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「冷たいな」


 テーブルの上に並ぶのは豪勢な食事。記憶の限り初夜しょやと変わらない。テーブルクロスも銀食器も、グラスに注がれた水が七割ほどであるのもまるで同じようにしつらえたのに、二つ、異なるものがこの空間にはあった。
 一つは皿。割れてしまった一枚の後を追うように、もう一枚まで食事の支度の時に割れてしまった。装飾が何も無い、代替の真っ白な皿の中のシチューはあの夜と盛り付けは変わらないはずなのに、つまらなく思えて仕方がない。
 二つ目は目の前の椅子に座るアイヴィーだ。死後硬直が手足の先にも及び出した体を、いっそ壊れても構わないと、無理矢理着席させた。曲がる気配の無い背筋は陶器製の人形を彷彿ほうふつとさせる。
 まぶたはしっかりと閉じられていて、常ならば見える宝石のような眼球はちらりとも見えない。「感謝している」そう伝えた時に数十秒か数分か、じっと合わさった瞳は手を伸ばしたくなるほど美しく、酷い渇きを覚えさせた。
 緋の眼――クルタ族の持つそれは言わずもがなであるが、青い瞳のままにあかりの揺れる橙色を受けて複雑に色を混ぜこんだ、けれど濁りのないあの眼球は、今までに見たどの色よりも秘めやかで婉美えんびだった。緋の眼が蠱惑的で圧倒的な美しさだと言うのならば、幽玄的でたおやかな美しさをあの瞳は宿していた。
 もう一度見たいと思っても、長い睫毛まつげが持ち上がることは無い。あの後心臓マッサージも人工呼吸もすぐに行った。すでに死後硬直が広がりだしているなかで無駄だとわかってはいても、数時間ひたすらに繰り返さずにはいられなかった。


「まあ……温めなかったから当然といえば当然だが」


 冷えて塩気が強く感じるスープを喉の奥に流し込む。今はこの塩気が丁度いいと感じた。


「今思えば昨晩、たしかにお前の体は異変を訴えていたんだろうな」


 こんな味だったかと、わずかに苦味の感じたシチューの肉に、一口水を飲む。伴に食べる人間の存在の重要性を理解してももう遅い。


「皿を落としたのは手が痙攣けいれんしたんだろう?」


 返答は無い。
 あの夜、先に料理に手をつけたアイヴィーは、今はカトラリーも持たずに俺が着せた服をぴしりと綺麗にまとったまま沈黙を守っている。服を脱がせた時に見えた、生白い背中にぽつぽつと散らばった暗い紫赤色しせきしょく死斑はなびらが、鮮烈なまま脳裏をよぎる。


「デザートを自分の分まで寄越したのは吐き気でもあったのか?」


 返答は無い。
 てっきり皿の片づけの礼かと思っていたが、「俺のもお前が食べてくれ」という言葉は、今思えば頼みであるようにも思える。
 アイヴィーの首がバランスを保てなかったのか、頷くように前へと倒れた。「……まあ、気が向いたらな」、そう言いつつも、ここ一週間毎日結ばれていた髪が伏せた顔をカーテンのように覆い隠す。
 死後硬直中の体でそんなことが起こるのか、と生の可能性に思わず立ち上がるも、それは偶然以上の何物でもなく、すぐにまた腰を下ろした。


「……その上時間を考えられず、オレが入浴していたことにも気づいていなかった」


 返答は無い。
 あの夜、アイヴィーは頭を打っていた。頭を抑えていたから酷い脳震盪のうしんとうを起こしていたのだと思う。その上、男に襲いかかった際に、数秒とはいえ激しく揺らされていたはずだ。


「お前はオレの欲求をすべて受け止めてくれるんじゃなかったのか?」


 そういえば『セカンドインパクト・シンドローム』というものがなかっただろうか。『脳震盪のうしんとうの後、完全な回復の前に再び衝撃――たとえ些細ささいなものであっても――を受けてしまうと脳は深刻なダメージを受ける。十八歳以下の若者に起こりやすく、死亡率は五〇パーセントにも届き、生存しても何らかの後遺症が現れることがほとんどである』――


「死人になってしまっては何もできないだろう……」


 いつだったかに読んだ本の内容を思い返した。アイヴィーはすぐに症状が出なかったが、脳は致命的なダメージを受けていたに違いない。
 じわりじわりと脳が死んでいくさまを、本人は気づいていたのだろうか。
 気づいていて、「愛している」などのたまって毎晩眠りについたのだろうか。
 足音を忍ばせて近づいてくる死はどれほどの絶望を与えたのだろうか。
 宝石を融かした涙を流して少しでも自分を慰めることはできたのだろうか。外にも出ず四六時中共に過ごしたこの約一週間、涙を流せるのは風呂の時くらいしか無いだろう。


「クソ……!」


 ひらひらと振られた生白い腕が脳内によみがえった。
 立ち上がり、アイヴィーの横まで行って胸ぐらを掴む。持ち上げても、座った形のままぐったりと糸の切れた操り人形のように手足が固くぶら下がるだけで、ただやるせなさだけが沸き立つ。
 手を離すとその体は床に無造作に投げ出され、派手な音を立てた。その鈍い音は、ものであったはずのアイヴィーをモノであると感じさせた。長い髪が一面に広がる。


「……二人分の食事というのは量が多いな。しばらくは何も食べる気になれなそうだ」


 アイヴィーの命が尽きたとなっては、この家ももう長くは存在していられないだろう。ここにいる意味も無い。


「本当ならお前の瞳でもくりいてやりたいところだが――まだ死ぬのは許してやれないな」


 倒れているアイヴィーを横向きに両手で抱え、普段みんなで集まっている場所へと足を向ける。随分と久々だ。いない者も呼びつければいい。欠けてはいけない、これから大事な話をするのだから。アイヴィーの状態を聞けば飛んでくるだろう。


「少し遠出をしよう、アイヴィー」


 腕の中で眠る男に声を掛けながら、鮮やかな夕焼けに染まりつつあるごみ溜めの世界を踏みしめて行く。
 お前の役割は“体”だ。大切な、“頭”と“足”の繋がり。オレと、みんなの間に作られた新たな繋がり。従わせる切っ掛けなのだから、丁度いいだろう?


「――幻影を追い求める旅を始めよう」

(P.40)



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