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 三十分ほどしてやってきた警察によって捜査が始まった。
 しかし現場の状況は事故ではなく自殺を示している。
 アヤネは深夜に亡き息子の面影をしのんでストラディバリウスを撫で回す趣味があったらしい。しかし部屋に転がっていた壊れたバイオリンがレプリカであることから、息子だと信じていたそれが偽物だったことに絶望して身を投げたのではないか、という話が上がった。
 隠されていた本物のストラディバリウスをチョウイチロウがすぐに見つけたことでメガネはトリックのためのすり替えの可能性を叫んだが、警察が撤収するのも時間の問題だろうと目を閉じると数分もしないうちに男の声が俺を呼んだ。


「お疲れのところすみませんな。あなたがあのアイヴィーさんだと聞いたものですから」
「堅苦しい言葉でなくて結構です。どこかでお会いしましたか」
「あ、あぁ……お気遣いどうも」


 茶色い帽子とコートに身を包んだ恰幅のよい男は帽子をわずかに持ち上げたお辞儀の動きを見せた後、メグレジュウゾウと名乗った。コクーンの時に音声を聞いていたらしい。


「子供たちに頼りっぱなしな様を聞かれていたとは……お恥ずかしい限りです」
「いやいや君がいたからこそコナン君がクリアできたんだ、謙遜しなくていいと思うがね」
「そう言っていただけると気が楽になります」


 時折苦笑も混ぜながら当たり障りない会話をしていると、彼の後ろにいたひょろりとした男がそわそわとし始めた。応えてやるように笑顔を向けると、棒アイスのように彼は全身を真っ直ぐに伸ばす。


「ジュウゾウ、そちらの方からも紹介をいただいていいですか?」
「じゅ……ああもちろんだとも」
「自分は警視庁刑事部捜査第一課強行犯捜査三係、巡査部長の高木たかぎわたるです!」
「はは、なげぇ〜! 警視庁刑事部捜査第一課強行犯捜査三係のワタルも、どうぞ気楽に話してくださいよ」
「じゃあ、アイヴィー君も……」


 お人好しがにじみ出るへらりとしたワタルの笑顔は見ていて気持ちの好いものだ。
 見たところ年齢も近いかもしれない。ワタルほどゴテゴテとはしていなくても俺にも肩書きが無いこともないが、この世界で通用するものに限れば一切無いのが残念なところだ。地下道をねぐらにする浮浪者と何ら変わらない。
 ワタルは俺の格好を見て、『すてきな三にんぐみ』のようだと言った。何のことかと思ったが、そういうタイトルの有名な絵本があるらしい。


「黒いマントに身を包んだ三人の泥棒の話なんだ」
「へえ、もう十一人いたなら読む気になったかもな」
「それってどういう――」


 ワタルの言葉は高い声に遮られて俺への質問が完成されることはなかった。ランちゃんが何かに気づいたらしい。「もしかして……」と控えめな様子で彼女が出した推測は場の空気をハッキリと変えた。


「――なんじゃない?」


 偶然だろうよと笑い飛ばせる空気はもうない。
 刑事たちはもうしばらくこの屋敷で捜査をすることを決めたようだった。
 俺と少しばかりの立ち話をして、それからもう夜も遅いのでと和やかに帰路に落ち着いてしまえば、およそありえないような出来事に振り回されたり、キリストの偉業の正しさを疑わずに済んだかもしれないというのに。
 ただパンのために奔走するにしても、この屋敷で起こっている穏やかでない行いを審問官の前に晒す仕事は重すぎる。
 しかし今俺が気に掛けるべきはキョウスケだ。
 キョウスケのトリックは素晴らしいものであっても、完璧と呼ぶことはできない。現に、わずかな違和感を拾われて真実に近づかれつつある。
 それでも実行へと移したのは、一連の人死にが事故や不運ではなく事件であることそのものには気づかれても問題なかったからだ。
 俺が最後のチョウイチロウを明確に他殺という形で殺すことで、事件であると気づかれても生き残りのハスキには一族の中に殺人犯がいたことを疑われない。
 理想通りに事が運んで事故や自殺ですべてが丸く収まりそうなら俺もチョウイチロウの殺害を事故死に装うつもりだった。
 これらは復讐劇という残酷な真実を一人残されるハスキに知らせたくないというキョウスケの面倒臭い願望だ。身内の強欲さによって両親を亡くした過去を持っているからこそだろう。


