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 子供たちは叫び、落ちまいと必死に脚を前へ出す。《ゲルニカ》を思わせる光景に自然と舌打ちしていた。
 いつもなら冷や汗の一滴も出やしない。あいつらは橋が崩れ始めた時点、いや危険を察知した瞬間にすでに橋から離れているからだ。
 目の前を走るこいつらは何の力もないただの子供で、比べてはいけないとわかっちゃいるがその小さな歩幅に焦りがつのる。
 ここでは俺は何も知らない役立たずだ。向こうまで間に合うか? こんなところで一人になるわけにはいかない。間に合え、間に合え。
 どれだけ上手く情報という武器を見つけようと、もともと持ち合わせている知識がゼロに等しい俺にはその武器を満足に扱うことも、ましてやそれが武器なのだと認識して手に取ることも叶わないだろう。
 全員を助けるなんてことはしない。否、できない。
 己を過信するな。俺にそこまでの力はない。だが――


「最大多数なら……っ」


 特に歩幅が小さくて足場選びに苦戦していたアユミちゃんとアイちゃんの襟首を掴んで空中に引っ張り上げる。そのまま片腕ずつへと収めた。
 雑すぎて多少首が絞まってしまったかもしれないが、落ちるよりははるかにいいはずだ。二人はむせる動きを見せたものの、文句を吐くことなく黙ってしがみついていた。偉い。
 計三人分の命がこの体に懸かっているとなれば、子供たちを守るためといえども最後尾でのんびりと走ってはいられない。
 手っ取り早くこの二人の女の子を橋の向こうまで送ってしまおうと速度を上げると、絶望が一段と濃く塗られた叫びが背後から上がった。
 青スーツの少年の姿が下へと消えていくさまが眼球に記録されていく。あと一歩というところで崩壊に追いつかれてしまったらしい。その落下は実際には一瞬間の出来事だったが、スノードームに舞うパウダーのようにゆっくりと映った。


「掴まって!」


 間一髪メガネが少年の腕を掴み、ランちゃんが焦燥の声を上げた。
 血のかよっていない指が骨の一本一本を丁寧に這ってきたような嫌な感覚が一気に体を飲み込む。
 橋から少し離れたガス灯の下へと二人を下ろし、動かないよう指示を出した。すぐさまきびすを返す。


「コナン、頑張れ!」


 メガネだけでなく、ランちゃんやほかの子供たちも引っ張り上げようと駆け寄る。歯軋りの音は自分のものだった。
 一度は崩壊が止まったものの、またいつ崩れてしまうかわからない。大人数で駆け寄ったらなおのこと。
 お前らはどれだけお人好しなんだ。いや、これはお人好しなんかじゃない。考えなしの馬鹿なだけだ。
 メガネやランちゃんが落ちたのであれば危険を冒してでも助けたかもしれないが、実際に落ちたのはいてもいなくても大して変わらない――役に立つとすれば盾くらいの――奴だ。
 なかなか引っ張り上がってこない。ランちゃんとメガネは苦戦しているようだった。おそらく落ちないように掴んでいるのがいいところだ。
 それもそうだ、子供といえど人間というのは想像以上に重い。
 下は奈落、腕一本に全体重が掛かっている。落とさずに掴めているだけでもその筋力は人並み以上だろう。
 大きな崩壊は止まっても煉瓦が落ちる音が続く。いつまで体力が持つかもわからない。


「……ったく」


 痺れを切らしてとうとうランちゃんとメガネの間に割り込むと、二人は顔だけを動かして俺を見上げた。


「早く橋の向こうまで行けよ」
「……っでも!」
「この橋は危険なんだ、そのおつむでわからないなんて言わせねぇぞ」


 ひざをついて見下ろした少年は真っ青な顔をしていた。小刻みに揺れる眼球で自らが切り捨てられる未来を見ているようだった。
 ランちゃんとメガネの体を支えていたゲンタたちに戻れと顎で指す。これが決してお願いなんて優しいものではない空気を感じ取ったのか、煮え切らない後退あとずさりではあったもののこの場を離れてくれた。


「みんながここで落ちちまったら誰がゲームクリアするんだ?」
「駄目だよ、見捨てるなんてできない」
「いいから離れろって。……心配しなくても俺は子供一人くらい余裕で上げられる」


 手袋を外し、少年の腕を掴む。素肌に触れた外気はやけに冷えて感じた。
 すぐ隣の煉瓦が一まとめに大きく闇へ消えていったが、少年の顔にはわかりやすく安堵あんどの表情を浮かぶ。メガネたちはようやく離れてくれた。


