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こちらの章は引き続き原作が始まる前の物語ではありますが、14話から少し先に飛んだ頃の内容となっております。14話と当15話の間の物語が完成次第、時系列順になるよう話数を繰り下げる予定です。



「――グリムヒルデの呪い?」


 下唇にひやりと触れていたテイスティンググラスの飲み口リムを離し、相手の言葉を反芻はんすうした。
 ピークに達したウイスキーはボウルの膨らみが浅いグラスでも十二分に香りを咲かせ、舌先を刺激しなかったアルコールの代わりに鼻腔を慰める。


「ああ。東ゴルトー共和国で原因不明の死が相次いでいる。まるで呪いにかけられたような姿になり、その体からはりんごのような香りがするらしい」
「……それで毒りんご売りの老婆グリムヒルデか」


 なるほど、と納得をして改めてグラスを傾ける。今度こそ舌を焼いた琥珀色から気化したアルコールは、喉の奥で果実的な風味を立たせた。
 東ゴルトー共和国といえば、バルサ諸島付近で唯一ミテネ連邦に所属していない閉鎖国家だったか。行き過ぎた恐怖政治の噂はハンターの情報サイトを眺めていれば一度や二度は目にする。
 密告システムを作るほどにスパイを警戒している独裁国家が助けを求めるなんて珍しいこともあったものだ。それだけ不味い状況ってことか?


「すでに国民の四分の一は亡くなっているらしい」
「はは、国家存亡の危機かよ。誰が行くかそんなとこ」


 俺がカラカラと笑うのに合わせて、情報提供者の手で揺れるロックグラスもカラカラと涼しげな氷の音を立てた。
 ハンター協会は税金によってのみ成り立っている組織ではない。
 政府や企業、そして個人に至るまで、世界中から寄せられた依頼を請けることによって多額の資金を得ており、それらの解決を専門にする者を協専ハンターと呼ぶ。
 全体のおよそ三割超を占める協専ハンターは協会存続のために必要不可欠な存在である一方、斡旋を待ち自らの足では仕事をハントしに行かない時点で残りの七割からは見下される存在だ。
 自身が協専ハンターだからといって、それを抗議するつもりはない。
 実際問題、意欲に欠け実力が不足した者の溜まり場であるし、俺もそのうちの一人だ。
 今や協専という言葉そのものが下級の意味を持っていて、何らかの依頼で個人ハンターと同じチームになることがあれば「どうせだろ」と戦力に数えられないこともざらにある。
 だからこんな危険な仕事はらしく御免だ。


「ああ、やめるのが懸命さ。一度ひとたび蝕まれたら数日のうちにあの世行きらしい」
「数日? なんだ、随分とせっかちな呪いだな」
「人から人へと拡がりもする。だから犠牲を増やさぬよう、被呪者をゾルディックに一掃してもらうと話も聞いた」
「……ゾルディック」


 燻製されたドライフルーツを噛み潰しながら、バーの隅の暗がりで薬の売り買いが行われているのを目の端に捉える。
 ラムネ菓子のようなものを、特別な日だと言ってセックスの前に飲む女は意外にも少なくない。一人で楽しむ分には一向に構わないのだが、こちらにまで飲むことを求めてくるとなると話は別だ。
 一度流されてしまった時は、冷静になった後に随分と後悔したものだった。
 あの時ばかりはシャルにこっぴどく叱られたが、それを素直にハイ、ハイと水飲み鳥さながら頷き続けたのは、これは不味いことをしたと身をもって理解したからだ。なんなら、バレたのではなく自首だった。
 俺が思案しているのを見てとったのか、情報提供者は何も言わずに待っていた。
 仄暗い店内に静寂の時にだけ聴こえる程度のジャズミュージックが心地好い。


「そういや……東ゴルトーと西ゴルトーは休戦中だったよな。いや、西ゴルトーがミテネ連邦に属してからは溝が深まっていたはずだ。パワーバランスが崩れている今、国境に変化はありそうか?」
「表立った動きはまだない。東ゴルトーが弱っているとはいえ、呪いの渦中に攻め入るのは無謀ってもんさ。鉄を打ちやすい柔な時ってのは、それと同時に熱い時でもあるからな。火傷で済むならいいが、下手すりゃ西ゴルトーも消えかけん」


 情報提供者は少しだけ眉を寄せて首を振った。


「仰る通り」


 わざわざ攻めに行かずとも効果的な救援が入らなければグリムヒルデの呪いとやらで東ゴルトーは勝手に潰れて東西の区切りが無くなり、ミテネ連邦は島全体をめでたく統一できる。
 東ゴルトーがなんとか踏ん張ったとしても、西ゴルトーが収束後を衝かないわけがない。西ゴルトーを同じ地獄まで引きずり下ろさない限り、東ゴルトーに先はないだろう。
 グラスに残っていたウイスキーを一気に流し込んで、「いい機会だ、請けようか」アルコールの香りが移った息を吐く。


