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「おい」


 今日は少し寝坊してしまった。十中八九、昨日きのうの激しい疲労が原因だろう。別に仕事や予定があるわけではないが、早くに起きて家を出ないと村の人々が活動を始めてしまうのだ。
 日もとうに昇った時間に起きるのは随分と久しぶりのことで、案の定村人たちは俺を遠巻きにしている。俺を刺激してはいけないと考えているのか、蜘蛛の子を散らすように逃げたりなどはされないが、俺のことには気づいていないとでも言うように背を向けられたり、目が合ったら合ったで親切を装った猫なで声の挨拶をされては余程の馬鹿でない限り存在が望まれていないことは理解できる。
 関わるなどこっちから願い下げだ、と両腕に抱えていた分厚く大きな本を持ち直し、あの大木のもとへ行こうと足を進める。


「オイ!」


 今日から新しくやることが増えた。きっと自分の体内に引っ込めたり広げたりする以外にも種類があるだろうあの力を早く使いこなせるようになりたい。
 手当たり次第実践するよりも書物を探すほうが先だろうか。いや、古書店に並んでいた本は片っ端から読み漁ったが、一冊どころかこの不思議な力を(ほの)めかす記述のわずか一行も見かけたことなどない。
 この世界に無いということは無いだろうが、今の俺では手に入れることができないものなのかもしれない。公になっていないとなるとますます期待できそうだ。


「無視すんじゃねぇ!」
「……わっ」


 (はや)る気持ちを抑えながら歩いていると急に肩を後ろに引かれた。突然のことで思わずバランスを崩してそのまま後ろに倒れてしまう。抱えていた本が手からこぼれ落ち、ぐしゃりと紙の折れる音が耳に届いた。


「はは! わっ、だって!」
「情けねー! それでも男か?」
「てかあれだけ大声で呼んでんのに気づかないとか」
「仕方ねーよ、普段家族にすら話しかけてもらえないんだから!」


 尻餅をついたそのままの体制で見上げる。たしかに情けない状態だ、と自分の恰好を見てそっと心の中で吐き捨てた。
 絡んできた奴らは四人組、見た限りでは自分よりも三、四歳年上だろうか。面倒なのは嫌だ。適当に受け答えて早く済ませてしまおう。


「ええと……その、ごめんなさい。まさか自分が話しかけられてるとは思わなくて。何の用ですか」


 事務的に口を動かしながら立ち上がって汚れを払う。この人たちは怖がらないのだろうか、などと白いもやのことで埋め尽くされていた頭のほんの片隅で考えながら、男の足もとに落ちてしまった本を拾い上げようと屈んで手を伸ばす。


「い゛ッ……!」


 しかし、その伸ばした手が本に届くことはなかった。しばらく切っていない伸びた髪を引っ張り上げられれば、屈んだ姿勢を元に戻さざるを得ない。
 ベタな絡まれ方をしたなあ、と物語ですらその陳腐ちんぷさにむしろ起こることもなさそうな目の前の現実を改めて受け入れた。


「……何、ですか」


 反抗したい気持ちもあったが、特に反応を示さなければさっさとやめるだろうとぐっとこらえる。ああ、くそ、涙が出てきた。
 痛覚への刺激でぽろぽろと玉のようなしずくが頬を伝っていくのを感じながら、早く離してくれと歯を食いしばる。


「うわ、本当に赤ぇぞ」
「本当だ本当だ気味悪ぃ」
「怖いの? 泣いちゃってるけど」


 男たちは俺の顔を指差しながらけらけらと笑う。目に刺されるのではないかと一瞬肝が冷えたが流石(さすが)にそれは無いらしい。さて、この人たちは一体何がしたいのだろうか。


「それで、用事は」


 質問の答えを促す。早くあの練習をしたいのだ。昨日きのうは一瞬で疲労に負けてしまった。おそらく時間などあってもあっても足りないだろう。ただでさえ遅く起きてしまったのだから、無駄な会話に費やしている時間など小指の先ほどもない。
 しかし強がっているような言い方になってしまったことに自分の対人能力の無さを痛感していると、「おい見ろよ」と少年の一人が落ちた本を拾い上げた。


「これ、違う言葉で書かれてるぜ。多分公用語ってやつだ」
「うわ、お前もしかしてそのナリで村の外に憧れてるとか? 気味悪がられるだけだぜどーせ」
「気味悪がられたっていい。どうせ村の中(ここ)でも気味悪がられてるんだ。……俺のことを早く村から追い出したいなら止めないほうがいいと思うけど」
「……年下のくせして生意気な奴」


 そういうお兄さんは年上のくせして威張ることしか能が無いんだ、なんて、心の中でそっと悪態づいてみる。口に出したらさらに時間を吸われそうだ。


「てかこの本、町に行かないと売ってないんじゃね?」


 この村には大人が外の世界を最低限知るための辞書はありこそすれ、公用語――ハンター文字で書かれている本など、子供の目に届く場所には置いていないだろう。あるとしたら長老の家か。それは必要が無いということもあるが、おそらく子供が読んで外の世界に興味を持ってしまうことを防ぐためでもある。


「どこでこれを手に入れたんだ?」
「まさか長老様の家から盗んできたとか!」
「うわ、それありそう! マトモじゃねー奴は何をしでかすかわかったもんじゃねーからな」
「――買った」


 前髪を掴んでいた奴の手をパシリと払う。いくら待っても離してくれそうにないのだから仕方がない。「……はぁ?」ひそめられた眉が威圧感を生んでいる。


「だから、町で買ったって言ってるんだ」


 じくじくと頭皮が痛む。「用が済んだのなら通して」と髪に手櫛を通しながら男たちを見上げた。沈黙が両者の間に落ちる。
 数秒の(のち)、自分たちが初めにそう言っていたのにまさかそれが本当だとは思わなかったのか、四人は目を皿のように見開いた。


「ち、長老様に言ってやる!」
「はは、ざまぁみろ!」


 俺の弱味を握ったとばかりに嬉々として彼らは走っていく。俺よりも体格の大きい人たちだったのに、その四つの背中は小さく情けないものに見えた。
 たしかに試験も受けず、誰の承認も得ていないままに森を出るのは禁じられていることだ。だからといって今さら弱味でも何でもないし、何がざまぁみろなのかわからない。
 もしかして罰についてだろうか。掟破りには罰が与えられるらしいが、きっと殺されることはないはず。閉じ込められたって今俺がしたいことは十分にできる。場所が変わるだけだ。何も困らない、大丈夫。大丈夫だ。


「時間とらせやがって」


 投げ出された本を拾い上げて再び歩き出した。

(P.7)



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