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「……アイツが帰ってきたぞ」
「早くいなくならないかしら」
「怖いわ……」


 潜めた声が耳に障る。あからさまに俺を()けて歩く人々に、あちらこちらから聞こえる内緒話。対象である俺に聞こえないように小声で話しているようだが、生憎(あいにく)耳は人並み以上に優れているつもりだ。『全部聞こえてるよ』なんて言ったらまた××扱いされるのなんて目に見えていることだから聞こえないふりをして、歩く先をただ真っ直ぐ見る。
 いつもと同じこの光景にはとうに慣れてしまった。つらいことはどれだけ繰り返しても慣れることはできない――本の中で誰かがそう言っていた気もするけど、書いた人は大した文句も出ないような生活を送っていた人だと俺は思う。
 慣れてしまえばもう大抵のことには傷つかなくて済むのだ。自分をこれ以上傷つけないためにも自分の意志とは関係なく勝手に慣れていくのは仕方がない。
 もしかしたらこれが風化と呼ばれるものなのかもしれない。物語の主人公たちは両手からあふれんばかりの感情を持っていて、彼らから見たら意図的ではないとしても感情を麻痺させることは逃げで無様なことに映りそうだ。それでもこうして慣れたと言えるようになるまでには多くの時間を費やしたし、毎日毎日飽きもせず傷ついていた。
 今の説明では俺が村の人たちから嫌われていると誤解されてしまいそうだが、おそらくそれは正しい表現じゃない。嫌われているというよりも、怖がられていると言ったほうが近いと思う。まあ、怖いものは嫌いであると言うのなら嫌われているというのも間違ってはいないけど。そうなった原因はまたいつか。
 分厚い木の扉を開けて家に入ると、両親と妹が夕飯を食べている最中だった。食卓に並んだ料理からはかすかに煙が立ち昇っている。


「あ、あら……今日はちょっと遅かったのね。ご飯すぐに出すから」


 立ち上がった母親がぎこちのない笑顔を浮かべる。しかしすぐに背を向け鍋のほうへと寄って行ったことでそれは数秒にも満たなかった。
 ああやっぱりこの人は俺のことなど何も見てはいないのだ。帰りたくもないこの場所に普段よりも早く帰ってきたというのに。
 のんびりと手を洗いながら、それとも、待っていたとでも思わせたいがための言葉だったのかな、なんて頭の片隅で考える。
 妹の隣にある自分の席に座るとすでに自分の分の夕食が並べられていた。本当にすぐ準備してくれたらしい。「ありがとう」と小さな感謝を落としてから席に着いてスプーンを手に取る。
 そういえば久しぶりに家族の目の前で食べるかもしれない。少しだけ緊張するが、二歳下の妹の垂れがちな丸い目が横からじい、とこっちを向いているのを無視して料理を静かに口に含む。
 ――いつからだっただろうか、味を感じなくなったのは。
 昔からそうだった気もするし、最近そうなった気もする。味を感じない、というよりは全部が全部砂のような味がすると言ったほうが正しいかもしれない。もちろん砂なんて食べたことはないけど。しかしその表現が一番しっくりとくるのだ。
 一口一口、スプーンを口に運ぶのが怖い。どうせ、という気持ちとわずかな期待が混じり、目の前の食事よりも確かな味となって苦味を運んできた。
 木材から作られたスプーンが手の中でカタカタと小刻みに震えるのだけは月日を重ねても慣れそうにない。


「えっと……口に合うかしら」


 会話が無いこの食卓に何とか話題を持ち込もうと母親がこっちをうかがうようにして尋ねてきた。『変な味がする』なんて正直に言えば、真っ青な顔をして作り直そうとするに違いない。
 味覚さえ正常であれば美味しいはずだから、と自分に言い聞かせて、「美味しいよ」と一言告げる。今はまだ水の汲まれたコップに手を伸ばしてはいけない。
 母親の怯えた顔がいくらか和らいだのを一瞥いちべつして、また料理を口に運ぶ。
 もし、『本当は味がわからない』などと言ったら、さらに怯えられるのだろうか。ただでさえ人と違うところがあるのにそんなことを言ってしまってはまた違いを認めるようなものだ。このままでいい。俺は俺のために黙ったままでいるべきだ、と噛むのもそこそこにして咀嚼(そしゃく)物を喉の奥へ押しやる。
 村で恐れられているといっても親が育児を放棄することはない。食事だって与えられるし、欲しいと言えば大体のものは買い与えられる。生活に困っているわけではないのだ。


「何」


 ずっと見続けてくる妹に一瞬だけ目をやると妹の肩が小さく跳ねた。肩を越したばかりの薄い金髪がわずかに揺れたのを目で追う。


「私たちね、夜に花火する。アイヴィーはやるの?」


 妹は自分のことを兄と呼ばない。呼ばれ方にいちいちこだわりはないが、きっと俺のような存在を兄と思いたくもないのだろう。ほかの人たちに兄妹だと思われたくもない、というのもあるかもしれない。
 参加してほしくないことが見え見えの質問に小さく息を吐き、それなら望み通りの回答をしてやろうと静かに首を横に振った。妹は少し上がった声で「そっか」と言うと、ぽてりとしたその手でパンをちぎって口に運ぶ。
 ふわりとした妹の声が嫌いだ。細い喉から出てくる砂糖を飲み込んだような甘く優しげな声は、なぜだか聞くたびにがりがりと耳の奥が削られているような気分になる。
 もう席を外してしまおうと残っていたスープを流し込んで席を立つ。立ち去る前、『花火楽しんで』と言おうと一瞬足を止めたが、嫌味に聞こえてしまうだろうと結局それを口に出すことはなかった。
 居場所の作り方なんて本には書いていない。

(P.3)



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