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 ゲーム開始から一番焦っているのが自分でもわかった。劇場でのお遊びとはわけが違う。
 一気に列車の屋根を蹴り上げて最短距離を詰めた。


「アイヴィーさ――」
「黙ってろ、舌噛みてぇのか!」


 何があってもずっと余裕でいられるほど俺はいい大人じゃない。
 メガネの後ろに回ってその大きな目を左手で覆い隠したら、ジャック・ザ・リッパーの右手首をナイフで一気に切り落とす。


「ッがぁあああああ!!」


 けたたましい咆哮ほうこうが谷底へと吸い込まれていくのを一人見下ろす。風で耳の先の感覚が薄れてきている。
 切り落とされて右手だけになってもまだメガネの腕を離さないジャック・ザ・リッパーのそれを取り、最初のように血まみれになってしまった右手袋も噛み外して共に投げ捨てた。


「アイヴィーお兄さん? 見えないよ……」
「……おー、悪い」


 両目を覆っていた自身の左手を離し、メガネを解放する。
 心配と懐疑の混じる表情かおだった。


「何したの?」
「お前からアイツを離しただけだぞ」
「……手袋、どうしたの?」
「失くしちまった」
「そう……」


 こんな誤魔化しがコイツに通じるわけがない。それでも追及してこないメガネに、わずかな驚きとともに感謝をした。


「アイヴィーお兄さん、しゃがんで」


 袖を引いたメガネの言う通りにしゃがむとメガネは自身のシャツの袖で俺の頬を拭った。白い生地に赤茶色のシミができている。(かな)臭さが鼻についた。


「悪い、汚いよな」
「……オイ、列車止めなきゃ!」


 赤スーツが何事もなかったかのように駆け寄ってきた。時間がないことは確かだがきっとわざとだろう。アイツは全部見ていたはずだ。
 メガネは「汚くない」とだけ言ってそれきり座り込んでしまった。三人を乗せた列車は泣きじゃくる子供のように速度を上げていっている。


「列車を止めてオレたちが生き残らなきゃ、まだゲームに勝ったとは言えねーぞ!」


 赤スーツは再度強く言った。だがメガネが動く気配はない。
 さて……蒸気が原動力となっているならまずは貯水タンクを破壊して水を捨てるべきか。否、それだと熱の逃げ場がない。空焚きは内部損傷を起こすだけだ。
 なら火室かしつに行って投入された石炭を無理矢理掻き出すのは有効か。現在の時速は百キロといったところだろう。燃料を無くしたところでブレーキ作用を待てるほど俺たちに時間は残されているのか?
 掻き出すだけでも一苦労だというのに、蒸気圧が落ちて空気圧縮機が停止し、ブレーキ圧が下がってくれるまでは早くて数十分、遅くて数時間だろう。


「メガネ、終着駅までの時間はわかるか?」
「……五分あればいいほうだよ」
「はは、そいつは思った以上に厳しいな」


 先ほどまで対峙していたジャック・ザ・リッパーは十分と言っていたが、それはハッタリではなかったらしい。
 ブレーキ圧を下げるために空気管でも破壊するか? 制輪子を作動させれば五分という少ない時間でも気休め程度にはなるかもしれない。
 いや、俺は馬鹿か。ここは現代じゃねえだろ。
 スターリング・シングル型蒸気機関車――事故の多かった時代だ。俺の持つ知識が正しければ空気圧縮機を持つ機関車部以外からはブレーキが掛けられないどころか、一部でも破損や漏れがあると全くブレーキが機能しなくなるはずだ。
 蒸気によるエンジンブレーキはそれらのブレーキ回路とは別にあるが――待てよ、そもそもどこのブレーキがどれだけ破壊されたんだ?
 イカれたのがハンドル付近だけなら制輪子やブレーキロッドがまだ生きている。それなら空気圧を使わずリールの巻き取りでブレーキロッドを直接引っ張り上げる手ブレーキでも減速を望めるが……駄目だ、確認している時間なんてない。


「機関車と客車の連結部分を切り放すしか方法はなかったんだ……」


 この世界に生きない俺が無い知識を懸命にかき集めている横で、どうしてお前がそう諦めたように言うんだよ。
 列車そのものを止めるのではなく暴走車両を棄てるなんて随分と面白いアイディアだろうに。
 かなり乱暴なやり方だが手ブレーキを使うよりも直接的だ。もし切り放した上で手ブレーキを使える時間があるなら、後方車両くらいなら停止まで行けるかもしれない。


「三人の力じゃあの連結部分はびくともしないよ。だからノアズアークの奴、乗客をすべて消しやがったんだ!」
「……なあ、眼前の死をただ待つのはどんな気分だ?」


 メガネの目の前にしゃがむ。その唇は俺の名前を呼ぶ形に動いたが、強風の中で小さな声は流されてしまった。


「少なくとも俺は不快


 冷たい墓土の中で手も伸ばせず置いていかれる夢を何度も見た。今だってそれは時折襲い掛かってくる。
 その途方もない悲しみすら感じさせてくれない死という曖昧な現象をもう二度と甘受してなるものか。


「キスのやり方も知らねえガキが一人ですべてを悟った顔してんなよ」


 手を引いて半ば無理矢理立たせる。
 御涙頂戴の物語など性に合わない。汚くても生きたもん勝ちだろ?
 幻影旅団が生に無頓着なら本人の分まで俺が執着してやる。


「這ってでも生きて、図体だけでかくなって、いい女に振り回されて、ふと振り返ったときに馬鹿なことばかりが浮かんでくるのが大人っつー人間だ。独りになったら好きに死ねばいい」
「何それ……」


 くすりとメガネの口から笑いが出た。
 笑わせるつもりなどなかったが気持ちが上向きになったのならそれでいい。


「連結器は俺に任せてくれるか?」
「いくらなんでも一人の力で外せるほど弱いものじゃねーんじゃねーの?」
「追い詰められて無謀な賭けをしようってわけじゃないぞ。できることをできると言っているだけだ」


 二人の頭をくしゃくしゃと撫でる。
 牽引を加速中に外すなど試しの門も開けられない奴が何人と集まっても無理な話だろう。
 ゆっくりと息を吐き薄く笑えば、安心という毛布を掛けてやることができる。
 二人の呼吸が俺に釣られて次第にスローペースへと落ち着いていくのを確認して再び口を開いた。


「わかっているとは思うが切り放したからって安全なわけじゃない。悪く思わないでくれよ、案はあるが時間が足りなすぎるんだ」
「誰もアイヴィーお兄さんを恨めないよ」
「ま、停止まではできずとも俺が最大限衝撃を緩和させるさ」
「オレたちは駅での機関車部分との衝突に備えておけばいいってことか」
「ああ、策を講じておいてくれ。二人とも頼りにしてるぞ」


 終わりへと向かう列車の上で空を覆い隠す煙を見上げる。
 それを勝利の狼煙のろしにできるかは俺たち次第だ。

(P.26)


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