小説 | ナノ


▼ 人を想う気持ち




「38,7…」

朝から頭はガンガンするし身体は重たいし。嫌な予感がして体温計で熱を測ったら、案の定…いや想像以上の数値が小さなディスプレイに表示されていた。

(今日仕事なんだけどな…)

とは言っても、こんな具合で行ったところで迷惑をかけるのは目に見えてる。まだ出勤時間には早いし、もう少ししたら会社に電話しよう。それまで少し横に、そう思った時シャワーを浴びていたデイダラくんが戻ってきた。

「お?起きたか?珍しく遅いな…って、なんか顔赤くねーか?」
「おはよう。ちょっと風邪引いちゃったみたい」
「はぁ?風邪?」

慌てた様子でこっちに向かってきたデイダラくんの手が私の額に触れた。あ、ちょっとひんやりしてて気持ちいいかも。

「熱ッ!いくつだ?熱」
「38,7℃」
「はぁ!?高すぎだろ!」
「う…デイダラくん、声響く…」

驚いたデイダラくんの声がガンガンと頭に響く。あぁ、こりゃ結構重症かも。

「わ、悪ィ。ちょっと待ってろ」

夏風邪を引くのはなんとやら。職場もそんなにクーラーが効いてるわけではないし、この部屋に至ってはクーラーすら付いていない。喉が痛いわけでも鼻水が出るわけでもないし、最近何かといろいろあって環境も変わって、知らないうちに疲労が溜まっていたのかもしれない。
具合が悪いと口に出してしまえば、身体はさっきよりも怠重くなってきたような気がする。何よりも身体に熱が篭って熱くて仕方がない。扇風機から流れる風は生ぬるくて、唸るように出た声を掻き消すだけで、デイダラくんには悪いけど今はもう少し涼しいところに行きたいなんて、贅沢だろうか。熱で浮かされた思考でそんなことをぼんやりと考えていると、頬に仄かに冷たい風が触れた。

(あれ…?)

そういえば、さっきまでジーワジーワと耳うるさい声で鳴いていたセミの声が遠く感じる変わりに、機械のような音が近くでする。あ、これって、そう思った時、頬にキンっと冷たいものが触れた。

「これで少し身体冷やせ」
「デイダラくん…?」
「今薬買ってくるから少しこうしてろ。うん」

ウィーンと久しぶりの稼働を思わせる少し不安定な音はクーラだった。稼働したばかりでまだ冷たいとは言い難い、クーラー独特の風の匂い。ピッピッ、とリモコンを操作する背中をぼんやりと眺める。クーラー、あんなに頑なに付けなかったのに。

「クーラー…」
「この部屋じゃ熱篭んだろ。余計なこと気にしないで寝てろ」

頬に当たる風と頭の下に引かれたアイスノンは冷たくて、篭った熱を少しずつ取り払ってくれるのに、胸の中はじんわりと熱を持ちはじめている。ぼんやりと霞み始めた思考の中、小さな声でありがとうと呟いた。
風邪をひいた時、心細くなるのはどうしてかな。弱った時も同じ。身体でも心でも、弱った時はどうしても心細くなってしまう。誰かにそばにいて欲しいって思ってしまう。今はどっちなんだろう。どっちも、弱っているのかな。だから、こんなにも離れていく手が名残惜しく思ってしまうのかな。

「……っ」

触れた手は、少し汗ばんでいてちっとも冷たくなんかないのに。その人肌の体温が今は心地良くて仕方がない。人って、こんなにあったかくて、優しかったっけ。
暗くなっていく視界の中、驚いたデイダラくんを最後に、微睡に足を引っ張られるように意識はそこで途絶えた。





誰かが私の名前を呼んでる。目を開けたいのに目蓋も動かせないくらい身体が重い。そういえば、今何時なんだろう。そろそろ夕ご飯を作る支度をしないと、あの人が帰ってくるまでに間に合わない。今日は何を作ろうか。そうだ、片付けもしないと。また口煩く怒られてしまう。
忠実な犬のように毎日言われたことを繰り返して、愛情ではない醜くて薄汚いものに縛られて隣にいるだけだってとっくに気付いているのに、それでもそばにいる私はどうしようもない馬鹿だと思う。いい大人なのに、そばにいることも離れることも自分で判断できなくて、繋がれた足枷を解けないままでいる。


「ななし、」


また、誰かに呼ばれる。これは、あの人?もう、仕事から帰ってきたの?待って、まだ何も準備ができてない。待って、


「     」



名前を呼んでも返事は返ってこない。そもそも、これは夢なんだろうか。頭がふわふわする。だけど、私の右手を握る手はまるで現実のようにあたたかくて、名前を呼んだらその手に力が入って、より現実味を帯びて。唇に触れた柔らかな感触が、夢なのか現実なのか、分からないままに再び暗闇に堕ちた。









