小説 | ナノ


▼ 薄紅色に色付いた花




筆を使って紅をさし、艶やかに彩られた唇を馴染ませるように擦り合わせる。三月ほど前に寄った呉服店で貰った化粧道具がこんなところで役に立つとは、店主に感謝しなければならない。

呉服店に入ったのは他でもない、非番の日に着ていた着物が解れてしまったからだった。着物に特にこだわりは無いせいで、同じものばかりを身につけてしまい、遂に生地がねをあげたのだ。新しいのを買えばいいと思ったが、鬼殺隊に入ってから愛用していたそれを手放すのがなんとなく惜しく、結局仕立て直してもらうことにしたのだった。
呉服屋には化粧道具を買いに行ったわけでは無いというのに、何故これが手元にあるのか。あの気立ての良い女店主の目には、きっといい年頃の娘が化粧もせず、古い着物を持ってきたのが気の毒に写ったのだろう。「最低限のものしか入ってないけど、あんたにはこれだけでも十分だ」と渡された化粧道具。使うこともないからいいと断ったが、頑なに店主が押し付けるものだから渋々と受け取ったのだ。
一緒にこれもと見るからに上等な反物も寄越してきたが、流石に受け取れないと丁重に断った。私だって決して手持ちがこの古い着物だけではなく、上等なものも持ち合わせている。ただ、それを着る機会がないだけ。
だからこの化粧道具もきっと開けることもないだろう、そう思っていたのに転機は案外早く訪れた。

藤色地に辻が花調の模様と鳳凰が描かれた、一つ紋付きの訪問着を袖を通し、化粧道具をパタンっと閉じる。いつもは高い位置で結ぶ髪は、今日は低い位置で綺麗に纏めて小さなパァルの飾りを添えている。

「まぁ、偶にはいいか」

隊服や普段の着物に比べると動きづらいが、そのせいか所作一つとっても普段と別物になるのだから、日頃の自分の行動を振り返るとこういう日もあっていいのかもしれないと苦笑いが漏れた。
「さて、さっさと用事を済ませよう」
ここの藤の花の家紋の家は、自分の管轄街であるために、『遭遇』する確率が滅法高いのだ。面倒ごとになる前に。きっと今頃血眼になって探しているだろう、彼だけには会いませんように。そんな思いも虚しく、ばったりと出会ってしまったのだ。それも、部屋を出た途端に。

「………師範?」
「や、やぁ、杏寿郎」

どうしてこうも、私は運が悪いのだろうか。願ったのにも関わらず、こんなすぐに出会うことがあるだろうか。ほら見ろ、いつも見開かれてどこを見てるのかも分からないぎょろっとした目が、ばっちりと私を見ている。大きな目をさらに大きくして。

「師範!ここにいらしたのですね!!随分探しました!」
「…探さなくていいよ、杏寿郎」
「それより師範、どうしたんですか!何故そのような格好をしているのですか!」

最早彼の耳に私の言葉は入っていないのか、それともわざと無視しているのか。珍しい格好に早速ぐいぐいと食い気味に来る杏寿郎の額をぺちんっと叩いて静かにしなさいと嗜めた。
あぁ、そうだねぇ。君の前ではこんな格好一度たりとも見せたことなかったから珍しいだろうに。真っ直ぐと向けられた視線に小さくため息をついた。

「杏寿郎、私は今日は非番だ」
「はい、存じております。ですから師範に稽古を付けてもらおうと探していた次第です」

あの日、私が死の淵から戻って以来、杏寿郎は私のそばを片時も離れようとしなくなった。勿論別々の任務があれば仕方がないのだが、非番の日や任務までの時間、必ず彼は私のそばにいる。それと同時に杏寿郎の稽古の量や手合わせの数もグンと増えている。彼なりに、思うことがあったのだろう、あの数日間。強くなりたいと思う気持ちがまだ成長途中のその背中からよく伝わってきていた。
と、まぁそこまではよかったのだが、問題は…

「屋敷を出る時は烏に伝えて欲しいと言ったはずです!」
「すまない」
「師範!反省の色が見えません!!」
「……」

あの日以来、片時も離れようとしない杏寿郎は文字通り、本当にべったりなのだ。少しでも杏寿郎の知らないうちにそばを離れようものなら彼は血眼になって私を探す始末。一体なんだっていうんだ。一度死にかけたからといって、そんな容易くまた死ぬと思われているのだろうか。仮にも柱である私に。お前の師範だぞ。

