小説 | ナノ


▼ 夜の帳が下りる頃





「何で皿くらい洗ってねーんだよ」
「疲れてたから少し休んでただけだよ。これからやるってば」
「疲れてたって、お前より俺の方が疲れてんだよ。毎日毎日残業で、帰ってきてこんな汚ェ部屋、勘弁してくれよな」
「ごめん…」
「家事一つ出来ねェとか女として恥ずかしくねェのかよ」

ごめんこれからするから、あー怠いもういいわ、本当ごめん、だからもういいって、



「お前、出てけよ」



そんな一言で、私たち二人の4年は終わった。












(呆気なかったなー…)

茜色に染まる空を眺めてぼんやりと昨日のことを思い出す。
昨日、4年付き合っていた彼に私は振られた。几帳面な彼と大雑把な私じゃ合わなかったんだ。よくあること、そんな理由で済ませられればいいけれど、きっとずっとうまくいってなかったんだと思う。
「一般的なサラリーマン」、そんな肩書きですら正規雇用じゃない自分からしたら眩しいくらいに格好良くて、周りに自慢したくなる存在だった。3つ上の彼は頼り甲斐があって、いつも優しくて、仕事に熱心であっという間に虜になっていた。
同棲を始めたのは二人の想いが最高潮だった1年目。約束をしなくても好きな人といれる、そんな生活に当時は喜んでいたけれど、その生活が重荷になったのはいつからだろうか。もう去年の今頃はお互い体を求めることはなくなっていたし、触れ合うこともないに等しい関係だった。ただ毎日、仕事に行って帰ってごはんを作って掃除や洗濯をして。残業だから、そんな理由で帰りの遅い彼のごはんを冷蔵庫に入れて一人眠る、そんな毎日。ふつうの、毎日。
だけども、たまに休みが合ったときに好きな映画を観て、感想をあーだこーだ言い合って、そうそこよかったよね、あーあいつは最初っから怪しかったよね。なんて他愛もない会話は普段の彼を忘れさせてくれる。それが普通のカップルの、普通の生活だと思っていたのかもしれない。否、思おうとしていたのかもしれない。


(そこには、きっと愛なんてなかったよ)


誰が見てもわかること。それでも私は縋っていたかったんだ思う。「普通の生活」や、「普通の幸せ」に。何にもない自分にはそんな場所が、隣にいてくれる誰かが、必要だって思い込んでいたのかもしれない。自分を卑下してまでも。


「馬鹿らしい」


湿気と熱気が混じり合う空気を吸い込んで吐き出すように言ってやった。
昨日荷物をキャリーケースに詰めて、今朝彼が仕事に行ってから同棲していた家を出て普段通り仕事に向かった。持っていたキャリーケースは流石に持っていけないから、駅前のロッカーに預けて。パートで残業のない私は夕方5時に退勤。そのあとはいつものように家に帰ることはなく、ただ、この公園で時間を潰している。
濃くなる茜色は燃えるように空を染めている。これから、どこに行こうか。明日も仕事だし、手持ちのお金も限られている。いつか彼と結婚すると思い込んでいた私はこっそりと貯金をしていたけれど、それを持って出る気持ちになれなくて、結局手持のお札数枚を持って出てきた。だって、そのお金が「二人のため」のものだって思うと見たくもない。

なんて、格好つけていたけれど、一人ベンチに座って思うのは後悔ばかり。
なんで持ってこなかったなんだろう。あのお金があれば安いアパートくらいなら借りれたのに。財布の中を眺めて溜息を吐くしかなかった。

「ん?」

ふと、ベンチの下に落ちているものが目に入った。
見るとそれは不思議な形をしてる人形のようなものだった。翼のようなもので身を包み込み、口を開けてつぶらな目を見せるその顔は何だか可愛らしくも見えて…

「なにこれ」

自然と手に取っていた。
軽い硬くてサラサラとした肌触りには粘土だろうか。久しぶりに粘土細工に触れた気がする。誰かの落とし物かな、と思って周りをキョロキョロ見渡すが、下校途中の高校生たちや買い物帰りかスーパーの袋を手に持った女性しか見えず。

高校生の笑い声がやけに響く公園。
帰ったらお前んち行ってゲームやろうぜ、うち門限7時だけどいい?、余裕余裕。

私もあんなとき、あったな。同い年の子と喋って笑って、周りには友達も男の子も溢れてて、あの子が好きとかあの子とあの子が付き合ったんだ、とか毎日が普通で楽しくって。敷かれたレールを進んで。楽で、これからのことなんて何も考えなくてよかった。


(ねぇ、あんたの主人どこ?あんたも一人ぼっちになったの?)

