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「食人、か」
「……あ、いや、ふと思いついただけだから嫌なら忘れてくれ」
視線を死体からクロロに移す。本当にただ思いついたことを口にしただけだったのだ。血肉になるのなら土台と言えるのではないか、という至極単純な、倫理など欠片も視野に入れていない思いつきだ。人を殺しておいて今さら倫理など、と言われるかもしれないが。
「いや、それでいこう」
「正気か?」
「お前が言い出したことだろう?」
それはそうなんだけど。まさか本当にそれにするとは思わないだろ。
「食人の文献を見たことはあるが、やはり実際に口にしてみるのが一番だ。いい機会だと思わないか?」
「……『人肉に興味があるからお前を食わせろ』と言われるよりマシだな」
「なら決まりだ」
パチンとクロロが指を
擦って音を鳴らす。雨の中でもその小気味好い音はよく響いた。
「そうと決まればさっさと運んでしまおう」
そう続けられた言葉に頷いて男の腕を持つ。折れた首はまるでテーブルクロスのように重力に従ってダラリと垂れ下がった。派手に揺らせば、折れて鋭利になっているであろう骨の断面が肉や皮を突き破ってしまうかもしれない。
暗闇は俺たちの姿を隠し、雷光は道を照らし、風は共に笑い、豪雨は二人の足跡を掻き消してくれた。
◆ ◇ ◆
「ルーファス師匠、早速処理に取り掛かりましょう」
「もちろんそのつもりですよ、愛弟子君」
「死体を洗ってやるのがこんなにも重労働だとは思わなかったですね」
「この男、体格はいいですから。ルシルフル君はすぐにモノを雑に扱おうとするところがいけませんね。食べ物は大切に扱いなさい」
「ふふ。はい、師匠。けれど師匠は昼間ジャムを投げていました」
「あれは俺のオーラだからいいんですー」
三人の体、正確には二人と一つの死体から湯気が立ち昇る。死体と共に入る風呂はお世辞にも気分がいいとは言えなかった。二人とも雑に拭いたせいか、ポタポタと髪の毛の先から垂れた水滴が着たばかりのシャツにしみを広げていく。
ふざけた会話を終わらせるように「さて……まずは血抜き、か?」といつも通りに話すと、「骨も血も血管も、お前の能力ですぐに消してしまえないのか?」となぜか弟子設定になっていた目の前の男がぽかんとした顔をした。
「
悪食消しゴム、だったか」
クロロは「生き物は消せないとしても死骸なら寄生虫だって消せるだろう」と空中で消しゴムを使う動作をして見せる。消しゴムを持っているつもりなのか、真面目な顔で緩く手を握ってふるふると小さく往復させる姿はこんな状況でも平和な時間を感じさせた。
「……忘れてた。そっちのほうが楽だし確実だ。けど寄生虫は調理後に消すよ。冷凍だとか熱処理だとかで、そっちのほうがより死骸になってるはずだから」
俺がそう言えばクロロは「それもそうか」と納得して一度頷いて、足もとに横たわる死体を足の親指でちょこちょこと突っつく。まあ寄生虫なんて自然と口にするものだからいちいち気にするものでもないが。念のために、というやつだ。というか食材を
足蹴にするんじゃない。
ぽか、と叩くと「すみません師匠、大切に扱います」なんて、よく飼い慣らされた人物のイエッサーのようにすぐさま答えが返ってきた。こいつ悪いと思ってないな。まあいいけど。
「あと骨や血のついでに、食べたくない部位も消してしまおう。脳に体毛に爪に歯に腸内滞留物に……それと
臭い的に相当な喫煙者らしいから肺も俺は嫌だな」
わざとらしく「おえ」と少しだけ舌を出してみる。
動物の解体は容易なことではないが、不要な所さえ無くしてしまえば時間はそうかからないはずだ。といっても食材として使用できるよう、器用さは求められるが。
「俺は同じ男として遠慮したい部位があるんだが」