「なあ、今からでも証拠をすべて消そうか」


 指向性を絞った声でキョウスケに提案する。
 発見されてしまった証拠を念能力で失くしてしまえばただの幻に成り下がる。幸いそれは俺の得意分野だ。


「そんなことになったら刑事たちは路頭に迷ってしまうだろう……」


 一秒たりとも迷わずに返ってきた答えは否だった。
 もしかしたら俺は怪訝けげんな表情になっていたかもしれない。
 その気になれば数分とかからずに屋敷を落とせるのにこんなにも面倒臭い飯事ままごとが付き合っているのは、死を前にハスキを思いやるキョウスケの意志を尊重してきたからだ。それなのに今さらマトモな人間の真似事をされたら堪ったものじゃない。
 心臓という鍋でぐつぐつと血が煮える感覚に精一杯蓋をして、「そうか、ならいいんだ」とワタルを真似た人好きのする笑顔を貼り付けて会話を終えた。
 十分、二十分と経過し各々おのおのが暇を持て余して部屋を出ていくなか、立ち上がる気力も沸かずに背もたれに体を預ける。
 キョウスケの気配を追ってみても死体と化した様子はない。殺人を手段として選ばざるを得ない状況を経験してきた俺とて、『次はお前なんだから早く死ね』なんて言葉を掛けようとは思わない。
 生きている間くらいは生きるに越したことはない――それが俺の考えだ。
 今になって死にたくなくなってここでやめたいとキョウスケが仮に言い出しても、怒るどころか上機嫌で受け入れるだろう。
 椅子の前脚を浮かせて可笑しなバランスのままゆらゆらと揺れても面白いわけもなくて、しかしそんな怠惰に身を任せながら消化した時間は血を冷まし、そして名探偵を名乗るコゴロウの居住まいを傲慢なものに変えた。


「推理ショーの前に私が皆さんに一曲お聴かせしようと思っただけですよ……謎解きの前奏曲を景気づけにね……」


 再び集められたことへの困惑が整理できないままの一族たちに、コゴロウはストラディバリウスを要求する。


「蓮希さん、あなたの前で弾いたように……」


 余程その演奏が酷かったのか蓮希は首を縦に振らない。彼女だけでなく、誰の手にも渡したくないチョウイチロウや傷がつくことを恐れる執事によっても当然それは却下されたが、探偵には何か考えがあるのだろうと言うキョウスケの説得でストラディバリウスはコゴロウへと差し出された。
 しかしコゴロウは受け取る素振りを見せずに、タクトが止まったような空気が場に流れる。
 ――やられた。
 ひたりと息を呑む。探偵が沈黙した意味をようやく把握して、みぞおちの辺りに冷たい何かが溜まっていくような気がした。


「――やはりあなただったんですね、響輔さん。バイオリンをすり替えたのは……」


 コゴロウがバイオリンに触れていただなんて。いつだ? 落ち着け、少し考えればわかるだろ。
 俺がチョウイチロウに挨拶を済ませ、屋敷にやってきたコゴロウたちと出会った時、偽のストラディバリウスはまだ保管室に眠っていたはずだ。
 その後、コゴロウたちと別れてキョウスケとピアノに向き合っていた、火事直前の時間――そこに違いない。
 キョウスケが調律し、それを受け取ったハスキが音を確認して保管室に片付けたらしいのが昨日きのうのこと。今日それを見せてもらったコゴロウが触れ、別館が火事の最中に放置されていたのを執事が再び保管室に片付けた――それが表向きのストラディバリウス流れだ。
 だからストラディバリウスにはコゴロウの指紋がついていなくてはならない。
 もしストラディバリウスが昨日きのう時点でキョウスケあるいはハスキによってレプリカと入れ替えられていたなら、コゴロウが触れたのはレプリカであり本物にコゴロウの指紋がついているはずがない。だから今ここで触れてもらいたいのだ。
 次に今日執事やチョウイチロウ、そして俺がどさくさに紛れて入れ替えた場合だが、コゴロウが触れたのは本物であるため指紋が検出される。指紋が検出されるとキョウスケとハスキが容疑者から外れてしまうため、同じくコゴロウに触れてもらって指紋をたった今付着したことにしておきたい。
 理由こそ違えど誰もがストラディバリウスにコゴロウの指紋を付着させたかったわけだが、実際にはコゴロウが演奏することを三人は拒否し、俺はこれといった反応を見せず、キョウスケだけが頷いた。
 

