小説 | ナノ


▼ 夜に溶けた誘惑





キュッ、キュッと蛇口を捻れば、勢い良く流れていた水流は次第に弱まり、名残惜しくシンクにその身を投じた一滴を最後にピタリと止んだ。濡れた手をシンク下の棚の取手に引っ掛けたタオルでがしがしと拭き、スウェットのポケットに入れっぱなしになった携帯を覗き込むと、小さく溜息を吐いた。
画面には未だネットニュースの速報が表示されているのみで、ふと上の時刻を確認するとさっき画面を見てからもう一時間も経過しているのだと気が付く。帰る頃には連絡入れるから、そう言って夕刻家を出たななしは、今日は珍しく友人と飲み会があるのだと、朝から随分と機嫌がよかった。いつもの年上の女を思わせるかっちりした仕事着や、二人で出かける時の女らしい服でもなく、彼女にしては珍しくカジュアルな装いは、その友人との気のおけなさが感じられた。

口には出さなかったが、自分の前では見せないその姿に少し嫉妬したのと、何よりも普段の女らしい服装も好きだが、カジュアルな服を着たななしもそれはそれは可愛くて、その姿で行くのかと憚られた始末だった。
だというのに、時計の短針は既に天辺を回っており、未だ音沙汰のない携帯に少しずつ苛立ちが募っていく。明日は日曜日でななしは仕事が休みだ。翌日の仕事も気にせず、久しぶりの友達との飲み会できっと会話にも花が咲き、時間を忘れていてもおかしくない。それに、成人女性が日付を跨いで出歩くことに、何を文句言えようか。ましてや、自分の立場で。

そう、そこなのだ。苛立ちの原因は。「早く帰ってこい」「あまり心配させるな」、どれもこれも彼氏でもないただの同居人である自分の立場では言えることではない。それが歯痒くてどうしようもなく腹立だしくて。普段自分の前では見せない格好をしたり、なかなか帰ってこないななしに、八つ当たりのようにその感情を向けてしまっている。そんな自分が何よりもこの苛立ちの原因なのだ。

「あー、うじうじしてんじゃねーよ。うん」

どうしようもないことを考えてネガティブになるのは性に合わない。つい出そうになる溜息を、昨日彼女が俺の分もと買ってきてくれた飲みかけのいちご牛乳と共に、ズズっと勢いよく飲み込んだ。ストローがひしゃげていたけど、そんなのもうどうだっていい。

「ったく、心配させんじゃねーよ」

再び携帯を手に、メッセージ画面を開いたと同時。「シュポンッ」と軽快な音とともに映し出された一つのメッセージ。

『今駅でーすか、えるねー』

続く大凡可愛いとは言い難いスタンプも表示され、苦虫を潰したように「ぐぅ…っ」となんとも言えない声が出た。
なんつータイミングだよ。これじゃまるでオイラがメッセージ来るの待ってたみたいじゃねーか。
画面に見える可愛いと言い難いスタンプとメッセージと、『既読』と表示された文字を恨めしげに見つめる。

(つーか、相当酔っ払ってるな。うん)

人の気も知らず、呑気で堂々と打ち間違えている文面に頭を抱えたくなった。ななしは時々家でも酒を飲むことがあるが缶1本程度でそれ以上は飲まない。それだけのアルコール量では酔わないらしく、顔色もいたっていつもと同じ。聞けばどちらかというと酒は好きだけど、金もないからという理由で控えているらしい。家に来てからは飲み会もなかったようで、つまりななしの寄ったところを見たことがないのだ。だからこそ怖い。自分には酔うということがどういうことかは分からないが、雑誌の特集で酒の席で身体の関係に持ち込むなんて話もよく目にする。

ななしのいう駅とは、ここの最寄りの駅なのか、それとも飲み屋の近くの駅なのかはあのメッセージからは読み取れないが、もう行く他ないだろう。

「仕方ねーから迎えに行ってやるよ。うん」

変な事件に巻き込まれたら堪ったもんじゃない。言い聞かせるように口にして、急いで残りのいちご牛乳を飲み干しスニーカーに足を滑り込ませた。







「あー!デイダラく〜ん!」

最寄り駅のロータリーまで行くと、間延びした甘ったるい声が鼓膜を震わせギョッとした。

「おま…っ、なにやってんだ…!」
「あ!酷い!冷たい目で見た!」
「………」

ぎゃんぎゃん騒ぐ女を見るオイラの目は、彼女が言うように嘸かし冷ややかなものだろう。ロータリー付近に備え付けられたベンチに座り、満面の笑みで両手を広げて視線が合うような合わないような、据わった目をする明かな酔っ払いには、ちょうどいいのかもしれない。

