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 噂なんて可愛い代物ではなかった。
 アジトの片隅にぽつねんと置かれたいわく付きの古書へと瞬きの訪れまで視線を送り続ける。
 頭に浮かび上がってくるものの中に異世界に飛ばされたことへの恨みはない。ただひたすら疑問が雪のように積もるばかりだ。「なあ」読書にふけっていたクロロへと声を掛ける。


「まだあれに飽きてなかったのか?」


 顎で古書を示す。あの古書を盗みだしてから一週間が経とうとしている。久々の顔合わせは十分に楽しんだ。好き好きに散らばる頃だろう。


「手放す気になれなくてな」
優曇華うどんげの花でも近くにあるのか? 前に盗ったパライバトルマリンなんて一日とたなかったじゃねえか」
「気に入った青なら近くにある」
「知ってるさ。お前は緋の眼よりも普通のが好きだと言う変わった奴だ」


 そんなことを言うのはこの男くらいだろう。クルタ族としてのプライドなんてものはないが、世界七大美色を前にして別の色を好まれるのはなかなかに複雑な心境になる。


「どうしても欲しくなる時がある。……たまにな」
「カグヤという姫君は結婚の条件にこの世に存在するかもわからない物まで要求したらしい」
優曇華うどんげの花を探してきたらいいのか」


 優曇華うどんげの花とは伝説上の存在だ。三千年に一度咲くという謂われもあるが、実際は植物ではない。クサカゲロウという虫が葉や枝などに産み付けた卵が花に見えることからそう呼ばれている。
 たとえそれが珍しさゆえに吉兆のしるしとなっていようとも、貰ったところで眼球あげますとはならねえだろ。頭おかしいんじゃねーの。


「……俺が悪かった。本当に見つけてきそうだからやめてくれ」


 隣の部屋から聞こえてくる断末魔の叫びを聞き流しながら、クロロの瞳に浮かんだ期待の泡をぱちんと割る。
 暇を持て余したフェイが運の悪い奴らを引きずり込んでいく姿を見たのはちょうど二時間前のことだったか。
 シャルの調査でも厳しいときフェイは役割を担ってくれる。しかしフェイタンという男にしてみればただの趣味だ。今だって、連れてきたのはたしかに広く見たところの美術館関係者ではあるがあの古書の詳細を知っている望みは薄い。
 拷問風の虐殺現場となっている現場の扉をノックとともに開く。


「扉の下から血、流れてきてんだけど」


 それが何だという目で見られただけだった。椅子に縛り付けられた男女はなんともむごたらしい姿をしている。過激な男め。


「さ、俺に命乞いしてみな」


 椅子に縛り付けられた男女の間にしゃがみこんで、いびつな顔を下から見上げる。にっこり。「俺は話が通じる奴だぞ」「そいつらもう喋れないね」「そうかよ」残念、割り込むのが少し遅かったらしい。
 まだ半分は残っている女の下唇をつまんで「ほら、あーん」口を開かせるとフェイの言う通り喉からひゅうひゅうと空気の漏れる音が聞こえるだけだった。何かを必死に伝えようとしているから一応耳を寄せる。ひゅうひゅう。ひゅう。


「あー……ごめんな? わかんねぇ」


 不合格の宣告に二人の顔が青める。まあ助ける気になるような命乞いがこの状況で聞けるとは思っていなかったが。体液で汚れた体が老人のように小さく萎む。
 部屋に微かに残る肉の焼ける臭いの正体を探して辺りを見渡すと、散らばっている指のうち数本が焼き切られたような痕を残していた。そんなもので食欲を刺激してこないでくれ。


「話は終わたか?」
「優しいな、待っててくれたのか!」


 びちゃり。「あ、あー……」生ぬるさが顔の半分を襲う。声を奪われた二人から再び視線を外した瞬間の出来事だった。
 もう一度二人に視線を戻すとあら不思議! 頭部が綺麗さっぱり無くなっているではありませんか!
 俺の顔を塗らしたのはスッパリてらてらぎっしりな美しい断面から吹き出る血液だった。
 何で俺が汚れなくちゃなんねえんだ。何も悪いことしてないと思うんだよな。
 そうは思っても口には出さず大人しく部屋を後にすることにした。ここで『もー、フェイ君の照れ屋さんっ』なんて冗談でも言おうものなら俺まで種も仕掛けも夢も希望もない人体消失マジックの体験者にされてしまう。
 部屋を出る前に、だぶだぶと血液が湧く元生命に形だけの敬礼。俺は生きている間くらい生きていたいんだ。


「来たか」


 フェイと共にクロロのもとへと戻ると、まだここに留まっていた面子が集まっていた。中心にはあの古書がある。鑑賞会ですか。「行くぞ」だろうな。
 まあ俺も帽子を取り戻したいと思っていたところではある。
 というわけで反対はしないから今一度俺の姿を見てほしい。そして『優しいな、待っててくれたのか!』って言わせてほしい。
 なあ、この血をどうにかさせてくれる時間、とってくんない?

(P.30)


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