「こうも監視されてると疲れるんだが」
「む!しかし、師範!以前はこうした行動も愛いと仰っていたではないですか!」
「……」

いや、仰っていたけど、それ何年前の話だ。今じゃ成長途中とは言え、鍛え抜かれた身体はもう立派な男の身体に近く、最近は身長も伸びて私より数センチだが高い位置で目線が合っているし。着物を掴む手には薄らと血管やスジが浮かび上がり、もうどこをとっても子供とはいえない男のそれなのだから。着物を掴んでいた手がゆっくりと手首に移動して、素肌に触れたそのかさついた指先も、離さないと握るその力も、全部女の自分とは違って。

「師範。もう一度聞きますが、何故そのような格好をしているのですか」

まざまざとそんなものを見せつけて、なにが愛いだ。

「お見合いよ」

揺れる琥珀色の瞳に一つ笑みを溢し、その場を去ろうした時、腕を強引に引っ張られ、気がついた時には目の前には天井と、そして、

「今、なんと言いましたか」

恐ろしいくらいに冷たい顔をした杏寿郎がいた。

「見合いと言ったんだよ」

見合いという言葉を少しだけ強調して伝えれば、目の前の表情は更に険しいものとなった。
己を律し、負の感情をあまり表に出さない杏寿郎にしては珍しい光景に、内心深いため息を吐く。ここ最近の彼の行動は、「心配」にしては些か度が過ぎていた。恐らく師に対する尊敬、若しくは敬愛からくるものだろうが、純粋な彼はいつか恋愛のそれと勘違いしてしまうのではないかと心配になっていた。
たかが師の見合い。私を常日頃見ている杏寿郎なら、この見合いが私が望んでいるものではないことくらい理解している筈。
なのにも関わらず、この有り様。もう手遅れに近いのかもしれない。

「任務で助けた人にどうしてもと頼まれただけだ。退いて、杏寿郎」
「…っ、行かせたくありません」
「杏寿郎」

そんな泣きそうな顔で見たって駄目だよ。口調を強めて名前を呼べば、びくりとその身体が怯んだのがわかった。もう一度名前を呼ぶと、ゆっくりと離れていく自分より大きな身体に、思わず伸びそうになる手にグッと力を入れる。

(勘違い、するな。)

言い聞かせるように何度も頭の中で唱える。

「ただ顔を見せに行くだけだ。すぐ終わる」
「もし、相手方が師範を気に入ったらどうするのですか」
「はは、そんなことあるわけないだろう。男勝りな性格にこの体格。着物でも隠しきれないくらいあちこちに傷がある。誰が好んで傷物を」

貰おうとしようか。先の言葉に思わず口を噤んだ。ああ、私は話の選択を間違えたかもしれない。再び覆い被さって痛いくらいに抱きしめる身体に、手遅れだと後悔する。

「何故貴女は自分を卑下するのですか」
「…きっと女隊士なら一度は考えることだよ」

鍛えた身体も負った傷も、一般女性のようにはいかない。それが普通だと思っていたから、苦に思うことなんてなかったのに。

「貴女は、美しい。如何なる時も」
「な、にを…」
「この腕の傷はまだ入隊したばかりの俺を庇った時に付いた傷。これも、これも、全部貴女が命を賭けて鬼と戦った証です」
「な、ちょ、杏寿郎…っ」

袖口を捲り上げ、露わになった肌を滑る指先に思わず身体が強張る。見下ろす琥珀色の双眼はいつもの杏寿郎からは想像できないような恍惚としていて。

「だけど、知らないうちに貴女に傷が増えるのは耐えられない」
「…っ、あ、杏じゅ…ッ」

肌けた二の腕に走る痛みと柔らかな感触。見ると、自分の二の腕に噛み付くように舌を這わせる杏寿郎がいた。力加減というものを知らないのか、そこには赤い歯形が、ねっとりと艶やかに濡れた肌の上に浮かび上がっている。まるで傷跡に上書きするように。

「待て、杏寿郎…、痛…っ」
「はぁ…っ、貴女が他の誰かのとこに行くことなど考えられない」
「んぅ、やめ…っ」
「…ッ、師範、俺は……ッ」
「やめろ、この馬鹿!!!!!」

スパンッ!持てる力の全てでその金色の頭を叩くと、湿り気を帯びた空気を割くような音が部屋に響いた。

「………痛い!!!」
「当たり前だ!痛くしたんだ!何してるんだお前は!驚いた顔をするんじゃない!」

覆い被さった身体を跳ね除け、上がった息と乱れた着物を整える。それを残念そうな顔をして見つめる杏寿郎をもう一度一喝すると、表情は変えないまま身体をびくりと震わせた。

「もういい。行かない」
「え?」
「見合いは行かないと言ってるんだ」
「師範…!」
「髪も着物も乱れた。こんなんじゃ行けない」

本当はこれくらいならいくらでも直せた。だけど嬉しそうに笑うその顔にどうも私は弱いらしい。一体手遅れなのは、どちらなのか頭を抱えたくなるくらい。




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