014 3/3



「邪魔するぜー」


 換気か、それとも一階の音でも聞いていたのか、薄く開いていた扉を不躾ぶしつけに足で押し開ける。目的の人物はとても清潔そうには見えない白色のシーツが敷かれたベッドの上に腰掛けて逆さまの本を手にしていた。
 だからといって笑う気はおきない。「なあ」俺の影がクロロに落ちて、俺を見上げた黒曜石をさらに濃くした。
 本を無骨な手から抜いて近場に放る。肩を押すとその体はあっさり座ったまま仰向けになった。顔の横に付いてシーツにシワを集めている俺の手を一度横目で見てから視線を合わせた瞳は、たしかに大人に近づいてはいるが大きくて幼さがまだ残っている。
 ベッドに押し倒しているのだから、眼前の奴が女だったなら少しは空気が砂糖菓子のようであったかもしれない。そんなことを思っても、色気の欠片もない現実が変わることはなかった。


「死んでた間も溜まったりするのか?」


 ……マチと同じことを言っても可愛さは見出ださないからな。
 ったく、二人は俺を何だと思っているんだ。仮にそうだとしても、俺がそれをクロロで発散しようとするはずねぇだろ。
 愛を共有するために体を使うことはとても効果的で簡単、そして快楽まで得られる理想的なものだが、愛欲と性欲を丸ごと同一視するのは違うのではないかと俺は思う。


「俺のこと、嫌いになったのか」


 問う。そんなことはないと知っているのに、覆い被さっていてもクロロへと垂れない短くなってしまった髪を思うと確認せずにはいられなかった。弱すぎるだろ、なんて呆れすら今はどうでもいい。
 一方、クロロは心底不思議そうに「なぜだ?」と口にした。
 声にしなければ伝わらない。察しろだなんてあまりに傲慢かつ怠惰だ。それは十分にわかっている。
 しかしなぜだと訊かれてしまうと、こんなことすら推測もつかなくなってしまうほどに時間という距離が空いてしまったのかと、肺が寂寥せきりょう感で縮む気持ちがして俺を苦しめた。


「お前が長いのが好きだと言ったから、お前が丁寧に乾かすから、お前が楽しそうに結うから、お前がその指で優しくくから、お前が」
「アイヴィー、それは」
「お前にとって俺は消耗品なんだよな?」


 我ながら酷い訊き方をしたものだと思った。目と鼻の先にいる男からは確かな愛を感じているというのに。
 それでも意地悪く訊いてしまうのだから、自分で思っていた以上にあれは一つの形として俺に安らぎを与えていたのだ。


「……好きなモノが腕の中で日に日に形をうしなってゆく。いくら注意を払っても自ら溶けこぼれて少なくなってゆく。それだけじゃない、時に鳥についばまれて欠け、虫にたかられて削れ……時を止めたいと、あわよくば戻したいと何度願ったか」


 俺が肩を押さえつけているせいで動かしづらそうなその腕は、どれだけのうじを払ってくれたのだろう。きっと酷く醜かっただろうに。愛だの何だのと言っても生理的な拒絶反応が無いはずもなく、腐臭で呼吸もままならなかったに違いない。


「腐肉を愛することがどれだけ苦しいか。骨を一片ともこぼさず歩くことがどれだけ難しいか。アイヴィー、お前は知らないんだ」


 それはまさしく愛の言葉だった。
 あの時の俺の下手な告白とは異なり、その一言一言から光景すら浮かんでくる。その苦しさを、難しさを、クロロは受け入れ耐えてくれたのだ。
 あれからどれだけの年月が過ぎたのだろう。こんなにも嬉しい言葉を伝えてくれるくらいだ、年下だったクロロが今では年上になっていてもおかしなことは一つもない。


「けれどアイヴィーはその苦さを知らなくていい。知ってもらいたいことはただ一つ、お前の目の前にいる男が、飽き性のこのクロロ=ルシルフルが! それをやってみせたということだ」