「こんなとこで何やってんだ。帰るんじゃねーのかよ。うん」
「うん。帰ろうと、思ったんだけどね?なんと、なく、デイダラくんが迎えに来てくれるような気が、して」

アルコールのせいなのか、頬をほんのり染め、いつもより潤んだ瞳に見上げられると息が詰まりそうになる。舌が回らないのか辿々しい言葉に幼く見えるけど、何故か妙に艶かしくて、チラリと覗く熱を孕んだ赤い舌に、バクバクと心臓が暴れて仕方がないというのに。当の本人は呑気に「ほら、ほら」と上を指差す。

「そら」

促されるように見上げれば、そこには目眩がする程の星が散らばっていて、綺麗でしょ、と甘い声は星空に溶けるように消えた。

「帰るぞ」
「えー?そら、見ていかない?」
「何時だと思ってんだ」
「…んー」

振り返ったら、きっとさっきのような潤んだ瞳でこっちを見つめているんだろう。そんな声出しても、絶対振り向かないから。不満気な声を背に、握った手は燃えるように熱を含んでいて、力の入らない親指でさわさわと手の甲を擽ってくるもんだから、本当にタチが悪い。一体どれくらい飲んだのかわからないけれど、彼女は酔うと人に甘えたくなるらしい。堪ったもんじゃない。







「あーやっと着いた〜」
「さっさと風呂入れ。うん」

家に着くなり玄関で座り込みそうになるななしに肩を貸して部屋の中に入る。近寄ってほんのり香るアルコールに混じり、漂う甘い匂いにそれだけでも目眩を覚えそうなのに。

「へへ、でいだらくん」

そう言って緩みきった顔を向けてくるから、もう心臓がこれ以上もたないというように、暴れて仕方がない。艶々と誘うように動く唇が目に入ってきて、パッと顔をそらすと、「コラ」と両頬を手の平で覆われて、無理矢理向かされる。

「迎えに来てくれてありがとう」
「……あんなメッセージ来たら迎えに行くだろう。うん」
「すぐ既読ついた。待っててくれた?」
「…っ、ちげーよ!!あれはたまたま…っ」

コツン、

「嬉しかった」
「……ッ」

額と額がぶつかって、そこから彼女の熱った体温が伝わって、じんわりと全身に流れていく。長い睫毛がゆっくりと上下して、桃色に色付いた頬に影を落とす。

「早く、会いたかった」

猫のように目を細め微笑むその姿は、幸せそうなそれで、まるで夢見心地のようで。だけどもこの胸を締め付ける痛みが確かに現実だと訴える。

「ん…デイダラくん、甘い匂いがする」

すんっと鼻を鳴らし首にすり寄ってくる彼女に待てと静止をかけるが聞きやしない。ふわっと皮膚を滑る生温かい吐息にぞわりと全身が粟立つ。

(いやいやいや…!!!待て…!!これは、不味い…!!!)

「いちご、牛乳…?」
「あ?あぁ、迎えに行く前に飲んだ」
「むぅ…、飲みたい」
「は、はぁ?もうねーよ、全部飲んだ…!つーか、離、れろ…ッ!!」

頬を膨らませて上目遣いで見つめるななしはもうなんだ、目の毒以外の何者でもない。本当に酔っ払いなのかと疑うほどの力でグイグイと体重をかけてきて、柔らかい胸が押しつけられ、甘い匂いに脳が、身体が痺れてしまうようで。

「ちょうだい」

甘い囁きと近づくふっくらとした唇に、グッと目を瞑った途端。

「は…?」

コテンっ、そんな効果音とともに肩口にかかる重みに目を見開いた。
スースーと聞こえる呼吸は規則正しく、その身体からは徐々に重みが増してくる。

「………」

どうやら眠ってしまったらしい。所謂生殺しと言われるこの状況に、深く長い溜息を吐いたけど、覗き込んだ顔があまりにも幸せそうな顔だったから、なんだかんだ自分も頬が緩んでしまって、なんでもいいやとその力の入らなくなった身体を布団の上に降ろしてやった。





prev / next

[ back to top ]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -