■ 罪深い光1
羽ペンの先が砕けるように潰れた。
羊皮紙には黒い点が散らばり、紙を一瞬にして汚した。もうこれでは公的証書として意味がなくなるだろう。ふうとフィオレは息を吐いて羽ペンを捨てて、大きく手を上にやり体を伸ばす。
ふわりと窓から風が吹いて机の上にある書類を飛ばした。またメイドにため息を吐かれるなと思ったが、フィオレのせいではない。風のせいなのだ。
空を見上げれば帝都ザーフィアスを守る結界魔導機が半透明な円状に広がっている。フィオレが生まれてから三十年当たり前にある光景だ。
魔導器とは古代ゲライオス文明で作られた遺産である。魔導器の原動力となる魔核に術式を刻み、あらゆるものの命の根源とも言われるエアルを魔導器が吸収することによって人々の生活に役立っている。
結界魔導器もその一つだ。
魔導器は人々が生活するのになくてはならないものだ。魔物を退ける結界魔導器、身体に害のない水を汲むための水道魔導器、夜を照らす照明魔導器、生活に必要なものはすべて魔導器でまかなっているといっていい。
今の文明が始まってから千年、魔導器頼りのこの光景はきっと変わっていないのだろう。変わったのは人々の意識、格差と差別はきっと大きくなっているだろうけれど、それを変えられる人は未だ出ていない。円錐状に作られているこの街は下がっていく度にこの街の人々は蔑まれる。本当に嫌な構図だ。かろうじて結界魔導器があるから人々は魔物に怯えない生活が出来ているが、はたしてそれは幸せなのだろうか。
魔物の脅威を恐れるあまり街から一歩も外に行かず死ぬ市民も多い。
この世界テルカ・リュミレースはもっと広い世界だというのに、この小さな箱庭で死んでいくのだ。
思考が闇に落ちようとしていることに気が付いてフィオレは意識を切り替えた。するとドアが控えめにノックされる。フィオレが応えるとメイドがゆっくりと扉を開いた。
「お嬢様、フレン・シーフォ様がお見えです」
フィオレはにっこりとしながらメイドに告げる。
「ありがとう。でも、今はお嬢様ではなく名で呼んでください」
メイドはフィオレの言葉に簡単に頭を下げて申し訳ありませんと言った。だが表情はぴくりとも動いていない。流石名家であるシャイネンのメイドである。それにもうフィオレは二十七歳だ。お嬢様なんて言われる齢ではない。
だが小言をいう前に客人を迎えなければならない。フレンがフィオレを訪ねてくるということは余程のことだろう。
メイドを下がらせると入れ違うように鮮やかな金髪が足早に入ってきた。メイドが顔をしかめるところを見たがフィオレは気が付かないフリをした。青を基調とした騎士服をきっちりと着こなしたフレンは扉を閉めることを忘れ、口を開こうとした。だが、フィオレは手で制しメイドに目配せして扉を閉めさせる。
フィオレはフレンに向かって穏やかに微笑む。
「こんにちはフレン。火急の要件ですね?」
フィオレの端的な言葉にフレンは一瞬で無作法をしたことに気付いた。すぐに頭を下げる。
「申し訳ありません副団長。礼を失してしまいました。ご容赦を」
「構いません。用件は何ですか?」
フレンは一回大きく呼吸をして言葉を吐いた。
「ヨーデル殿下が誘拐されました」
フィオレは一瞬にして事態を察した。
ヨーデル殿下は次の皇帝に後押しされている人物だ。他にも数人いるが一番有力視されているのがヨーデルである。十年前病死した先代皇帝から未だに次の皇帝が立っていないのは先代が子を残さなかったのと他にも理由があるが、それを今言っても始まらない。
問題はどこの誰がヨーデルをさらったかによって、あるいは見せかけたこといよって城の勢力図が変わってくるかどうかだ。
「あの隊からヨーデル殿下をさらうにはなかなか骨がいる作業ですから、今回は手強そうですね」
「……はい」
頷いて沈黙したフレンにフィオレは思案した。
ヨーデルの護衛を頼んでいたのは騎士団長であるアレクセイの直属の部隊である。彼らは優秀で主に騎士団長の命令しか聞かない。副団長であるフィオレの言うことでも首を縦に振らないことで城の中では有名だ。
今、城では勢力が二分化されている。元老院が皇帝にと望んでいるのがヨーデル、騎士団が推しているのはエステリーゼという王女だ。
だがこれはあくまで大まかな部類でありそこに推されているからと言って安全とは限らない。ありとあらゆる思惑がうごめいていて危険な状態だった。騎士団は軍事を取り仕切るので、ヨーデルがさらわれればもちろんのこと元老院から非難されるだろうし立場が悪くなる。それを狙った犯行である可能性が高い。
フィオレはフレンに尋ねる。
「騎士団長はなんと?」
「団長は私に巡礼の旅へ行けと」
ふむとフィオレは頷いた。