薄汚れた木目が目立つベンチの上に置いたそいつは答えるわけがなくて、濁ったように顔を歪めた。

「今日は取り敢えず、ネットカフェだな」

その子を手にベンチを立ったとき、後ろから声がした。


「あ、それ…」


振り向くと、そこには眩しいくらいに髪を金色に染めた男の子がいた。

「これ、君の?」

長い髪をした彼に問うと、小さく頷いた。どうやら彼がこのかわいらしい人形の持ち主らしい。長い後ろ髪に長い前髪、その表情は右目でしか窺えない。

「どこにあったんだ?うん」
「ん?ここだよ」

ベンチの下を指差す。ここに横たわってこの子がいたんだよって。人形に付いた細かい砂を払いながら目の前の彼に渡す。

「かわいい顔の人形だね」
「は?」
「だから、かわいい顔の人形だね。なんかちょっと愛着湧いちゃって、持って帰ろうとしちゃったよ」

帰る場所なんて、ないけど。
彼の目が大きく見開かれ、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。髪で隠れて顔がよく見えないけれど、近くで見るとその顔は整っている。青い綺麗な瞳は夕陽に照らされてきらきらと輝いて金色の髪は眩いくらいに茜色を吸い込んで、とても綺麗だった。
そして何より、若い。

「かわ、いい…?」
「うん。これどこで売ってるの?私も欲しく…」

なっちゃった。という言葉は続かず、ガッと肩を掴んだ手によって遮られた。

「だろ!?これ、オイラが作ったんだ!!誰もこのよさを分かってくれなくってよ…!!」
「ちょ、痛い、痛い」

嬉しさの余りか、興奮気味に肩をガクガクと揺さぶる手を制すると、ハッとしてその手を止めた。

「悪かった…」
「君が作ったんだ。これ」
「オイラのこの手でその芸術を作ったんだ。まだ試行錯誤の段階だけど、将来爆発的に美しい芸術品を作ってやるんだ。うん」
「爆発的な…?」
「あぁ、誰もが驚くような爆発的な芸術品。爆発こそ、芸術だからな。うん」

白い歯を見せて笑った顔が、何だかとても眩しく感じた。それは、きっとこの夕日のせいなんかじゃない。
若い彼が夢見る未来が余りにも眩しくて、それを恥ずかしがることなく語れる彼が余りにも羨ましくて。

「ふふ、すごいね、君」

心の底から、そう思った。

(あ、今日初めて笑ったかも)

なんだか憂鬱としていた気分が晴れたみたいに心がスッキリとしている。きっと、これから大丈夫な気がする。彼の笑顔を見た瞬間、思ってしまった。ネットカフェ、一番いい部屋にしちゃおう。

「ん?どうしたの、君」

気が付くと、目の前の彼が口を開けて固まっていた。僅かに頬を染めて。

「いや、なんでも…」
「そう?ありがとう。何だか君のお陰でスッキリしたよ」

じゃあ、私はそろそろ。そう言って踵を返そうとした途端、グイッと手を引かれた。
私の左腕を掴む、彼の右手。
え?っと振り向くと、そこにはやっぱり頬を染めた彼がいた。

「名前」
「え…?」
「だから、名前」
「わ、私の…?」

突然の質問に思わず戸惑う私に彼が頷く。

「…ななし」
「オイラは、デイダラだ」
「デイダラ…」

珍しい名前に、かっこいい名前だねと言うと彼は小さな声で煩ェとそっぽを向いてしまった。あ、かわいい。照れてる。
思わずにやけそうになった顔を隠すように、次こそはと踵を返そうとすると掴まれたままだった左腕の力が強くなった。

「…デイダラくん?」
「遠くから来たのか?」

きっとこのキャリーケースを指しているんだろう。この中にはあの3年間の生活物品がここに押し込まれている。必要な分だけ、必要なものだけここに押し込んでいる。
ここから二駅行ったところに「元」家があるけれど、そんなこと彼に言う必要はない。

「…ううん、近くなんだけど」
「家まで送る」
「えっ、と。その…」
「うん?」

あぁ、いい歳して、こんな女どこにいる?
いっそのこと、笑ってよ、もう。


「家、ないんだ」


涙なんて出ないけど、それ以上にずっと心が痛んだ。
なんだ、やっぱり私傷ついてるじゃん。
茜色にじわじわと藍色が混ざっていく空に、そんな気持ちをぶつける。
こんな初対面の人に、それも明かに年下であろう子に言ってしまうなんて、大人としてどうなんだろう。きっと引いているだろう。こんな大人、こんな女。
少しずつ、さっきの前向きな気持ちが折れていく気がした。

「ちょっと諸事情でね。でも泊まるところあるから大丈夫なんだ」

ネットカフェだけど、自虐的に内心突っ込みながら言うけれど、彼は俯いたまま暫く黙ったまま。

(あー…絶対、引いてる…)

最悪だ。眉間にしわを寄せ、何か考えるような仕草を見せる彼にさっきの言葉を撤回したい気持ちに苛まれる。
君は知らないかもしれないけれど、世の中には色んな人がいるんだよ。
幸せそうにしていても実はそうじゃなかったり、若い時に見ていた夢とは全然違う人生を歩んでいたり。家が突然なくなったり。それ、全部私だし。

もう、きっと彼とは会わないだろう。というか、会いたくない。家無し女と知られた以上もうここら辺には家を借りれない。ネットカフェももう少し離れたところで探そう、そう思っていた時、再びグッと腕を引かれた。


「じゃあ、オイラの家に来いよ」


低い声で、真っ直ぐ真剣な顔で。夜の帳に光る青い瞳が、とても綺麗だと思った。

「な、なに言って…。私、泊まるとこ、ある」
「いや、ないね。オイラには分かる」
「な、」
「来いよ。うん」



あぁ、また。揺れる金色に、その笑顔に、私は首を縦に振るしかなかった。






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