 もし俺とクロロの立場が逆だったのなら。
 きっと俺は死体を愛する苦しみに窒息して、すぐにでも伴に墓土を被り、今頃はどちらの骨とも区別がつかなくなっているだろう。こうして二人言葉を交わせるのは紛れもなくクロロの強さのおかげだ。
 俺ならば二人で死ぬみちをとるところを、再び二人で生きるみちを選んだその強さにはある種の狂気すら覚えてしまうが、やはり嬉しいことに変わりはない。
 俺が密かに気に入っているクロロの鼻筋を人差し指の背でつっと一度撫ぜる。この男の鼻骨はシンプルで美しいのだ。
 覆い被さっていた体を退き、俺の髪と同じようにくすんだ少しほこり臭いシーツを無理矢理剥げば、クロロはドシンと鈍い音を立てて床へと転がり落ちた。


「何を……」
「んな汚いベッドで寝てるくらいだ、クロロのほうが溜まってんだろ? 女の影すら見えないな」
「それはずっとアイヴィーが起きるのを待っていて」
「今夜は一緒に寝ようぜ、あの一週間のように。たとえ何年が過ぎていようとも、俺にとって今日の目覚めはあの夜の続きなんだ。あの家にほこり臭さなんてなかった」


 なんて言っていても、俺の体は睡眠というものをとれるのだろうかと考えずにはいられなかった。そもそも自分が人間なのかすらもわからない。
 それでも、目を閉じればすぐにでもとっぷりと沈める確信はあった。明日が来るのかわからない――連日続いたその恐怖はない。だからベッドの上ですら時間を惜しんで話し続ける必要もない。
 互いのペースで、交わすべき言葉だけ交わす。それができるのは死が隣にたたずんでいない時だということを知った。


「アイヴィー」
「……ん?」


 壁に掛けられているカレンダーは、一つの日にちだけが赤黒く囲まれている。不自然にかすれたその印を近づいてよく見てみると、それはインクなどではなく乾いた血液だった。
 きっとペンが手持ちになくて、親指でも噛み切って書いたのだろう。すぐに横着しようとするのはクロロの特徴の一つだ。
 囲まれているその日にち――俺の誕生日よりも前の日にちにはすべてバツ印が書かれていることから、今日が誕生日であることを知った。これが偶然であるはずがない。面白い念能力者を見つけたものだ。



「――おはよう」


 その言葉は体の芯にビリビリと甘い電流を走らせ、鏡を見ずとも口端が溶けたのがわかった。
 いつもは後に起きるクロロを待っていたが、こういうのも悪くないかもしれない。なんて思いながらも、俺はもともと殴るためにここに来たはずなのだ、と緩む唇を手で覆い隠す。しかしこの快味と、とくとくと体内に注がれてくる悦びで細まった目までは気が回らなかった。


「……ああ、ああ、おはようクロロ。寝坊して悪かったな」


 たった一本でもきちんと濃い黒髪を指に絡めてく。さらさらとそれを数度繰り返しているなかで指先に当たった頭皮は生温かいかつ柔らかくて、目の前の男が生身の人間であることを強く感じさせた。


「……本当に、本当に」


 クロロは鼻声で微笑んだ。普段は硬そうな黒曜石が、まるで茹でた後のタピオカパールのようにてらてらと水で光りにじんで、まぶたを下ろしたのならそのまま潰れてしまいそうな柔さを持っているように見えた。


「大寝坊だ」
「ああ」
「遅かった」
「ああ」
「待ちくたびれた」
「ああ」
「腹が減った」
「ああ……おお? そりゃ大変だ。早く飯を作らないと」


 床に直で座っていたクロロに合わせてしゃがんでいた体は、立ち上がろうとすると引き止められた。俺の服を掴んだクロロの手は男らしく節くれ立っていても駄々っ子のそれに見えて、すぐにそれが正解であったことを知った。


「シチューがいい」
「今からか!?」
「温かいシチューが食べたい」
「シチューは大抵温かいものだぞ?」
「デザートも今度こそ二人で食べよう」
「デザートも作るのか……。飯の前にお前がきちんと風呂に入ったらな」


 先ほどクロロの髪に通した俺の指にはわずかに脂がついて光っている。昨日おそらく風呂をサボったのだろう。
 どちらからともなく失笑して、そのまま数秒間だけくすくすと笑い合った。