「よかったな? 俺は見捨てるつもりだったんだぜ」


 少年の肩を外してしまわぬよう、慎重に掴んだ腕を引き上げた。
 アユミちゃんたちを待たせていたガス灯の下へと運ぶ道中、少年は命の危機を脱した安堵あんどからか俺の腕の中で体をくの字に丸めてぜえぜえと肩で息をした。


「……頑張ったな、もう怖くないぞ」


 少しだけ悩み、抱える腕の力を強める。
 こういうのはあまり得意ではない。
 どうしたらいいものかと困惑は残ったが、ちっぽけな心臓で早鐘はやがねを打つ音が伝わってさえきそうだった少年の呼吸はゆっくりと落ち着いていき、ガス灯に着く頃にはすっかりと平常を取り戻していた。
 怖がりな己を恥じる必要はない。恐怖という本能があるからこそ、動物は自らの命を守る選択を取れる。――だからこそ、その本能を無視してまで選択しなかった奴にはちゃんと訊かなければならない。
 破滅なんてごめんなんだよ。


「お前ら、どうしてあんな無茶をした?」


 少しきつい言い方になってしまったが改めるつもりなどない。「目の前で仲間が落ちたんだ、当たり前だよ」黙り込んでしまった子供たちのなかで、俺の問いに答えたのはやはりメガネだった。


「ああ、たしかにゲームクリアという目的を共にする仲間だ。だけどな、本当にクリアしたいんだったらもっと行動を考えるべきだと思わないか。あの瞬間ちょうど橋の崩壊が止まったのは本当に幸運だった。普通だったら足を止めたメガネ……お前まで落ちてたんだぞ」
「でも結局助けられたし……」
「平和であることに麻痺するな。結果論で命が救えたらそれはもはや奇跡と遜色ない」


 結果論はまぐれの先にあるものだ。そう何度も上手くいくはずがない進み方を癖づけるのは破滅を早めることに他ならない。


「メガネだけに言ってるわけじゃないんだぞ、俺は。助けたいからって崩れた橋の先に大人数で固まってみろ、今頃その全員が川底にいても不思議がる奴はいないだろ?」
「じゃあアイヴィーお兄さんは見殺しにしろって言うの?」
「無茶をするなっつってんだ」


 押し付けるように言ってしまったが、メガネたちの気持ちもわからなくはない。俺だって大切な奴が危なかったら真っ先に助けてやりたいと思う。考えるよりも先に体が動くことだってあるだろう。
 だがその最たる例で俺は一度失敗しているのだ。失敗の代償はあまりに大きかった。


「それってさっきの場合は見殺しにするってことだよね」
「お前は何が目的で今ここにいる?」
「もちろんゲームをクリアするためだよ」


 ああ、そうだ。クリアして全員の命を助けるために俺たちはここに立ち続けている。


「わかってんなら話は早い。いいか、ゲームオーバーになることがすぐに死に結びつくわけじゃない。全員がゲームオーバーになって初めて俺たちは死ぬんだ。誰かが脱落しても残った奴がクリアすればいい。無茶をして突っ込んで無駄に人数を減らし、結局全員がゲームオーバーになることこそ殺人だ」


 しゃがんで目線の高さを合わせる。メガネの目は揺れるピアスを追ったが、すぐに真っ直ぐ俺の目を見た。


「隣の奴を現実世界で助けたいんだったら隣の奴をゲームの中では見捨てる必要もある……それを覚えといてくれ」


 少し言い過ぎたかもしれない。メガネはうつむいてしまった。
 育った環境の差は歴然としている……そのことは十二分に理解しているが、自分の手だけは綺麗なままでいたいなんてここの奴らはズルすぎやしないか?
 形のいい頭を二三度ぽんぽんと叩いて顔を上げさせるとそこにはばつが悪そうな顔があって、ズルいと思っても口にはしなかった数秒前の自分に感謝をした。余計な傷をつけてしまうところだった。


「あぁ、仲間の命を大切にするのはいいことなんだぞ。俺だってそのほうが好きだしな」


 ピンと張った弦を緩めるためにペグを回すが如く、いつも通りに薄く笑う。
 くだらない、子供みたいだと笑われようが紛れもない本心だ。
 旅団クモは個の死よりも朽ちることを一番に嫌う。それでも団員の考え方が完全に揃っているわけではない。希望の見だし方だってさまざまだ。
 ひたすらに最悪をける者、逆境でも突破口を探す者、掟そのものを旅団クモと考え従う者――
 だから頭では最適解を知りつつも意見わがままをぶつけ合い、その度にコインに行方を問う。


「とりあえず、全員無事でよかったよ」


 選択を誤ったメガネに厳しいことを言ったのは実のところ俺自身への叱責だったのかもしれないと、スモッグににじむガス灯の光をぼんやりと見つめながら考えた。
 着け直した手袋はすでに熱を失っていた。

(P.14)


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