「ん…」

目を開けると、窓から射し込む茜色に、部屋のあちこちが黄金色やオレンジ色に染められていて、閉ざされた窓の向こうから日暮の声が遠くに聞こえる。最後の記憶は確か朝だ。一体何時間寝てたんだろう。軋む身体を無理矢理起こしてテーブルの上に置いた携帯を手に取り、私は大事なことに気がついた。そういえば、会社に休むって電話していない気がする。慌てて通話記録を確認すると8時には電話をした履歴が残っていた。無意識に電話したのだろうか。全く記憶がない。
何はともあれ。安心して、再びぽすっと布団に身を預けて横を見ると、そこには市販の風邪薬とスポーツ飲料が置かれていた。どちらも開けた形跡があって、飲み物の方に至ってはあと3分の1程度しかない。本当、一体いつの間に。枕からずり落ちていたアイスノンに手をやると、それはまだひんやりと冷えていた。全部、デイダラくんがやってくれたんだろう。薬も、飲み物もアイスノンも。薬の箱が点線とは全く違う場所から破るように開けられている。そういえば、熱があるって言った時も慌てていた気がする。忙しなく介抱するデイダラくんを想像して、申し訳なさと嬉しさで思わず笑みが零れた。今日はバイトがあるって言ってたから、そろそろ帰ってくる頃だろうか。何か作って待ってよう。そして、ありがとうって伝えよう。そう思い、キッチンに行こうと立ち上がった時、ベランダに人影が見えた。


(デイダラくん?もう帰ってたのかな?)


近づくと、やっぱりそこにはデイダラくんがいた。ベランダの手すりに寄り掛かり、外を眺めている。茜色に染められて、反射するように煌く髪はいつ見ても綺麗だ。急いで玄関に行き、自分のサンダルを持ってベランダの戸を開けると、焼けるようなむわっとした空気が押し寄せた。

「デイダラくん」

サンダルを引っかけ、顔を上げるとデイダラくんはまだ空を眺めていた。あれ、聞こえなかったかな。それとも、まさかだけど寝てたりする?もう一度、名前を呼んでその隣に行くと、そこには無表情に空を眺めるデイダラくんがいた。

「デイダラくん…?」

何か、怒ってる?その言葉はデイダラくんによって遮られた。

「さっき呼んでた奴って、誰だ」
「え…?」
「ずっと呼んでただろ。名前」
「ごめん…私寝てたみたいで、全然覚えて…」
「あんなに何回も呼んどいて?」

冷たい声は刺々しくて、デイダラくんが苛立っているのがよくわかった。きっと無意識に呼んだ名前はあの人の名前だろう。デイダラくんと出会う前、ここに来る前の夢を見ていたから。

「彼氏?」
「違うよ。もう別れてる」
「何?振られたのか?それで家追い出されて路頭に彷徨ってたわけか」
「……」
「当たりかよ。で、都合よく現れた俺のとこに来たわけか」
「な…っ、違…!なんでそんな言い方するの!?」
「よかったな、拾ってくれる男がいて」

酷い。あんまりだ。どうして、そんなことを言うの。振られて追い出されたのは間違いないけど、私は誰でもよかったわけじゃない。確かに初対面で家についていったのは、今思えば軽率な行動だったけど、それでもこうしてそばにいるのはデイダラくんだからだ。帳尻合わせで都合がいいように聞こえるかもしれないけれど、私はデイダラくんだからこうして今でもここに帰ってきてる。なのに、そんな男なら誰でもいいみたいな言い方、あんまりだ。私たちの関係を見て、そう思う人もきっといるかもしれないけれど、他の誰に言われても構わない。だけど、

「結局、お前は誰でも―…」
「違うッ!!!」

だけど、デイダラくんだけにはそんな風に思って欲しくなかった。

「私はデイダラくんと一緒にいたいって思うから、ここにいるの…っ!」

ちゃんと、自分の意思でここにいるから。行くとこがないから、寂しいから、誰でもいいから。そんな甘さや弱さじゃなくて、ちゃんと自分の意思でここにいたいって思ってる。人に気持ちを伝えるのって勇気がいるんだ。分かって欲しくて半ば叫ぶように言った身体が小さく震えている。

「だから…っ」

デイダラくんの手が、私の右手を掴んで、そのまま引き寄せられて、気付いた時にはその腕の中に閉じ込められていた。ぎゅうっ、と抱きしめる腕は苦しいほど痛いくらいに。

「デイ、ダラくん…?」
「まだ好きなのかよ」
「え?」
「そいつのこと。まだ好きなのかよ。夢の中で名前も呼ぶくらい、まだそいつのこと引きずってんのかよ」

震えるのは私の身体なのか、それとも。抱きしめる腕の力が強くなり、まるで心が軋むように痛んだ。

「違うよ。私、その人に酷い扱いされてて、恋人だったけど、全然そんな甘い関係じゃなかったの。怖くても逃げれなくて、でもやっと解放されて」

それなのに、あの日々は時々こうしてトラウマのように付き纏って追いかけてくるから。

「怖くて、未だに忘れられないだけなのかもしれない」

本当のことだけど、デイダラくんには出来れば言いたくなかった。だって彼は優しいから。この事実がデイダラくんの足枷になってしまう気がして。でも、今はちゃんと本当のことを伝えたほうがいい気がした。

「悪かった…」
「ううん。ずっと私も話してなかったもんね。大丈夫だよ」
「話したくなるまで待つって言ったのに」
「私が話したくなったからいいんだよ。………デイダラくん、苦しい…」
「うるせェ。黙ってされてろ。うん」
「うぅ…っ、病み上がりなんだけど」
「こっちも病み上がりだ…」
「え?どういう……うぐっ」
「離れようとしてんじゃねーよ。大人しくしてろ。うん」

暑いはずなのに、どうしてかこの腕の中は心地いいと思えてしまう。抱きしめる腕は強くてあったかくて、泣きそうになるくらい。人ってこんなにも優しかったんだね。茜色に染まる空の下、ベランダで私たちは暫く抱きしめ合った。




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