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side:Conan Edogawa


 蘭の呼びかけにより、ジャック・ザ・リッパーに関するホームズの資料を手分けして探すことになった。ソファでくつろいでいる奴らもいるが。
 まあいいかと、苛立ちが起こる前に諦めで感情を覆いつつファイルを棚から引き抜く。
 手が届かない上段のものはアイヴィーさんが見てくれているみたいだ。その気遣いに気づいているのはきっとオレだけだろうと、ひっそり得意然とした。
 正直出会いは最悪だった。
 ぴったりとした革の手袋を血で光らせた黒づくめの男――好印象を持てるはずもない。
 ただの外見情報ではあるが、たったそれだけでも警戒し嫌悪する理由は十分だ。否、十分のはず
 ――どーにも催眠術にでも掛けられているような気がすんだよな……。
 はたして本人に自覚はあるのか。
 常に薄く浮かんだ笑みは柔らかく、周囲に警戒心を保つことを決して赦してはくれない。とても怪しい気がするのにこの人以上に信頼への理由がいらない人はいないとも思う。
 気を抜けばきっと全てを委ねたくなってしまうだろう。
 肌から立つ香りと瞳を溶かすようにわずかに細められた目、安寧を約束してくれそうな角のない声がそれを煽って止まないのだ。
 この時代によく見られた阿片アヘンくつの中はきっとこのような心地だったに違いない。


「……はは、なるほどなぁ」


 ほら、この声だ。
 足首から奇妙な安堵あんどがぞくりと這い上がってくる。
 見上げた先には独りの苦笑があった。「どうしたの?」むしが花蜜を求めるように、話し掛けずにはいられない。
 アイヴィーさんはもう何度目かのひざをついた後、腕に抱えているファイルをオレに見せた。


「何これ……」


 見せられたページはとても読めるものではなかった。
 手当たり次第の翻訳を永遠に繰り返すスクラップブックはアイヴィーさんがどこの国の人でもないと言っているようだ。
 毛虫のようにうごめく文字の成り損ないがぞわぞわと不快感を与えてくる。それをレザーの指先でさらりと撫でて「安心しろよ、ただの洋墨インクだ」……見透かされた。


「あったわ! これじゃない?」


 顔に熱が集まるのを感じていると、不意に蘭が声を上げた。目当ての資料が見つかったらしい。テーブルに置かれたそれを見てもエラーは起きていなかった。


「一番最近起きた事件は……九月八日。二人目の犠牲者はハニー・チャールストン。一人暮らしの四十一歳の女性。遺体発見場所はホワイトチャペル地区セント・マリー教会に隣接する空き地。殺害現場の遺留品は、二つのサイズの違う指輪。ロンドンを恐怖のどん底に突き落としたジャック・ザ・リッパーは、前代未聞の社会不安を引き起こした点から、悪の総本山モリアーティ教授に繋がっていると私は確信している――」


 アイヴィーさんは日本語の資料を読めないだろうと踏んで、書いてあることをそっくりそのまま読み上げる。


「表意……いや表音も混じってるのか……?」


 ぽつりと呟かれた一人言。文字そのものが興味を引いたらしかった。
 アイヴィーさんの本に書かれていた文字を見るに、表音文字――平仮名やアルファベット、ハングルなどの、一つの文字で音を表したもの――が母語だろう。たしかに日本語は表意文字――漢字や象形文字などの、意味を形にしたもの――がミックスされた珍しい言語だから気になるのも頷ける。
 平仮名、片仮名、漢字が混合したこの資料はアイヴィーさんの目にはかなり異質な言語として見えているに違いない。そう思ってちらりと見上げると、前髪に隠された右目が鋭さを帯びていたことに驚嘆した。
 皆に見せるすべてが柔らかい人間だと思っていたが、それはやはりの顔であったのだ。
 真剣な眼差しが文字を穿うがつ。
 象形文字なら一目でもわかりやすいかもしれないが、漢字が表意文字だということに気づいたのであれば言語そのものに慣れていると考えるのが妥当だろう。扱えるのは二か国語か、はたまたそれ以上か――


「アイヴィーお兄さんの母語ってなあに?」


 少なくとも日本語はかなりのネイティブだ。なまりもない。
 母語がわかれば出身国もわかると踏んで訊いたそれだったがアイヴィーさんの口から出てきたのは全く耳馴染みのない言葉だった。
 音として拾うので精一杯だ。復唱などできるはずもない。
 訊き返してもアイヴィーさんはオレにわからせてくれる気などないようだった。諦めて、れていた思考を目の前の事件に矯正する。
 モリアーティ教授がかなりの危険人物とはいえ次の展開に進むためにもコンタクトを取る必要がある。腹心の部下であるセバスチャン・モラン大佐が根城にしているダウンタウンのトランプクラブへ向かうのがいいだろう。
 アイヴィーさんは口出しする様子もなく輪の一歩外で静かに立っているだけだ。


「うっひょー! 本物の銃だぜ!」


 興奮混じりの発言に一気に血の気が引く。
 声の方向を向くと元太が回転式拳銃を手にしていた。目の前の引き出しが開いている。そこから取り出したのだろうと推測がつくのと同時にオレの喉は「戻すんだ元太!」と怒鳴り声を上げていた。
 橋の崩壊で落下した菊川清一郎を助けようとしたことを叱られたが、あの時のアイヴィーさんはこんな気持ちだったのかもしれない。
 百まで納得していたわけではなかったが、偽りなく安全の確保を考えてくれていたのだとようやくわかったことで親近感が芽生えた。


「で、でもよ……おっかない奴に会いに行くんだろ?」
「使い慣れていない武器は役に立たないし争いの元だ。置いていけ!」
「え、お、お前のほうがおっかねえな……」


 元太が銃を引き出しに戻したのを確認して安堵あんどの息をつく。


「ま、ただ会いに行くだけだ。何もしなければ何もされない。気楽にいこうぜー」


 ゆるゆると気が抜けることを言うアイヴィーさんだが、本人が一番気楽にいっていないことは橋での出来事でよくわかっている。
 しかしやはり催眠術のようにその声は人を落ち着かせるのだ。
 血生臭さと平和が同居している不思議なシルエットを持っている。しかしそこに輪郭はない。水溶性の人間だ。


「アイヴィーお兄さん? 行くよ?」


 下宿から発とうとしても、どうしてかアイヴィーさんは足を動かさない。「先に行っててくれ」と微笑むだけだ。
 扉が閉まりきるまで、アイヴィーさんがそれを絶やすことはなかった。

(P.18)


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