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「待っていたぞ、アイヴィー」
村へ着いたときにはもう日は落ちてしまっていた。夜と呼ぶにはまだ早いが、暗い森の上にはすでに星が一番だか二番だかもわからないほど、まるで暗幕に針で穴を開けたような小さな光を無数に散らしている。夜の訪れに伴って下がっていく気温を肌で感じていると、少し先にぼてりとしたシルエットが立ち塞がった。長老が直々に問題児を出迎えるとは、珍しいこともあったものだ。
勿論、最大の掟破りをしたのだから予想の範疇ではあったが俺のために時間を割くものかどうか、半々程度に考えていた。おお、と腹の中だけで驚きながら、足を止めてじっと前を見据える。すると建物の陰から大勢の人がじわりじわりと出てきて俺を取り囲んだ。
村に入ってからはちらほらと人の気配を感じてはいたものの、まさかこんなにいたとは。余程暇なのか怪物退治の気分なのかは知らないが、どのような意図でここまで人を集めたかなどはわざわざ今気にかけることじゃない。重要なのは、読めていた気配よりも誤差と言ってしまえるか危ういほどの人数が揃っていたことだ。十中八九自分が使っていたあの気配を絶つ技をこいつらも使ったのだろうが。……今後は気をつけないとな。
「なぁに、長老様」
白いもやは今までのように垂れ流す。声質こそ女っぽくはないが変声期を迎えていない喉から出した猫なで声は妹のそれと似通っていて、がりがりと耳奥が削られるような痛みを
孕んだ錯覚に後悔が押し寄せた。
「森を出たことがあるらしいな」
「そうだね」
戸惑うことなく返した俺の言葉に聴衆がざわめき立つ。そんなに村から出したくないのなら鎖でも首輪でも使って俺を繋いでおけばいいものを。
そういや何年も前にもこのように大勢の人間に囲まれたことがあるが、あの時は散々だった。今も色が戻りそうもない右目を
瞼の上からそっと撫ぜれば、嫌いなあの単語が頭の中で
囁かれて、小さな波のような吐き気がさざめく。
「それは重大な掟破りだと知っているはずじゃが」
「ああ、知ってるよ。でも誰も止めなかったじゃないか」
気持ちを落ち着かせて「誰も、だ」とぐるりと目線だけで辺りを見渡しながら言葉を繰り返す。大人たちはきまりの悪い表情を浮かべた。
「知っていれば止めたわい」
「少しも気になんかかけなかっただろ。知りたいんだったらそれなりの態度を見せろよ。俺に関わりたくないと思っている奴らにどうしてわざわざ丁寧に言ってやる必要があるの」
少し強い口調でそう言うと、長老はしまりがつかない様子で眉をひそめて口をつぐんでしまった。言い負かしたいわけではないのに。
「安心してよ。クルタ族のことは何も言ってない。どうせ俺が外に出て怒っている理由なんて、俺を心配したからじゃないんだ。クルタ族のことを知られたら……だろ?」
「そんなに森を出たいなら試験を受けろと言いたいところだが……お前だけは村から出すわけにはいかんのだ。わかってくれ」
「『緋の眼を外に
晒すことがあってはならん』……違う? ねえ、俺のこっちの目、いつになったら戻るんだろうね。たしかに緋の眼が沈着した奴を外に出せばいつ公になってしまうのかもわからないから、俺がそれを受け入れるべきだということはわかっているよ。でも俺は誰も俺を愛そうともしてくれないこの村にずっといるなんて我慢ならない」
もし俺が普通の容姿で生まれてきていたとして。ほかの者たちと同様にぐちゃぐちゃの仲間意識に染まっていたかもしれない。俺じゃない奴がこの容姿だったら、近寄られたくないと、存在を見ないように背を向けていたかもしれない。怒らせたら災厄が起こるのではないかと、作り笑っていたかもしれない。このような姿で生まれたからこそ、今普通の容姿になれたとしてほかの誰かが異端な姿をしていたとしても同情や哀れみではなくほかと変わらぬ普通の人間として見て関わることができるが、そうではなかったとしたらどうなっていたかわからないものだ。
しかしそうだとしてもいずれ外には出ようとしたとは思う。大人になるまで
律儀に待ってやりそうだが。きっと早いか遅いかだけの違いだ。「どうしてもか」という長老の問いかけに「譲れないよ」と頷けば、長老は深いため息を吐いた。
「……無茶を言ってくれるな」