「よくよくアンタに言っておくが――」


 ヨハネによる福音書第十二章二十四節の皮を被った話し出しでコゴロウに向き直る。うつむいた彼の表情は見えない。仕方なしにぐんと近寄って、その耳もとへ口を寄せた。


「そこまでわかっているなら、この後何が起こるのかもお見通しなんだろ? 暴いても死人は帰ってこないし、計画が終わることもない。真実によって悲しむ女が出るだけだ」


 今ならまだこの推理ショーなるナンセンスな会合をやめられる。
 なぜならすり替えは殺人の証拠にはなり得ない。せいぜい根拠の一つ程度だ。
 探偵という仕事が本当に謎解きの快楽を得るためのものでないのなら、不完全なトリックの残骸を証拠として提示するところまでいってしまう前に考え直してもらいたい。
 しかしまるで何も聞こえていないかのようにコゴロウからは何の反応もなく、彼は規則正しい呼吸で腹を膨らませるだけだった。
 いくら声を絞ったからとはいえ、耳打ちされた本人が聞こえないはずがない。『眠りのコゴロウ』という通り名を聞いてはいたが、目まで閉じて本当に寝ているような姿に痺れを切らして胸ぐらへと手を伸ばしかけると、不意にコートの裾を引かれた。
 足もとでメガネが俺を見上げている。


「えーと……おじさんに何て言ったの?」
「聞かせられることなら耳打ちなんてしねーって」
「そ、そうだよね……。でも、おじさんの推理の邪魔しちゃ駄目だよ? 大丈夫、きっと事件を解決してくれるから……」


 それが問題であるのだ。
 暴いたってキョウスケは自殺するし、チョウイチロウは余命が短い。なら、すべてを不幸で片付けて平穏な日常に戻らせてやるのは悪いことではないだろうに。


「しかし何でそれで彼が連続殺人犯なんだね? 絢音さんの部屋は密室だったし……。それに、火事になった弦三朗さんの部屋にも鍵が掛かっていたんだろ?」


 当然の質問をジュウゾウがコゴロウに投げる。俺には何も答えなかったくせに、彼は親切に一つ一つ潰していくような説明を重ねた。
 コゴロウとキョウスケが体当たりで破ったゲンザブロウの部屋の扉は、実は鍵がかかっていなかったこと。金具の変形具合から察するに、鍵が掛かっているフリをして扉を破り、炎に皆が目を奪われている隙にロックを掛け直したこと。
 アヤネが息子の分身のように大切にしていたストラディバリウスをレプリカにすり替えることで動揺を誘い、酷く混乱した彼女の前にバイオリンを吊り下げることで転落死を誘発させたこと。
 俺の忠告は一握ほどにも名探偵の心には届かなかったらしかった。


「……俺はあと何回落ちた奴を助ければいいんだか」


 落下誘発トリックの再現で犠牲役になったワタルの放り出された体を引き上げて、溜め息を吐く。
 浮遊感が余程恐ろしかったのか、脚に力が入らない様子のワタルを支えて椅子まで誘導すると、彼から乾いた笑い声が上がった。


「はは、アイヴィー君ありがとう……。にしてもよく一人で僕を上げられたね? ぶら下がった人間なんて子供でもすごく重いのに。しかも片腕で! 正直そんな風には見えなかったよ。ああでもそのおかげで助かったわけだけど……」


 危機が過ぎ去った直後だからか、いささか饒舌じょうぜつに思える。彼の心臓はまだ早鐘はやがねを打っているに違いない。


「ああ、ワタルが助かってよかったよ」


 背骨が溶けてしまったようにだらりと背もたれに体を預ける様子を見下ろしていると、後ろでヒステリックな高い声が上がった。


「響輔叔父様が殺人犯だなんて考えられないわ! だって叔父様は火事で逃げ遅れた絢音おばあ様を助けたじゃない!」


 空想の叙事詩『大審問官』を聞き終えたアレクセイアリョーシャの様子は今の彼女とまるきり同じであったのではないか、そんなことを考えながら嘆きを受け流す。
 それに答えたのは、彼女が慕うキョウスケ本人だった。


「――不協和音。隣り合った音が同時に奏でるとても耳障りな嫌な音……」


 それは自白だ。
 昼時の海のように落ち着いた声。しかしそれでいて今にも嵐が起こりそうな不穏な声。正反対のようで危ういバランスの上に成り立ったその言葉は、体からコニャックが抜けるように部屋の温度を低くした。
 誰もが心臓がみぞおちまで落ちていくような、そんな鮮烈な恐怖や不快感、あるいは怒りに襲われているに違いない。


「ま、まさか絢音さんを火事場から助けたのは、Gの弦三朗さんとAの絢音さんが同時に死ぬのが嫌で……」
「ああ……」
「貴様、人の命を何だと……!」
「その言葉、調一朗伯父さんにも言ってくれよ。……三十年前に父に重傷を負わせて殺し、その看病で母までも殺したあのジイさんにな!」