「しょ、正気か!?」
「酔っているように見えるなら、副会長に受注ハンターはいませんでしたと伝えたらいい。こんな怠け者まで話が回ってきたくらいだ、もう他に当てはないんだろ」
「パリストン副会長はもとより、ドクター・ルーファス、あんた以外に回すつもりはないっつってたぜ。戦闘特化のハンターが必要なら個人の奴らにでも依頼を出せる。だが、調査ができるハンターはそう多くない。その点、今まで誰も疑問に思わなかったアレを調べて協専唯一の星付きになったドクターはピッタリのはずだってな」


 過剰な評価にぎくりとして、口に放ったばかりのスモークレーズンがそのまま喉奥へと流れる。


「……そのドクターっての、やめようぜ。ネクタイに息が詰まるような男だ、そんな柄じゃないのは見てわかるだろ? なにより、実績と不釣り合いだ」
「あの発表は本当に革新的だったんだぞ。この業界にテキストブックがありゃ、間違いなく太字だ」


 協専という三流ハンターのレッテルを不本意に感じることもなく受け入れている怠け者だぞ、なんて思いつつも、これ以上話が広がっては気恥ずかしいと、新しく差し出されたウイスキーとともに言葉は飲み込んだ。


「そうだ、協会への斡旋料は――」
「二割だ。んな地獄でまで副会長にがっつり中抜きされるのは御免だからな。ゾルディックへの話は白紙に戻してその分も振り込むよう伝えておいてくれ」
「国家からの依頼を取り分八割……。どんな顔して副会長に報告すりゃいーんだ……胃が痛い」


 男はチョコレートを一粒口に放った。パキ、と音のするそれには中にナッツでも入っていたのかもしれない。


「なぁ、いいだろ? この席は俺が持つからさ」
「おうい、この店で一番良いボトルをくれ」
「サザンピースで落札したザ・ランマッカの五十年ものになります」


 先ほどまでしょっぱそうにグラスを揺らしていたというのに、ころりと態度を変えた姿に小さく笑う。


「参ったな。酒は胃に良くないと思うが?」
「馬鹿言え、上等な酒は悪酔いも胃荒れもしねぇって決まってんのよ」


 男が頼んだそれは、売値なら億は飛ぶかもしれない。空瓶でも数百万は固いだろう。
 突然の出費だが、まぁ仕方がない……俺を協会本部に呼びつけるでもなく足を運んできたことへの駄賃と考えよう。
 ミュージックの学など無いが、テナーサックスの都会的に洗練されたソフィスティケイテッド様をどことなく感じさせる息揺れの心地好さに口端を緩めながら目線だけを店内に流した。
 先ほどバーの隅で小さな悪事を働いていた者たちはもういない。
 もっとゆっくりしたらいいのに、なんて思いつつも、俺自身も早いところ発たなければならない現実に辟易へきえきとしながらグラスを空け、帽子と手袋を着け直した。
 メロウな空間を抜けるのは名残惜しいが、人から人へと拡がり数日のうちに亡くなるのならば今日中に出たほうがいい。
 

「すまない、俺にはアブサンのボトルをくれないか」


 ハンターライセンスの番号とサインを記入した小切手をカウンターに置いて、バーテンダーの手からボトルの入った細長い紙袋を受け取る。
 かつて悪魔の酒とも呼ばれたアブサンは、ゴッホをはじめとする多くの芸術家たちを堕としてきた。
 主原料のニガヨモギに含まれる成分ツヨンは神経毒性や麻痺性、その他にも向精神作用や幻覚作用があり、それは大麻に似た中毒性をもたらす。
 胸がからっぽになるような――永遠につぐない難いような喪失感のことを『飲み残した一杯のアブサン』と形容した小説家もいた。たしか――オサム=ダザイといったか。
 今となってはツヨンの基準値が定められており、かつての百分の一とも千分の一とも聞く含有量であるからして人格破綻者を作ることはないが、素晴らしき汚名はそう簡単にすすげない。
 人間失格という烙印を押される覚悟で飲むべき酒であることは大して変わらないだろう。
 そんなものを頼んだばかりに、依頼によってやはり自暴自棄になっているのではないかと疑っているような情報提供者の怪訝けげんな眼差しに苦笑って、「安心してくれよ」光沢のないドアノブに手を掛けた。


世界一美しかった女性グリムヒルデに会いに行くのに、幻覚にうつつを抜かす男はいないだろ?」

(P.46)



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