「たった一つのわがままだ、許してほしいんだけど」
「たしかにお前はわがままを言ったことがなかったな」
「誰も聞こうとはしなかったからね。ねえ、許してくれますか長老様」
「許すわけにはいかん。そもそも勝手に村を出た罰だって与えなくてはならんのだ」
「残念……それなら勝手に出ていくよ」
長老の真似をして大きなため息をつく。
癪に障ったのか、ぴくりと太い眉が一瞬持ち上がったが、意外なことにすぐに不敵な笑みへと差し替えられた。
「どうやってここから出ていくというのだ?」
長老のその言葉に、大人たちの表情が引き締まる。たしかに囲まれていては出られそうにない。じりじりと寄ってくる大人たちは、俺が少しでも隙を見せたら一気に飛びかかってきそうだ。まったく、子供一人相手にいいシュミをしている。……仕方がないな。
「
不思議な文房具……
秘密のノート、
欲張りな黒いペン」
そう唱えれば、何も無かった空間に仰々しい本と葉巻煙草を
彷彿とさせる形のペンが具現化された。つい先ほどのことだが、あの時に使い方を知れたおかげでどうやらここは切り抜けられそうだ。垂れ流していた白いもやも体に
纏わせる。
「……アイヴィー、念を覚えたのか」
「……これ念っていうんだ?」
「末恐ろしい奴じゃ」
冷や汗を垂らす長老から開いた
秘密のノートへと目線を落とす。
欲張りな黒いペンの頭をノックすると、金色のペン先が顔を出した。キャップレスの万年筆とは随分と機能性の優れた能力だな、と一人感心しながら書けるようにもなったハンター文字でまっさらなページに濃いインクで出したいものの名称を書くと、時差なく目の前にそれは出てきた。
「これ、何かわかる?」
「手榴弾か」
「今テキトーに出しただけだからどれほどの威力になるのかは自分でもわからない。そういや手榴弾って最低でも半径十五メートル以内はそれ自体の威力で軽くても重症、半径五十メートル以内は飛散物で重症、半径二百メートル前後でも怪我をする場合だってあるらしいよ」
続けて「そんなものを使うなんて戦争って狂ってるよね」と手の中で拳ほどの大きさのそれを
弄びながらそう口にしても、誰からも声が返ってくることはなかった。狂っていないと思っているのか?
「それならばお前さんだって怪我を負うかもしれないだろう?」
「それでもいいよ。これが罰だって考える」
「死ぬかもしれないのに、か?」
「怪我はともかく、自分で出した技で死んでしまうほど馬鹿じゃない。ちゃんと考えてるよ。……さ、逃げなくてもいいの? まさか見せつけるためだけに出したなんて思ってるわけじゃないだろ?」
ピンに指を通してゆらゆらと揺らす。村人たちの顔がわかりやすく青ざめた。「正気か?」なんて、正気に決まっているだろう。少なくとも、差別を非難する者が誰一人としていないお前らよりはマトモな人間だ。
「三十秒……いや、老人や小さい子もいるから一分、かな。それくらいあればある程度マシな場所へ逃げられると思う」
「その時間、待つと?」
「馬鹿だな。それ以上は待たないと言っているんだ」
再び“念”と呼ばれるこの技を使い、今度はきっちり一分計れる砂時計を具現化させる。俺の背丈よりも巨大なこれなら俺以外の人でも残り時間が知られるだろう。とはいえ逃げてしまえば見えなくなってしまうだろうが。
「そろそろ始めようか」
砂時計の薄い
硝子に指先をくっつける。そのまま、つつと指先を横に滑らせて歯車へと繋がるレバーまで数歩歩けば、優美な曲線を輪郭とする
硝子を挟んだ向こう側の村人の姿は歪みきって人型を成してすらいなかった。「それがお似合いだよ」なんて小さく口に出してみても何が救われるわけでもない。
「ま、待っ、」
棒状のレバーを掴んで、ゆっくりと回しだす。砂時計がぐらりと傾いて、腕に重さが伝わってきた。そのまま力を込め続ければ、砂の溜まった下部が次第に持ち上がり始める。もう少し小さくても良かったかなあ。
「まるで悪いと思っていないわけじゃないんだ」
加えて「お前らのことは大っ嫌いだけどな」なんて血の気の失せた村人たちの顔を
一瞥してにっこりとわざとらしく笑ってみせる。一気に力を込めてレバーを最後まで半回転させれば、風を切るように砂時計がぐるりと回転し、静かに砂は落ちだした。
「ほら、早く逃げろよ」
考えている時間なんてくれてやるもんか。
(P.11)