 ゴホ、ゴホ、とチョウイチロウの耳障りな咳が酷くなる。眼球は床に向き、痙攣するように時折左右に彷徨さまよっている。精神的に追い詰められているのが容易に見てとれた。
 キョウスケの口から語られたのは、カフェで聞いたものと同じものだった。
 顔や声こそ穏やかだが、胸中の炎を燃やし尽くすその気分は決して気持ちのよいものではないはずだ。
 毒をすっかり吐き終えて窓辺に立つキョウスケと視線がぶつかる。影の落ちた瞳は、しかし上手に悲痛を隠している。
 はなむけに、胸に手を添えたうやうやしい礼をすると顔を上げた時には窓枠は夜空だけを囲っていた。
 吹き入ってくる夜風を肺に取り込んで、口端くちはを歪める。
 しかし何が起こったのか、いくら耳を澄ませど待っている音は聞こえなかった。身体が叩きつけられる音、骨が砕ける音、内臓が破裂する音――それらの代わりに聞こえたのは、何か柔らかい物から空気が抜けたような響かない音だ。
 窓から見下ろすと、消防マットの上で呆然と仰向けになっているキョウスケの姿があった。
 ……どこまで邪魔をすれば気が済むんだ。


「小五郎おじさんに言われて、ボクが消防士さんに頼んだんだ! 響輔さんが自殺するかもしれないからってね!」


 抜かせ。どうせお前だろうに。
 自白を聞いている間、何も考えていなかったわけじゃない。
 コゴロウが俺の言葉に反応を示さなかったのは、おそらく本当に眠っていたからだ。方法の特定までには至らなかったが、メガネがコゴロウを眠らせてその声を借りていたのだろう。
 しかしコゴロウだけに耳打ちした言葉をメガネは聞き取れなかった。だからメガネは俺に内容を訊き、俺が答えなかったから会話が成り立たなかったというわけだ。
 あれだけ先導していたメガネの姿が推理ショーではろくに見えなかったことも、俺の非現実的な推測を支えている。


「なあ、キョウスケにはどんな刑罰が下る?」
「……わからないよ」
「こっちを向いてくれ」
「…………」
「コナン」


 この子供の行いを責めるつもりはない。
 たとえ正しく殺されるために今は救ったのだとしても、誰かがキョウスケを殺さなければならないことを知っていながら自己満足のために救ったのだとしても、だ。
 眼前の小さな無垢が『自分のために死ぬのと罪を償うために死ぬのは別物だ』なんてとち狂った逃避を言ったとしても、それを嘲笑してはいけない。
 事件を解明し犯人の自殺を食い止めた行為自体は法のもとで確かな正義であり、俺たちが悪であるのだから!
 さて、偉大な悪魔は言ったらしい。
 ――「石をパンに変えろ。そうしたら人々はパンのために従順になるだろう」
 しかしキリストはそれを退けた。
 ――「人はパンのみにて生きるにあらず」
 キリストは人間から自由を奪いたくなかった。パンを買うための服従に自由などない。
 しかしゴミ溜めの幼子でも知っている。人間はもとより食べなければ生きてはいけない不自由な生き物なのだ。たった一つのパンのために争うし、得られないならひざまずいて大勢が奴隷になる。同様に、石をパンに変えるような奇跡や導いてくれる権威だって必要だ。
 人間はキリストが思うほど自由という紐無しの空中遊泳に耐えられる強い存在ではない。
 今日こんにち、キリストが荒野で悪魔を退けたことは素晴らしい美談として語られているが、かの大審問官の仰る通りそれが本当に正しい行いであったかはどんな哲学者にも答えを出せない。
 すべてへの愛を謳うキリストを信仰しているはずの大審問官が異端者や反逆者を火炙りにするという矛盾が生まれたように、法を除けば俺たちのどちらが可笑しな行いをしているのか、わかったものじゃない。
 しかし、俺には深淵を覗いておいて深淵を見ていないふりをする姿勢が気に入らないのだ。
 メガネの正義を汚すつもりはない。どんな答えでもよかった。
 本当にどんな刑罰かはわからなくても目を見て同じように言ってくれるのなら、キリストが大審問官にしたようなキスでこの問答を終わらせられただろう。


「ごめんなさい、逃げた。限りなく死刑に近いと思うよ」
「ああ、ありがとな」


 メガネの頭を撫でた手の薄っぺらい手袋を外して、コートの裏側で振動していた端末を取り出す。届いたメッセージに返答を済ませて手袋を着け直すと、「“まっかなおおまさかり”は持っていなかったみたいだね」とよくわからないことを言われた。


「答えたお前に敬意を払って一つ教えよう」
「なあに?」


 大きな瞳には期待の色がぷかぷかと浮かんでいる。
 先ほどコゴロウにしたように耳もとに口を寄せると、メガネはくすぐったそうに小さな身をよじったが、低い声で囁いた言葉を聞くや否や俺を押し退けてパトカーが待つ外へと駆け出していった。

(P.51)


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