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※ 現代パロディです。
1「適当に座ってください。すみません、散らかってて」
机の上に置かれた何かの雑誌を重ねて、ソファーにかけられていた上着をクローゼットに仕舞えば、そこはまるでモデルルームのようだった。
一人暮らしにしては広いキッチンと、白く大きなソファーにふかふかのカーペット。奥にはまだ扉があるから、多分寝室だろう。
「コーヒー飲めますか」
「…」
「あの、渋谷さん」
「……」
「…ユーリくん」
突然覗きこまれて名前を呼ばれて、思わず肩を跳ねさせてしまう。
よろけてソファに腰をつくと、コンラッドさんは優しく笑って謝罪の言葉を口にした。
「すみません。早く帰りたいですよね」
「あっ、あの!俺、実は…は、初めてで…!」
「それは…どちらが?」
「え?」
「あ、失礼。キスとか…普通のセックスとかが、ですよね」
「せっ…!」
非現実的なことが起きて頭がパンクしそうだったのに、急に現実的な単語が頭の中で花火みたいに打ち上げられる。
「髪の毛、濡れていますね」
ゆっくりと手が伸ばされて、動けなくなる。
節ばった大きな手が耳朶を撫でて、鳥肌がたつ。
こそばゆいような、よく分からない感覚に喉の奥がきゅうと鳴った。
「きっ、綺麗なお部屋ですね!」
「え?…ああ、あまり家に帰ってこないものでして。生活感がないだけですよ」
「ごみとかもなくて、っ、俺の部屋なんか汚くて…」
「掃除は、兄が」
腕を引きながら苦笑するその顔も、もう直視できなかった。
「俺にも兄がいます!」
「…そうなんですか。ユーリくんに似て、かっこいいお兄さんなんでしょうね」
「かっ、…こよくはないです…」
何かよく分からない職業に就いて、埼玉県民なのに都知事になろうとしている兄は断じてかっこよくはない。
頭が良過ぎるというのも問題だと体をはって教えてくれている。
その点目の前の彼のお兄さんは、どれだけかっこいいのだろうか。このイケメンに渋さが混ざった感じだろうか、それともまた違うようなイケメンだろうか。
「あ、あの…」
「はい」
「仕事とか、ですか…?悩み事って…」
「悩み事?」
「俺…ただの大学生ですけど、悩みを聞くことはできます、」
「悩み…は特に…。あ、でも」
コンラッドさんはふわりと柔らかく頬を緩ませて、優しく言った。
「好きな人がいます」
「………っあー…そ、うですか…」
やっとの思いで絞り出した声と一緒に、思わず目を逸らす。
好きな人がいる。
当たり前のことだ。
「彼女ですか?もしかして片思い?」
「え?」
「コンラッドさんくらいのイケメンなら、誰だって好きになりそうなのに!あ、でもコンラッドさんが好きになるくらいだから、すごく美人なんだろうな…、」
「すみません、ユーリくん」
「ああ、気にしてないです…俺、金に釣られて来たんですから!なんもできないけど、酷いことだけはしないなら、俺…多分大丈夫だと…」
「それは、なんでですか?」
ぐっと顎を掴まれて顔をあげると、すぐ間近にコンラッドさんの顔があった。
ソファに座る俺の膝をまたぎ、片手は背後の背もたれについている。
この人、こんな顔もできるんだ。
なんだか苦しそうな表情で何かを押し殺して、俺をじっと見つめる。
「貴方は、同性愛者ではないはずです。なのになぜ、俺に抱かれることを受け入れたんですか」
「…そ、れは…おかね…」
「嘘でしょう?貴方はそんなことはしない。ユーリくんは、そういう曲がったことが嫌いでしょう」
「……」
そうだ。俺はきっと、お金なんていらない。
じゃあなんで、俺はコンラッドさんについてきてしまったんだろう。
こくりと小さく唾液を飲み込んだ瞬間影が降り、避ける暇もなく柔らかい唇が触れた。
温かい体温と、優しい感触。
一瞬だけのキスは、今まで触れた何よりも柔らかかった。
「俺は貴方が好きなんです」
「…………は…?」
「知っていたんです。ユーリくんのこと。…試合終わりに野球のユニフォームを着て友だちと電車の中で寝過ごしてしまったことも、大学の試験が終わって窓の外を見ながら泣いていたことも、痴漢に間違われたことも」
「…ははは」
「でも、それでも本当の痴漢を捕まえたことも、入学手続きのプリントを全部落としたことも、大学生になってまた、寝過ごしてしまったことも」