「あー……ああ、同意しよう。実際食える所でも気持ち的に嫌な場所は積極的に削っていこうか。内臓の中身だとかは調理しながら捨てて後でまとめて消すとして、どうせなら美味しく食べたいよな。何か希望の料理はあるか?」
「そうは言っても人肉に適した料理なんてまともに知らないしな……」
クロロが低い声で
唸る。今食べたいものはないのかと尋ねれば、クロロは顎先に手を当てながら何度かその問いを復唱した。
「そうだな……風呂で温まったとはいえ、今夜は特に冷える。強いて言うならスープが飲みたい」
「スープ……」
野菜が中心じゃねえかと思わず口から飛び出してしまいそうになるのを抑える。メインを答えてほしかったんだが。今は特に食べたいものが思いつかないということか。
「それならほかの料理を作った時に出た肉端をひき肉にして、一口サイズに形成したものを使おう。あまり量は必要にならないはずだから」
「ミートボールか。大変じゃないか?」
「そうでもない。ほかには、そうだな……筋が多い部位はよく煮込むものがいいかもしれない。シチューはどうだ?」
「シチュー? 前食べた、一口大の野菜と肉が入ってた茶色いものだろう? それだとスープと被ってしまわないか?」
「ああ、確かにあれはシチューだけど、今回は肉をメインにしたものにしようかなって。分厚いステーキのような肉塊をしっかり煮込んで、野菜のカットも大きくするよ。浅い皿に肉と野菜を置いて赤ワインベースの汁をかけたら、最後に生クリームも……って感じなんだけど。アルコール使えば柔らかくもなるだろうし、臭みがあったとしても誤魔化せると思うぞ」
どうやって作るんだったかな、と頭の中で手順を並べる。クロロは楽しそうに口端を吊り上げた。
「ほう、それはメインディッシュだな。楽しみだ」
「それはよかったよ」
「そうだ、腸詰めとかは作れそうか? 腸や
膀胱を皮に使えば一緒に消費できると思うんだが」
「あ、それいいな。簡単にボイルしておくとして、きっと何日もかけて消費することになるから保存が利く方がいい」
もちろん冷凍はしておくが、早く消費するに越したことはない。肉ばかりでなく、器官系もきちんと消費できるメニューを考える必要がありそうだ。
「じゃあ俺は早速作り始めるよ。圧力鍋を使えばそう時間もかからないはず」
「オレは何を手伝えばいい?」
よし、と腕
捲りをしたところで、クロロに一緒にやってくれる気があったらしいことに内心驚く。精神的にも体力的にも俺よりもずっと疲れているはずだ。完成するまで寝ててもよかったのに、なんて律儀な男なのだろうか。
嬉しくなっていると、脈絡も無く「少しの間ソファーに座ってて」とクロロから指示を受けた。素直にそれに従ってクロロを視界から消すと、数秒待った後、温風が後頭部へと吹きだした。
「……髪乾かすの後でもよくないかー?」
ドライヤーの音に掻き消されてしまわぬよう、声を張り上げて後ろにいるクロロへと質問を投げる。
「こんなに長いと料理するにも一苦労だろう……と、風呂の時に思っていた。だから結んでやる」
対してクロロの声は耳のそばから直接聞こえた。人には大声を出させておいて自分は普通に声を届けるなど、とんだ怠慢野郎だ。少し腹が立った。
「一苦労だろうって……お前が切らないほうがーって言ってたのを聞いてたらここまで伸びたんだけど!」
「わかってるさ。だからオレが結ぶ。器用さには自信だってある」
怒ろうとしても、想像とは少し違う壊れ物を扱うような手つきにそれ以上何も言えなくなる。櫛がするすると髪の間を縫っていくのが心地好く、眠気を誘った。「まだ切らなくてもいい」なんて言って伸ばさせただけに、きちんと大事にはしてくれるらしい。自分だけなら肩に付いたあたりまでが限界だ。
「お前ゴム持ってんの?」
「何て言った?」
「ゴ! ム! 持ってんのかって!」
叫ぶと、殴られた頭がつきりと痛んだ。出血量の割に少し切れただけだったため縫ってはいないが、それなりに痛むものだ。
