013 2/3
人攫いの肉が尽きるのにそう時間はかからなかった。二週間は平気でかかると思っていたものの、残っているのはあらかじめ最終日のために残しておいた初日と同じ部位だけで、冷凍庫はすっかり寂しくなっていた。
この一週間、両者何も言わずとも流れのままにクロロはこの家に泊まり込んでいたが、それが
明日には終わってしまうのかと思うと、もう少し節制すればよかったかもしれないと後悔が
滲む。このままずっとここにいることが当たり前になってしまえばいいのに――そう思いながら、今朝方から赤ワインや香味野菜で鍋に漬け込んでいた肉塊を取り出した。
俺たちが外の空気に触れるのは換気程度なもので、家から一歩も出ようともせずひたすらに本を読み、語らい、触れ合い、好きなときに肉を喰らって泥のように眠るだけの生活はまるで世界に二人きりしか存在していないような気にさせた。
この安寧が狂気を柱に成り立ったものだと知っていたとしても、やはり俺たちにとって安寧であることに変わりはなく、本を読む時間は知識や幻想に触れ、語らう時間は理解を深め、触れ合う時間は互いの存在をより強く刻み、肉を喰らう時間は過去と未来を消化し、眠る時間は何にも怯えずに済んだ。今までのどの時間よりも充実していたと言えるだろう。
「……あれ」
これどうすればいいんだっけか。
何も思わずにローリエの浮かぶ赤ワインの湖から拾い上げていた肉塊に考え込む。理由があって取り出したはずなのに。
トングに挟まれたそれは、鍋の上部でぽたりぽたりと血を滴らせているようだった。
水滴も途切れるかという頃、ようやくフライパンが油を熱している音にハッとして、掴んでいたそれを強火の上に置く。そうだ、焼くために決まっているだろ。焼く対象を見つけた油は、はしゃぐように一気に音を大きくした。
さまざまな面から火を通して焼き目をつけ、今度は迷うことなく圧力鍋の中に戻す。赤ワインの三倍程度の水を入れて火を
点け、すぐにぐつぐつと煮えたぎる音を出したそれから
灰汁を取って蓋をした。
鍋の前でぼんやりと立ち尽くして待ちながら、サイドで緩くまとめただけの自身の髪を指先で
弄る。女のような長さではあるが、クロロは決して俺を女としては見ていない。もし仮に女として見ていたり、俺を通してほかの誰かを見ていたとしたら間違いなく腹を立てるだろう。無礼さ
故ではなく悲しさ
故に。しかしそれでもきっと切ることはできないのだ。
少し伸びる度に「そろそろ切りたいんだけど」と言えるのは、そのようにクロロが俺を俺として見てくれているからであり、もし俺ではない存在を見ているとしたら『もう必要ない』と言われるのが恐ろしくて、決して訊かず髪を伸ばし続けるのだと思う。
その抗議をクロロを試している行為だと言われようが、安心を得たいがためのくだらない行為だと言われようが、きっとまた俺は繰り返す。まあ実際のところ、まるで嘘を言っているわけじゃないのだ。すげえ邪魔。
考え込んでいるうちにすっかり蒸気の抜けた圧力鍋の蓋を開けて竹串を通す。数十分の間一歩も動かずただ鍋の前でぼやぼやとしていたことに気づきながらもすっかりと熱の引いたフライパンに牛肉を避難させ、残された赤ワインをぐらぐらと煮詰めた。
そこからは残りの必要なものを鍋に投入するだけだ。長らく冷えるキッチンにいたからか、足の指先が冷えてきているのを頭の片隅で感じながら煮込んでいく。別のコンロで火を通していた付け合わせの野菜たちも十分な具合になった頃、火を止めて食器棚の皿に手をかけた。――ガチャン、と目を覚ますような音。
「…………」
自身の小刻みに震える
掌をじっと見る。手を滑らせたわけではない。突然の出来事に、まるで冷水を浴びせられたような、足の指先どころではない冷えが全身を襲ってくるように感じられた。
瞬きもできずに、落ちた二枚の皿へと視線を移す。今の俺にとって
明日は不確定だ。盛りつけまで済ませて
明日はレンジで温め直すだけにしようと思っていたものの、こんなことなら
急くんじゃなかったと眉根を寄せた。
「皿を落としたのか?」
「……あ、クロロ」