コンラッドさんは、伏せていた目を上げて真っ直ぐに俺を見た。
きらきらきらきら光る銀色は相変わらずすごく綺麗で、なんだかとても懐かしいようにも感じた。
いつの間にか繋いでいた手はきっと、もう俺だけの温度ではない。
握り直されてびくりと肩を跳ねさせると、彼は謝罪を口にして優しく笑ってくれる。
「真っ直ぐで、勇気があって優しくて。いつか貴方と話せたらいいなと思っていました。その気持ちが段々と大きくなって、毎日貴方を探していた自分に気がついたんです。貴方を見つけた日は一日中嬉しくて、いなかった日はずっと貴方のことを考えていた。…好きなんだと、気付いたんです」
決して交わることのなかった道がいつの間にか交差して、その真ん中に立っているんだとぼんやりと思った。
「こんな卑怯なことしかできなくて、本当にすみません。貴方を、傷つけてしまうような真似を。けれど今日貴方とぶつかって、目が合って、どうにも抑えられなくなった。不思議ですね、昨日までは一目見るだけで満足していたのに」
「あの、俺、男…」
「貴方が、好きなんです」
俺に言うでもなく彼は、独り言のようにぽつぽつと語る。
彼の親指に手の甲を撫でられて、俺はようやくこれがどうしようもないくらいの告白なんだと気づいた。
でもコンラッドさんはきっと、返事なんか求めていないんだろう。
そんな厚かましさや図々しさを含む身勝手さを、この人はもっていない。
「俺、あの…コンラッドさん」
「もういいんです。これは、何か好きなことにつかって。貴方に触れられて、良かった」
「え…?」
彼の体がすっと離れていく。
ソファを微かに軋ませながらコンラッドさんは立ち上がった。
そして膝を折って、俺を見上げる。
「ずっと貴方に触ってみたかった。どんな感触で、どんな温度なんだろうと。唇も、奪ってしまってすみません。この金額の内訳に、入るでしょうか?」
「くちびる、って…きす、さっきの、キスのことですか…」
彼はそっと、茶色い封筒を俺の胸に押し当てた。
何よりも現実的なものを、俺は初めて嫌悪する。
まるで俺の意志なんてそこにはなかったみたいに、コンラッドさんは俺を買ったと言った。
それが俺は、とても嫌だと思った。
「お金、…ありがとうございます。すきなことに、つかいます」
「…ええ。ちなみに、なにを」
その封筒を、彼の胸に突き当てた。
薄い紙幣の束は重たいけれど、これで人の気持ちが買えるわけがない。
だけど彼は、俺を買ったんだ。
買えるわけがないと痛い程自覚していながら。
「あなたを、もっと知りたいです!真面目そうなのにこんな援助交際紛いなことして、人目もはばからずに札束突きつけるくせにキスで終わりとか言うあなたのことを!きっと、きっと俺…あなたに好きになってもらいたいですっ…」
震える手が隠した小心さを伝えてしまいそうで、彼が何も言わずに封筒に手を伸ばしたところで引っ込める。
なのに強く手を掴まれて、交差した目は彼のもつ綺麗な星空に見とれてしまった。
「ほんとうに?」
彼の発した声は、思っていたよりもささやかだった。
「ユーリくんは、色々処理できなくて混乱しているだけです。俺は、貴方と付き合いたいとか、そんなこと…」
「嫌いになったら、俺はあんたをす、っ…すてます…!」
思いもしてない言葉。
一瞬息がつまるが、彼は少し頬を緩めた。
「なんっ…、なんでコンラッドさんは、俺が一歩進んだら三歩ぐらい後ずさるんだよ!好きって言ってくれて、それが嬉しくないわけねーじゃん!こんなに真剣に思ってくれて、男同士だけど…俺はなんでだか、あんたならいいって、思っちゃうんだよ!」
掴まれた手に、力をこめた。
コンラッドさんの眉が歪んで、自分の責任だとでも言わんばかりの空気がひしひしと伝わってくる。
でも繋いだ手を見つめて、緩く柔く、嬉しそうに笑った。
「…ありがとうございます」
「うん…おかね、かえす」
彼は一瞬だけ思案するように瞳を揺らしたが、すぐに唇に弧をえがき茶色の封筒を受け取ってくれた。
そしてそのまま俺の手を引いて、遠慮がちに、確かめるように、また何より壊れものでも扱うように、俺を抱きしめる。
俺は男だから、なんて言っても、渋谷有利が好きなんですと言われちゃたまんない。
簡単に言葉に詰まらせるくせに、悪気もなく申し訳なさそうにあっさり引くもんだから、ついその手を掴んでしまった。
今日俺は、それが恋だと気が付いた。
end