「そういえばあなたはまだでしたね」
巡礼の旅は騎士がザーフィアスから出て世界を渡り見聞を広めるためにする古い習わしだ。フレンは下町の出身ながら破竹の勢いで出世している人物で、普通なら騎士になってすぐに出されるはずだが有能すぎて先延ばしにされ続けたのである。
フィオレはにっこりと笑う。
「いい機会です。色々なものを見て触れて感じて来なさい」
「ありがとうございます。ですが……」
フレンが顔を下げて黙り込む。
フィオレがふっと笑って顔を上げなさいと言った。
「エステリーゼですね?」
エステリーゼの護衛はフレンがしていた。彼女を一人で残すのが心配なのだろう。フレンは頷いた。
「エステリーゼ様はあまり味方がいらっしゃいません。どうか」
フィオレは手を組んでフレンに優しく微笑みかけた。
「エステリーゼは私が何とかしましょう。安心して行ってらっしゃい」
フレンの先ほどまで強張っていた表情が晴れやかになる。
「ありがとうございます」
頭を下げたフレンにフィオレは机の引き出しから指輪を取り出した。そして椅子ではなく車椅子を手で動かしてフレンのもとに近づいた。
「フレン。手を」
フレンは言われた通り手を差し出した。フィオレは手を取り指に指輪をはめ込んだ。
「ソーサラーリングです。困った時に使ってみなさい。役に立つはずです」
「ありがとうございます」
フレンが初めて笑顔になったのを見てフィオレは少し小首を傾げた。
「フレン。少し屈んでいただけますか?」
「え? ……はい」
素直に屈んでみせたフレンにフィオレは彼を抱きしめた。そして耳元でささやく。
「せめてあなたに選別と祝福を」
「フィオレ様!?」
真っ赤になって慌てるフレンにフィオレはくすりと笑って離れた。
「私の弟子がこんなに立派になったのだからいいでしょう?」
「僕はもうそんなに子供じゃありません! それにあなたとは六歳しか離れてないのですから、こんなことは」
フィオレはにっこりと笑って指摘する。
「僕、になってますよフレン。常に冷静でいるように」
フィオレの言葉にフレンはハッとして静かに、でも不服そうにはいと言った。対してフィオレは満足そうに頷いた。
「あとはユーリですね」
フレンは初めて顔をしかめる。
「ユーリはまだ下町でフラフラしていて……」
明らかに不満そうな言い方だ。それも友達だから心配なのだろうと推察しつつフレンがこんな風に誰かの不満を言うのは久しぶりなのでフィオレは笑っていた。
「まあそろそろ動くでしょう。嫌がおうにも、そういう時期になってくる」
フレンが首を傾げた。
「時期……ですか?」
「ええ、きっと動きますよ」
コンコンとノックをされて二人は扉のほうへと視線がいく。きっとまた別の来客だろう。フレンは背筋を伸ばして礼をした。
「お忙しい中ありがとうございました。よろしくお願いします」
「わかりました。あなたに祝福があらんことを」
そしてフレンが退室した後すっとフィオレの横に現れたのは金髪碧眼の美少年だった。横を通った誰もが振り返りそうな顔は今はしかめられている。ラフな格好をしているが、服は絹で仕立てられたもので貴族が身に着けるものだ。
彼は今不機嫌だ。その理由もフィオレはわかっている。
「キリエ、そんなに妬けましたか?」
彼は拗ねたようにそっぽを向く。
「当たり前じゃん。抱きしめるのは僕だけにしてって言ってるじゃん」
見るからにぷんぷんしているキリエにフィオレは彼の頭を撫でた。
「まあまあ、のぞき見はいけませんね。先ほどのノックも貴方の仕業でしょう?」
ふんと鼻息荒くしてキリエは頷いた。その様子にくすくす笑いつつもフィオレはキリエに尋ねる。
「首尾はどうです?」
「ばっちり」
「流石キリエですね」
褒めるとキリエは嬉しそうに胸を張った。
「じゃあ、後はお父様だけですね」
キリエに告げると見るからに嫌そうに顔をしかめた。
「もうあいつ無視して行こうよー」
「ダメです。あの人しつこいんですよ」
キリエがため息を吐いて空を仰いだ。そして視点が結界魔導器に目が留まるのを見逃さなかった。その表情はどのような感情も押し殺して何も見えはしない。それほどに悲しみが深いということだろう。フィオレがキリエをゆっくりと愛おし気に抱きしめる。
「大丈夫、もうあんなことは起こしません。だから私たちは『共犯者』なのでしょう?」
キリエはフィオレが回してきた手に触れて目を閉じる。
「ああ、やろう。僕たちはその覚悟がある」
そして二人は約束を違えず、計画を実行する。
味方は二人だけ。
二人だけの行軍、二人だけの旅路。
たった二人だけで世界を敵に回して戦うのだ。
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