「俺必要な時いつもヘアクリップだから持ってないんだけど」と言うと、クロロは「
欲張りな黒いペンの出番だろう?」と笑った。……はいはいそうだよな、持ってるわけねえよな。
◆ ◇ ◆
「何でわざわざ高く結ぶ?」
続けて「うなじが寒いんだけど」と言うと、タイミングよく、くしゅんとくしゃみが出た。そっと首筋に触れてそのまま後頭部へと手を這い上がらせてみるが、なるほど、たしかに器用だと自分から言っただけのことはあるらしい。これから出掛けるわけでもないのに、触っただけでも随分と綺麗にまとめられていることがわかった。
「どうせなら、と。自分だと面倒臭がってやってくれないだろう」
「当たり前だ。ヘアクリップで事足りる」
「だが手入れはきちんとしているだろう?」
「そりゃ、まあ……自分のために伸ばしているわけじゃないからな。どこかの誰かさんの『長いのが好きだ』は『長くてかつ手入れを怠っていないのが好きだ』のことだろ?」
「ご名答。だが短くてもそれは変わらない。しかし、そこまでしてくれるのなら、長髪ならではの髪型もしてみるといい。少し
弄るだけでもかなり印象も変わると思うが」
「女みたいにならないか?」
「昔なら女に間違えるかもしれないな」
毛先をくるくると指先に絡めながら試しに訊いてみれば、「顔も声も中性的だったし、名前は女性名だし」とまるで俺に非があるようにクロロは言葉を返してきた。お前たしか実際に間違えてただろう。
「……まあ、気が向いたらな」
ソファーの背もたれに両腕を乗せて前傾姿勢にもたれ掛かるクロロから視線を外す。「そろそろ調理始めるから」と立ち上がり、クロロの腕の下敷きになっていたエプロンを引き抜くと、布の摩擦が痛んだのかしょぼしょぼと情けなく腕を
擦った。
暖炉の上でいくつかの栞を挟んだまま閉じられた
秘密のノートを手に取った後、エプロンを着ながらシートの上に横たわる男へと近づく。歩く度に結んだ毛先がゆらゆらと振り子のように揺れて少し愉快だった。
その後ろを雛鳥のように付いてくるクロロに一瞬疑問を感じたものの、何を手伝えばいいのか訊かれていたことを思い出して足を止めた。
「とりあえず今回調理に使う部分は先に切り取るから、クロロは俺が作ってる間に解体してケースに詰めて冷凍しておいてほしい。刃物の扱いは得意だろ? 俺がするより時間もかからなそうだ」
「わかった。ついでに部位ごとにラベリングしておくさ」
「あ、それ助かるな。
不思議な文房具、
悪食消しゴム……っと」
消したいものを思い浮かべることで
秘密のノートに浮かび上がらせた文字を、
悪食消しゴムで消していく。完全にそれらの文字を消し切った途端、男の体が溶けるように、あるいは巨大なハンマーで叩き潰されたかのようにべちゃりと広がった。骨や血、その他を消したせいで体の支えが無くなったのだ。特に頭部なんかは骨や脳も無ければ体毛も無く、軟体動物以上に見た目が悪い。
モンスターにいそうだ、なんて、とても人間には思えない姿形をしているそれを見て思っていると、「これは便利だな」とクロロが後ろから覗き込んできた。そんなクロロに
欲張りな黒いペンで解体ナイフを二本出し、一本手渡す。
「自分のナイフにこいつの脂が付くのは嫌だろ」
「そもそも今ナイフ持ってないしな」
「無用心だな」
「これからは外では必ず持つことにするよ」
「そうしてくれ。……じゃ、片足は貰ってく」
鼠径部にナイフを走らせ、片足を抱く。骨や血を無くしていたとしても、それなりの重さはあった。
キッチンへと向かい、いざ調理を始めんとして、皮膚を消し忘れていたことに気がつく。皮膚はどうすればいいのだ、これも食べてしまうのかと、リビングですでに解体を始めているであろうクロロに大きな声で尋ねると、「必要ない、消してしまってくれ」と今度はクロロも怠慢することなく大きな声で返してきたのだった。
(P.36)