小説 | ナノ


▼ 人はそれを恋慕の情と云う




「写真は御覧になられましたか?」

扉の前で姿勢正しく立ち、穏やかに問うその表情は声とは裏腹に険しい。胸の前できっちりと揃えられた指先に、皺ひとつない洋服。一糸乱れぬその姿は、彼女の気品の高さと威厳を現している。問われた言葉に口を開きもせず、ゆっくりと手元の本を捲ると、重々しい空気に包まれた部屋に大きなため息が響いた。見なくても分かるわ。きっとその眉間の深い深い皺を更に深くして、窪んだ目を見開いて心底呆れた顔をしてこちらを見ているんでしょう。

「お気持ちは分かりますが、旦那様は心配しておられるのですよ。二十になられるというのに、このような……」

 始まった小言に次はこちらがため息を吐く番だ。それも、さっき彼女が吐いたものより大きな。少々荒々しく本を閉じ、使用人である彼女よりも先に口を突いた。

「見る必要ありません。私はどこの誰かも分からない殿方と生涯を共にするなど御免です。お父様には直接言いますので、御心配結構です」
「ですが、今回はお嬢様も御存知の…」
「伯爵家の御子息、でしょう?幼い頃お会いしたのをよく覚えていますが、彼との思い出はそれ以降ございませんので、『見知らぬ男』と何ら変わりはありません」
「な…っ、お嬢様!何故そのような不躾な言い方を…!」

彼女がここに来た時から分かっていたが、何を言われても私は首を縦に振ることはない。なんて粗暴な、そう顔を真っ赤にして喚き始めた使用人を、用が済んだらさっさと出て行けと、ぐいぐいと扉の外に追いやり、急いで扉を閉めて鍵を掛ける。ドンドンと扉を叩く彼女だってきっとこうなるであろうことは予想していただろうが、さっきの様子から彼女は随分とご立腹のようだ。気品を重んじる彼女にとって、令嬢らしからぬ言葉が許せなかったのだろう。
反応のない私に、諦めたのかいつの間にか向こう側に使用人の気配はなくなっていて、部屋は再び静けさを取り戻した。窓の外を見ると、そこには往来を行き交う人々がいる。ふと、齢の近そうな女性が目に入った。恋人だろうか、仲睦まじく手を繋ぎ、寄り添う姿に思わず魅入ってしまう。女性の表情が、幸せを体現したそのもののようだったから。

(やっぱり、お見合いなんて…)

物心ついた頃には、私の周りには何人もの使用人がいて、様々な作法のお稽古に学習、社会貢献と称ばれる活動等々、私がやることは全て決められていた。それは、お父様やお母様曰く、『私のため』なるものだというけれど、そうであるけれど根本的には違うだろう。両家に嫁いで利益を得るため、それが根本的なもの。そう思うようになったのはもう何年も前だ。もううんざりだ。こんな生活。私も、外の世界で自由に生活してみたい。好きなことをして、好きな人と結ばれて家族を作る。なんて造作もないことなのに、その普通が私には手に入らない。

「手に入らないなら、自分で掴み取るしかないわね」

窓を開け、ひらひらと鬱陶しく揺れるレエスの裾をぎゅっと掴む。目の前に佇む杉の木が、いつもよりやけに遠く感じてしまう。玄関から出たところでどうせ直ぐに使用人に捕まってしまうけれど、ここからならどうだ。まさか、『お嬢様』が窓から見える木に飛び移って無断で外出してしまうなんて、誰が思いつこうものか。今日は何だかいつもよりうんざりしているのよ。少しだけ、外の世界に―――

「………あっ」

だからひらひらしたレエスは嫌いって言ったのよ。鬱陶しくて目障りで、

「きゃあああああああ!」

飛ぶどころか踏んづけて真っ逆さまに落下してるじゃないの!!
ああ、この高さから落ちたら確実に、死ぬ。まだ二十なのに死にたくない、恋人だって、結婚だって、まだまだやりたいこと…

(あ、そっか…)

流れるように変わる景色の中、自分の無謀な行動に後悔の念が押し寄せたけれど、あることに気が付いた。それは、凪いだ水面に一滴の雫が落ちるように、静かに全身を震わせるように。

(どうせ、私に自由なんてものはないんだ。そんなの、生きてても、死んでるも同然)

じゃあ―――

庇うように振りかざしていた手の力を緩めると、風の抵抗を受けないせいか心なしか落下するスピードが早くなった気がする。近付く地面、硬そうな土。痛いんだろうな。きっと。御免なさい、お母様、お父様。でも私は、

「うわあああ!!な、なんだ…ッ!?」

覚悟を決めて目を閉じ、来たる衝撃を受け入れようとしたけれど、その衝撃は思ったよりも痛くなかった。…というか、

「あ、あれ?生き…てる…」

大凡地面に着く頃、全身に渡った衝撃は想像以上に軽かった。そして、私は生きて、いる。目を開けると直ぐ目の前に、綺麗な宍色の髪が、…否、男性が、私の下敷きに…

「きゃああああ!ご、ごごご、ごめ、ごめんなさい…ッ!!」
「うぐ…っ!おい、人の上で暴れるな…!!」
「だ、だって…!誰か助けて…!」
「コラ!誤解を招くようなことを言うな!」
「だって、だって…!」

こんな間近に男性がいるなんて、それも少し動いただけで、その、触れてしまいそうな程に近いなんて、暴れるなと言う方が無理である。早く退きたいのに、先の出来事で身体に力が入らなくて私に今できることは彼の言う『暴れる』ということだけ。どうやらこの男性が下敷きになってくれたお陰で私は命拾いしたようだ。そんな命の恩人ともとれる男性に、不躾な態度は如何なものかと思うが、仕方がない。

「いきなり空から人が降って来たと思ったら、一体何なんだ。本当に今日は散々な日だ…」

大きな目を細め、凛々しい眉毛を歪ませて、男性は起き上がった。そして、その反動で転がり落ちそうになる私の腰を、男性の手が優しく支えた。

「大丈夫か。怪我は?」

スッと目の前に差し出された手に顔を上げた瞬間、私は目を見開いた。まるで、時が止まったように、息をすることすら忘れてしまうほど。宍色の髪を靡かせた彼に、私は一瞬で恋に落ちてしまったようだ。



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