洗髪剤の香りと共に不意に現れたクロロに、反射的に手をきつく握りしめる。――大丈夫。大丈夫。まだ、大丈夫。
「ごめん、驚かせたな。あー……欠けてる。シチューに使おうと思ってたのに」
床に
膝をついたと同時に見つけた皿の破片に気持ちが沈む。あの夜と全部同じにしたかったのに、なんてタイミングの悪い。
痙攣自体はこの一週間何度かあったが、それによる失態は初めてだった。
「別の皿を使うか念で出せばいいさ」
俺と同じように
膝をついたクロロの手が俺の頭に乗せられる。まるで小さな子どもとして扱われているようで
心恥ずかしさが生まれた。
俺の念能力は通常本を閉じたり消したりすると二十四時間後に勝手に具現化が解かれるが、死んだ場合はどうなるのだろうか。この家や家具は基本的に念で作られていて、具現化を維持したい物の書かれたページには栞が挟まった状態で普段は閉じられて暖炉の上に置かれている。完全に閉じさえしなければ閉じたと判定されない。意外と緩い――ある意味誠実なのかもしれないが――能力であると思う。
クロロの手は結んでいた髪の毛の方へと下りていくと、前屈みのせいで床につきそうになっていた毛先を拾い上げ、その角ばった指先に絡めとって
弄んだ。
「……まあそうだけど。どうせなら
初夜と同じ物を使いたかったんだ」
もし
明日生きていなかったら。死んだ瞬間に念がすべて解除されてしまうのだとしたら。念能力で同じ皿を出すのは
避けたほうがいいだろう。
クロロは死体を未来の
礎にしようとしているのだ。俺が死んだところでやめたりなどせず、最後まで噛み砕き、飲み込み、消化するに違いない。
皿が消えて盛りつけられた料理が落ちるなんて嫌だろ? 『お前は変なことを気にしている』『自分の心配が先だろう』なんて言われようとも、最期までできることはしておきたいのだ。同じ皿は諦めて別の本物の皿を使うしかない。
「一枚や二枚皿が変わるだけで
汚されるような思い出でもないだろう?」
そう言ったクロロに救われた気がした。
ああ、やっぱりこいつは慰めるのが上手い。クロロがやってきたあの晩、上手く慰められずに抱き締めたり、迷惑じゃないと言うことしかできなかった俺とは大違いだ。
体から
微かに湯気を立ち昇らせているクロロに感謝を告げようか迷っていると、皿の破片へ伸びる手に焦点が合った。「……どうした?」疑問符がその黒髪の上に浮いているように見える。ぎょっとしてその手を
咄嗟に掴んだが、クロロの慰めに惚けている間、後はオレに任せてのようなそれらしい言葉を聞いていたような気が今になってしてきた。
「怪我……するほどお前は間抜けじゃなかったな……。反射的に、つい」
クロロの話を聞いていなかったことにも、クロロを甘く見ていたことにも勝手に気まずさを感じてわずかに羞恥が湧き起こった。
ともかく、掴んでいた熱い手を離し、自分で片づけられることを伝える。髪から水滴を滴らせるクロロは俺に入浴を勧めてきて、気を害したようなそぶりは見せなかった。
俺が風呂に入っている間にでもデザートを食べるつもりなのだろうか。この男は時折、驚くほど怠惰になる。いい本に出会えば数日入浴を放棄することもあった。だからデザートを食べたいなら入浴を済ませてから、なんて幼児のような取り決めもしたが、クロロは怠惰心を放し飼いにしているものだから、すぐにそれを破ろうとしてくるのだ。
「だからデザートは風呂上がりって
昨日も言っ……」
洗髪剤の香り。体から
微かに立ち昇る湯気。熱い手。髪から滴る水滴――そこまで気づいていただろ。どうしてそれでわからない? わかる、わからないの話じゃない。考える暇も無く、どう見たって目の前の男は入浴を済ませている。
風呂へと向かったことも、シャワーを浴びる音も、雑にしか体を拭いていない入浴後の姿を見ても、まるで気がつけなかった。そのことに酷く焦りを覚える。時間が無いという現実を容赦なく眼前へと叩きつけられた。
気管が塞がれていくような感覚のなか、「ああ、もうお前風呂入ってたのか」やら、「今日読んでいる本はつまらなかったのか?」やら、使い物にならない脳を見捨てた口が勝手に動く。
あと何日だ? いや、時間か? 分? 秒? 今するべきことは何だ?