「……クロロ、お前に言いたいことが三つばかりある」
「それは?」
「まず、食べるのは二人でじゃないだろ? せっかくみんないるんだ。起き抜けと言えど、俺は馬鹿騒ぎの食事だって嫌いじゃない」


 どうせ作るなら何人分だって同じようなものだ。きっとみんな寝ていないのだから腹を空かせているに違いない。


「次は?」
「――起こしてくれてありがとう」


 雑に丸めたシーツをかたわらに抱えた状態で、今度こそ立ち上がる。追うように立ち上がったクロロは記憶よりも随分と背が伸びていて、俺と同じかそれよりも一、二センチは高いように感じた。
 もう一度カレンダーに目を向け、今度は小さく書かれている西暦に注目するとあれから一年と少しが経っていることを知った。なるほど、生まれ年として見れば俺のほうが年上であるのに生きている時間としては大差なくなったらしい。
 本来俺は今日十九歳になるところを、十八歳になったのだ。クロロは数箇月後に十八歳になる。
 俺は学校と呼ばれる所に通った経験も通いたいと思ったこともないが、今なら通ってみたいかもしれない。いや、何十人何百人といる年の近い奴らの中に入ってしまえばすぐに目移りされてしまうだろうか……やっぱり却下だ。
 そんなことを考えていてれていた意識は、頬から顎下へとかけて感じたくすぐったさで強制的に戻され、しかし俺の体が起こした反応はそのくすぐったさに身をよじらせるのではなく、短い声を発するほどにぎょっとして目を見開くことだった。
 クロロの瞳を溶かしてしまいそうなほどにあふれた、まるで朝露のようにぽろぽろとした涙が顎先から潔く離れては服にシミを作っている。
 玄関先で濡れ鼠になっていても涙は一滴として見せなかった男のそれには混乱せざるを得ず、「ど、どこか痛いのか……?」なんて頭の悪い質問が口から飛び出した。


「安心感が……どっと」
「……知らないうちにお前のほうが泣き虫になっちまったみたいだなぁ」


 親指の腹をクロロの下まぶたに沿わせる。生暖かい液体が指を濡らし、しかし拭っても拭っても涙は下睫毛まつげを湿らせ続けた。
 タオルもティッシュも無い。あるのは汚いシーツだけのこの部屋で、どうしたら俺のせいで流れた涙を受け止めてやれるだろう。
 しばらく考えても名案など一つとして思い浮かばず、唯一できたのは両腕を広げて飛び込んでくるのを待つことだけだったが、それは一層涙の量を増やしてしまったようだった。
 肩がじっとりと濡れそぼっても不快感と呼べる感覚はない。


「臭くない……」
「はは……そりゃどーも」


 俺は確かに生きている。地面に足をつき、怠惰な瞬きを繰り返し、呼吸に肺を膨らませ、泣き虫を撫でてなだめているこの手は、紛れもなく腐臭とは縁遠い生者のものだ。
 それでも多少気になりはするもので、近いうちに香水の一つでも買いにいこうかなどと考えているうちに安堵あんどの涙は止まったようだった。


「じゃあ最後の一つな」
「ああ、何でも言ってくれ」


 すん、と鼻をすすって力強く微笑んだクロロの目尻は暗がりで化粧をしたかのように赤く色付いている。しかし粉を叩くことは忘れてしまったのか、寝不足を隠せていない眼下だった。
 しかしそれは今日で解決するだろう。これだけ泣いたのだ、この後は疲労で昼も夜もなく眠れるに違いない。
 それともクロロにとっては数年越しの再会であるから死ぬ前の俺のように寝たくないとごねるだろうか。いいや、どれだけごねようが関係ない。食事に時間の掛かるリクエストも貰ったことだし、これから俺がこの手でしっかりと寝かせるのだから。
 やる気を胸に小指からてのひらを握りしめる。許可は貰ったぜ、なんて内心愉快に思ったのは少し意地が悪かっただろうか。いいや、そんなことはどうでもいい。
 数秒後、俺が放った最後の言葉にクロロは「え」とだけ遺して寝不足解消に励んだのだった。


「一発殴らせろ!」

(P.45)



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -