだ、行かなくては。もうじき午後の授業も始まるし、いつまでもこんなところで突っ立っていても仕方ない。 「…………芳雪くん?」 なのに、どうしてか動く気になれないのは、急に胸の中が騒ぎだしたからだ。 くすぐったいどころじゃない。まるで胸に見えない糸が巻きついて、締め付けられているようだ。痛くて、切なくもある。 (なんだろう、これ) 千秋の顔が、声も、頭から離れてくれない。千秋の一挙一動を反芻すると、痛みは甘いうずきに変わった。 千夏ちゃんの「芳雪くん、チャイム鳴っちゃうよ?」という声がずっと小さく聞こえる。 彼女が遠くにいるから?違う、俺の心臓の音がばかに大きいから、それで彼女の声が小さく思えるのだ。 何故?そんなの、わからないけれど。 ―――――これが、俺と吉野千秋との出会いだった。 →next |