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 最大限まで張った弦はナイフのように鋭く硬い。触るだけで皮膚がぱつりと裂けてしまいそうな空気が腰を下ろして、落ちる汗の音までをも目立たせていた。


「わかっているのかね? 貴様の質はただのワインだが、こちらは命なのだぞ」
「あんまり怖がらせないでくれよ。怖いだろうが」
「ふ、ふざけているのか?」


 相手のそれがハッタリだということはわかっている。一見ただのワインと子供の命という不利な状況だが、このワインを失えば経緯がどうであれモランはモリアーティから見限られるだろう。
 実際天秤に乗せられているものはどちらも命だ。
 だが怖いものは怖いだろうが。
 この場に割り込むかさえも扉の外で悩んだくらいだぞ。


「だからもしアンタがその引き金に指を掛けようもんなら」
「ほう、掛けたら何だと言うのかね……?」
「このボトルでアンタの脳天をぶち割る」
「ぶ、ぶち割る……」


 即刻ぶち割る。月までのホームランを出す勢いで振り抜くつもりだ。
 クレーターの一つか二つはウボォーがみんなで野球をした時に作ったものなんじゃないかとまことしやかにささやかれている。
 人間の頭部が飛んだらさぞ大きなクレーターになるんじゃないだろうか。重力だとか細かいことは考えないでほしい。夢はでっかく。
 話が進まず、試してみたい気持ちまで湧いてきてついにボトルを逆手に持とうかという瞬間、ドアベルが見えない弦を切った。
 少しの落胆を包むように鼻先に爽やかな香りがかすめる。
 開かれたドアの前に立っていたのは帽子を深々と被り、手を前で組んだ老人だった。


「モリアーティ様が皆様にお会いしたいと申しております。馬車でお待ちでございます。こちらへどうぞ」


 ようやくお目通り叶うらしい。
 御者(ぎょしゃ)らしき老人ですら浮世離れした危険さがあるというのに、馬車の中にいるであろうモリアーティは一体どんな奴なんだろうか。


「お、お待ちください!」


 ワインボトルでは倒せないかもしれない、なんてふざけたことを考えていると背を向けた老人をモランが呼び止めた。
 クレーター大作戦に胸を踊らせるような俺でも、御者ぎょしゃへ向けた言葉として妙であることはわかる。


「モリアーティ様に逆らうつもりですか」


 鋭い眼光をモランへと向けた老人に、「怖ぇ」と情けない音が喉を通った。同時に、呆れの感情が空気とともに肺を膨らませる。
 ったく……対象年齢にしては難しすぎやしないか? モランが口を滑らせてくれなかったら気づけていなかった。――この御者ぎょしゃこそがモリアーティだと。


「皆様をお連れしました」
「ご苦労。……さて青年よ、そのワインを頂こう」
「私がお預かりいたします」
「はーいどーぞ」


 馬車の中には同じく帽子を深く被った老人が腰掛けている。
 御者ぎょしゃに扮したモリアーティへとワインを手渡すと、帽子の影でほくそ笑んでいるに違いない眼前の男から先ほどよりも強くコロンが香った。


「ははあ、労働階級が夜霧に香りを移せる世ですか! この国はまつりごとの腕が立つとみえます」


 アイロニカルにとぼけるとモリアーティは窪んだ瞳をぎょろりと威圧的に動かした。「失礼、あなたのあきないの手腕だったようで」波風は立てないに越したことはないが、これは姿が見えなくなってしまった数人分の腹いせだ。
 微笑を返していると下から袖を引っ張られ、怖いオジサマから視線を外す。
 大きな目をじっと向けて唇を結ぶメガネに顔の高さを合わせると子供らしい肉付きの手をトンネルにして耳へと顔が寄せられた。


「どんな匂いがしたの……」


 耳にかかる息が少しくすぐったい。同じように息を混ぜてやり返すと、メガネは「ひひ、」と羽毛がこすれたような笑い声を漏らした。「意地悪しないでもっかい言ってよ!」今度はトンネル越しではない小声の叱責が飛んでくる。
 最初にやったの俺じゃねーもん。


「ハーブ系だな。自然に近い」


 あれならばもう少し強くても不快にはならないだろう。
 香りが何か重要な情報だったのか、メガネは一瞬驚きを見せると次には何かいたずらを仕掛けたような表情へと変わった。


「どうやら俺はお役に立てたようで」
「うん、助かったよ。ありがとう」
「どうしたのかね?」


 馬車の中の男が俺たちを見下ろして問いかけてくる。そっちが本物の御者ぎょしゃだ。
 

「ねえ……おじさんがモリアーティ教授?」


 メガネは馬車の中の男を射抜くように見つめる。男は「いかにも」と返事をした。
 しかしメガネは林檎りんごなど見たことがないとでも言わんばかりの様子でこれが自分たちを試すための嘘なのだろうと真実へと迫った。