さまざまな疑問が湧いては堆積していく。それらの山ができるのが恐ろしくて思考を放棄したくても、壊れかけた脳はもう制御下に無かった。
「いや、興味深いものだった。むしろいつもより遅くなってしまっている。文句を言われるかと思ったんだが」
「もうそんな時間か」
「気づいてなかったのか」
顔を上げて、壁掛け時計を読む。時間を気にするということをすっかり忘れていた。もう、どこまでが偶然で、どこまでが異常なのかがわからない。これらがすべて予兆なのか後遺症なのか、死を迎えるのか迎えないのか、どちらも後者であることを願うしかない。
「……うわ、本当だ。ダラダラ仕込みすぎたみたいだ」
「最後とはいえほどほどにな」
「ああ。じゃあ甘えさせてもらおうかな。風呂に入ってくるよ」
エプロンを外しながら「皿、怪我には気をつけて」と言い残し、キッチンを後にする。
脱衣場の扉を開けると、充満していた湯気で視界が白ぼけた。洗面台の鏡は曇っている。今どんな表情をしているのだろう。いつものように微笑んでいるだろうか。クロロに何も指摘されないくらいには笑顔を作るのは上手になっているはずだ。今それができている自信はあまり無いが。
人差し指の先を鏡にぴとりと付けて、自分の代わりにと、目と口だけのスマイルを描く。再び
痙攣が襲ってきた手では、情けない表情が出来上がってしまった。口もとだけで笑っているそれはどこか静かで寂しく、その谷型の曲線の両端に一本の橋を架けて口を開かせた。
クロロが拭かなかったであろう水溜まりを踏んでしまったのか靴下が派手に濡れると、水に影響されたらしい、突然ぼろぼろと涙が落ちだした。どれがあいつの怠慢が作り出した水滴なのか、床に落ちてしまえば区別もつかない。
泣けるうちはまだマシ、だなんてどこの誰が言ったのかわからない言葉を今は信じることにして、すぐに収まるだろうと、気にせずに衣服を脱ぎ始めた。
プラスチック製のコップの中で歯ブラシが一本、優雅に
寛いでいる。それが二つ並んでいる光景はまるで家族のようで、昔の自分が本当に手に入れたかったものはこれだったのかもしれないと、こんな時に幼心の部分が
解されていくようだった。
破片を集めてくれているであろうクロロに、デザートを欲していない自身の腹に従って俺の分も食べてくれと、扉の隙間から腕を出して声を掛ける。いつ泣き止むのかと
他人事のように考えていたにもかかわらず、返ってきた何気ない「どうも」は俺に息苦しさを与えた。
そこから先は
堰を切ったように自分のすべてが止めどなく
溢れて、それで窒息してしまいそうだった。風呂場の床を打つシャワーの水音は酷く頼りないが、抑え込んだ
嗚咽くらいなら簡単に掻き消してくれる。響くのはあの夜の雨には似ても似つかない人工的な硬い音だけだ。
鏡に湯を当てて見えるようにすると、蜘蛛が不気味に長い手足を伸ばしていた。相変わらずこいつは俺の首を絞めているようだ。
気づけばスティグマと過ごしていたのはもう七年も前になるらしい。ここに来てからの日々は驚くほど早かった。
あの男は今でも俺を覚えているのだろうか。とっくに散財して、出会った時のように飲んだくれては文句を言っているのかもしれない。もう顔もまともに覚えていないのに、元気にしていることを願える唯一の大人だ。
大切な人ができたと、報告をしたかった。この男が大切な人だと、こいつらが大切な仲間だと、紹介をしたかった。
スティグマと過ごしていた時によく考えた“大人になったら”の答え合わせは、もう諦めるしかないのかもしれない。
◆ ◇ ◆
眠気が酷い。十中八九、風呂場で体力を使い果たしたせいだ。泣くという行為が久々すぎたせいか、精神的にも体力的にも随分と疲れてしまった。
ベッドに入ってから数時間、本を開くこともなくただひたすらに言葉を交わした。日付を跨いでも、
蝋燭が尽きてしまっても、時に掛け布団の中で互いの冷えた足に驚きながら談笑を続けた。
「あのさ」
「何だ?」
「……『愛してる』って、言って」
「何だ、そんなことか。愛してるよ」
枕もとに置いていたグラスの中の水は、一体どちらが飲み干したのだったか、今は水滴がついているだけだ。
布団の温もりから出たくなくて、グラスの中に水を具現化した。
「――そう、か……」
ゆっくりと
瞼を下ろす。呼吸はほとんど寝息に近いものへと変わっていた。
「アイヴィー?」
「いや……何でもない。もう一度、言ってほしいな」
「愛してるよ、アイヴィー」
「足りない。足りない、足りない」
「欲しがり。子供みたいだな。口調まで昔に戻ってるぞ」
クロロがくすりと笑う声が聞こえる。「いいだろ、別に……」手探りで見つけたクロロの頬をぐにぐにと掴んで伸ばした。「いたたたた」「ふはははは」「イテー」「言えー」くだらないことは百も承知だ。
「愛しているよ、アイヴィー。アイヴィー=ルーファスという人間を愛しているんだ。だからゆっくり眠るといい。何も怖いことは無いだろう?」
微笑んでいる形になっているクロロの頬を最後にぺちぺちと叩いて手を引っ込める。
お前が俺以外を一番にする日が来ることが怖いよ。
内心ではそう思いながらも、眠気はそれらを口に出す気力を奪った。口に出せば『そんな日は来ない』と言ってくれるだろうか。……いや、仮に言ってくれたとしてもそれはきっと“生きている限り”のことなのだ。
――「ならオレは一生この狭い地で生きていかなくちゃならないのか?」
冷たい土の中で身動きもとれず、成長していずれ街から去っていくクロロに『連れていってくれ』と言うことも、手を伸ばすこともできない未来がやってくる。
思い出の住人になりたくない。あれがしたい、これをしてほしい、と常に今を、
未来を思われていたい。
「わかったよ……寝る……」
毛布を肩まで引き上げて、息を長く吐いた。自分の心臓が動いているのが感じられる。
水を具現化した時、まるで“書き終えた”とでも言わんばかりに
秘密のノートの表紙に無かったはずのタイトルが印刻されているのを見つけてしまった。
ああ、何時間後に死ぬのかな。最期まで起きていなくてよかったのかな。
でも、夜も深いし眠たいし。隣にいるんだから、今はいいだろう。
どうか、きちんと
明日も目が覚めますように。
「……おやすみ、クロロ=ルシルフル。ありがとう、お前に
総ての愛を」
(P.41)