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とにもかくにも、初めはあの森から離れてしまおうと距離をとる目的でただただ歩いた。追っ手を寄越されても、地走鳥を使われようと逃げ切れる自信はあったが、気持ちがあの近辺にいることを許さなかった。
一箇月ほど気ままに旅をしていた時、ふらりと立ち寄った街の一つに存外居心地の好さを感じ、宿をとってその街で一日中働き詰めることにした。
人がごった返すその街は都会と呼ばれるところだろう。奇抜な服装をした人も街を彩るだけで決して目立ちはしない。さまざまな人がアスファルトで舗装された幅の広い往来を行き交い、大きな歩幅で進んでいく。自分のことにしか興味が無いようなその瞳に俺が映るのは、足を止めて流れを切ったときのみなのだ。
大きな街でも、一つ裏へと行けば安い宿は苦労せずとも見つけることができた。防犯はほとんど自己責任だが、貴重品があるわけでもない着の身着のままな俺には大して問題は無かった。
閑話休題、子供が働いているというのはわけありが多い。運良く俺はまともな雇い主に出会えたが、雇ってくれる場所が少ないなかで理由はどうあれ金を求めて働くしかない子供たちを
狡猾な大人たちは巧く利用するのだ。子供なのだから賃金は大人の半分、働かせてやっているのだから感謝こそされても文句言われる筋合いはない、といったように。
この街は居心地こそ好かったが、長い年月をここで過ごしたいと思うには至らなかった。いや、この街でなくともきっと一つ所に十年二十年留まるなど俺にできやしないのだ。
特筆するような大きな出来事が無いつまらない日々でも、帰らなくてもいいという安心感は大きかった。好きに稼いで、好きに遊んで、好きに眠る。自分の責任は自分にあり、すべてが自分次第の生活は人間としての自分を感じることができた。
あっという間に数箇月経ち、右も左もわからなかった俺でも街に溶け込んだ頃、ただひたすらにお金を集めることに必死な俺のところに鎧のような筋肉を
纏った男がやってきた。
「
天空闘技場で戦士になってみねぇか?」
外の天気に不満を溢しながらカウンターにどかりと座って昼間から酒を注文する男は、俺を見るなりそう口にした。すでにほかの店で呑んでいたのか色付いた頬と酒臭い息が男の言葉を冗談めかしたが、その眼差しの真剣さは酒に呑まれた酔っ払いのそれではなく、たった一言でも俺の興味を煽った。
詳細を促すと「そう来ると思ったぜ」と茶化した男は提供したばかりのグラスを一気に空にした。俺のことをもともと知っていたわけでもあるまいに。
男の言うことには、天空闘技場の戦士となれば勝ち進めば進むほどマネーファイトを貰え、かつ百階を越えれば個室まで与えられるらしい。
「……是非」
それなりの強ささえあれば毎日汗水垂らして働かずとも十分に暮らしていけるというのを聞けば、俺が首を縦に振るのに時間はそうかからなかった。
乗り気の俺を見て、初めは蜜を垂らしているかのように甘い話をしていた男も次第に脅かすように話していく。トラウマになるかもしれない。酷い怪我を負うかもしれない。運が悪ければ死ぬかもしれない――しかしどれも
些細なことだった。
現状に不満があるわけでもないが生きる理由があるわけでもなく、大切な人がいるわけでもない。独りのこの身に何が起ころうが、憂うのは自分だけだ。
もしこの先、哀しむ人ができてしまったら。
自分で言うのも悲しくなるが、もともと人からろくに愛を貰えずに育ってきた人間だ。愛を貰えていると理解した途端に誰よりも生に執着してしまうかもしれない。
好きに稼いで、好きに遊んで、好きに眠る。自分の責任は自分にあり、すべてが自分次第の生活――それは言い換えれば、“いつでも死んでも良い”という安らかな生活であった。
世界を見る時には、『いつでも死ぬことができるのだから』とあらかじめ額縁を作ってそこから覗くだけで酷く気が楽になった。どんな結果に転がろうと死んでしまえば終われる。その思考は危険な安定剤だと言われるかもしれない。しかしそうだとしてもそれは安定剤にほかならず、今の俺をどんな優しい言葉よりも支えてくれるのだ。
すべてを吐き出すと、男はレジカウンターに置いてあるペン立てから油性マーカーを取るなり「二日後またここで」と壁に掛けられていたカレンダーの八月十日に大胆な多重円を書いて満足げに店を出て行った。
「お客様、料金のお支払いをお願い致します」
「げっ……紹介料ってことにしといてくんねーか?」
「てーんちょー」
(P.15)