「……どういう意味かな?」
「もうお芝居はやめたら? おじさんはモリアーティ教授じゃないんでしょ?」
「な、何を言うのコナン君?」
「だって、本物のモリアーティ教授は……ここにいるもの!」


 本物のモリアーティ教授を指差したメガネに思わず眉が寄る。
 周囲から指を差される光景が脳の水面に浮かんできて、代わりにヘドロのような重たい塊が水底へ沈んでいった。
 当然、気持ちのいいものではない。


「なぜわかった?」
「さっきモラン大佐がおじさんに『お待ちください』って言ってたよ」
「そっか! モラン大佐が敬語を使うのはモリアーティ教授にだけね!」


 謎解きが済んだことで今まで馬車で悠々と座っていた人物は帽子を外し、御者ぎょしゃとして正しい位置へと座り直した。


「それだけかね?」
「もう一つ。モリアーティ教授は天然ハーブ系のコロンを使うお洒落な老人だって聞いてたんだ。さっきこのお兄さんがどんな香りだったのか僕に教えてくれたよ」


 だから香りを気にしていたのかと一人納得する。モリアーティは「まるでミニホームズを見ているようだ」と愉快そうに笑った。


「ところで私に何の用かな?」
「ジャック・ザ・リッパーってロンドンを恐怖の都に変えるため、教授が街に放った人なんでしょ?」
「当たらずとも遠からずだ。ジャック・ザ・リッパーは貧民街で拾った浮浪児だった。母親に捨てられて路頭に迷った浮浪児だったが、一目で才能を感じた」


 低い声が「犯罪者としての才能をね」と続ける。
 浮浪児を悪いことのように哀れまないでほしいという悲しみと、恵まれていないことは確かだという客観がぶつかった。
 俺の母親ですら俺を捨てることはついに一度もなかった。緋の眼を外に出してはならないという掟がなくとも、あの人は捨てなかっただろう。そうであってほしいという俺自身の願望が混じっているのかもしれないが。
 あの人はきっとが怖かっただけだ。愛したかったはずだ。複雑ではあるが、被害者の一人とも言える。
 死に、殺してしまった今となってはすべてが過去として遠退くばかりだが。


「宝のように思えたが、存外才能を持つ者ギフテッドは多いのやもしれんな」


 モリアーティと視線がかち合う。貼りつけっぱなしの微笑を一際濃くした。


「俺は市民を守る側の人間ですよ」
「底意地の悪い鷹は爪を隠す」
「爪だって? 俺が隠しているのは十二本脚くらいだ」


 他力本願上等だ。
 まったくもって戦闘向きではない俺の能力でできるのは飽き性な団長の話し相手くらいなのだから。


「何の罪もない女性たちを殺害してるのはなぜですか?」


 ランちゃんがモリアーティ教授に問い掛ける。罪がないと決めつけるのは早いんじゃないだろうか。真っ白な人間を探すのは存外難しい。


「ジャック・ザ・リッパーは私の想像を超える殺人鬼になってしまったんだ。一連の事件はあの子の暴走だよ。君たちがジャック・ザ・リッパーを退治しようとしているのなら私も協力しようじゃないか」


 言葉だけを聞いたのならホームズではなくモリアーティがお助けキャラクターであったと思ったかもしれない。しかしいかにも悪い考えを巡らしている笑みを見てしまったらただの甘い話ではないことくらいわかる。
 最大限の警戒を怠らなければ蜜だけを吸えるか? ……否、起こるのは不測の事態ばかりだ。警戒しようとも手からこぼれていくものはあるだろう。


「ジャック・ザ・リッパーはたしかに暴走し始めているが、私が殺しの指令を送ればまだ従うはずだ。君たちはそこに先回りをすればいい」
「どうやって!?」
明日あしたのサンデータイムズの広告に彼へのメッセージを載せる」
「誰を殺せと命じるの!?」
明日あしたの新聞を見ればわかる」


 モリアーティはメガネの問い掛けを飄々とかわす。
 勿体ぶらずに教えてくれよ。読めねぇんだよこっちはよ。
 噛みついてやりたい衝動を抑えてモリアーティの乗った馬車が霧の中へ消えていくのを見送った。
 せっかくの異世界放浪も、こんなんじゃ土産話にもなりやしない。
 静かな街に響き渡るひづめの軽快な音を少し憎たらしく思った。

(P.20)


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