act.4 知らない人々
凡人


 川沿いの道を自転車で行く。分流の下流は小さな公園で、川はそこでT川に合流する。公園より少し上流の西S駅から橋を渡った対岸はF市、T川の河口は東京湾の空港。分流の対岸には古い病院があって、精神科の入院病棟らしい。こちら岸に立つ中学にはかつて部活の試合でお世話になった。ただ、僕にはもう関係ない。
 僕の目的地は公園の傍に立つ一軒の家屋だった。そこは古びた真四角の二階建てコンクリート造りで、人家というより診療所に似た殺風景さがある。庭は、庭とも空き地ともつかない荒れようで、たぶん明確な境界はない。あたりに他の人家はない。蔓植物が壁を這って野生のままの枝葉が茂り、傍から見れば廃屋同然だが、ちゃんと人が住んでいる。
 堤防を下って自転車を止め、目的の家の前に立つ。一度深呼吸してベルを鳴らした。長い付き合いにも関わらず、今でもどこか疾しい緊張感に駆られる。チャイムの余韻の消えぬうちに僕を出迎えたのは黒服のロングスカートのメイド、ではなく、全身黒で“正装”した私服の荻原である。
「十五分遅刻」と言ってニヤリとした、目元は化粧で黒々と色どられている。

「そういうあたしも十分の遅刻なんだけどね」

 招待されるまでもなく僕は家に上がりこむ。

「お邪魔します」

 声は薄暗い廊下に消えていった。返事はあってもなくても変わらない。

 一階は居間と板敷の食堂で、居間から差し込む外光はブラインドで遮断され、室内はいつも暗くひっそりしている。居間の籐椅子がその人の定位置で、僕は軽く会釈した。
 薄い顔立ちの初老の男、痩せて小柄だが、眼光の鋭さにどきりとする。というのもその人はいつでも暗色のスモークレンズのサングラスを掛けていて、レンズ越しのまなざしはかなりハードボイルドである。グレーの髪は短く刈り込んでいて特別なこだわりは無さそうに見える。着古して色あせたジャケットを今でも着ている。妻子がいるのか僕らは知らない。
 湊荘一という名前も直接教えられた訳ではなかった。初めてこの家に上がり込んだ時、本棚や机上にやたら著作が転がっていて、非常にぞんざいな扱いだったから目に付いた。

「誰?」

 背表紙の名前を見て僕か荻原かが尋ねた。どちらの思い出か忘れてしまった。
 おれだよ、か、ぼくだ、とか、わたしだ、とか、とにかく自分を指し示す答えがあり、僕は、そんなもんか、と妙に納得した覚えがある。僕達は「湊」という字を知らなかった。そこで「ミナト」と教えて貰い、僕達はミナトさんと呼び始めた。だから湊荘一(みなとそういち)が実名なのかペンネームか未だに知らない。
 ちなみに僕の名はペンネームだろと訝しがられた。もちろん本名だ。
「八月一日夏生(ほずみなつお)」
 字に書いてミナトさんに見せたのを覚えている。

 薄暗い台所で緑茶を入れる荻原を僕は何となく眺めていた。僕らの三つの湯呑みのほかに食卓の上にもう一つ置きっぱなしになっていたから、片づけようと手を伸ばすと、ミナトさんはそれを制した。荻原はミナトさんには湯呑みを手渡ししたが、僕には勝手に取るように言った。お茶を飲んでとりあえず一息ついた。戸棚の菓子を適当につまんでいいと言うから、おかきを開けて居間に持ってきた。四人掛けの客人用ソファ、長椅子一つと肘掛椅子二つに僕と荻原は向かいあって座る。ミナトさんの籐椅子はソファからはなれて窓際にある。外を見ている訳でもない。僕らがいない時はここで一日過ごしているのだろう。

「そんで、今日は何すればいいん」荻原に尋ねると、
「もう終わったよ」と、しれっと言う。「あたしが来た時には掃除も買い物も終わってたんだよね」
「え? じゃあ今日は」
「休日ってとこだね」

 黒塗りのネイルで菓子をつまむ。荻原には特別なことではない。この黒が、荻原にとっての正装であり、ここへ来る時は必ずこうだった。
 来たはいいものの休日とは。拍子抜けし「何か、やることないんですか」と呟くと、椅子からぽつりと「説教」と返ってきた。荻原が笑う。「はあ?」
 来いとミナトさんが言うから、僕はソファをはなれ籐椅子の傍に立つ。サングラスで瞳は見えず、表情はいつも固い。もう少し恰幅が良ければヤの付く人に見えなくもないと思い、何か怖い人とつるんでいるのだと改めて思う。正直言ってミナトさんは怖かった。愛想というものが一切ない。
 ミナトさんは口数も少なく殆ど寡黙と言っても良かった。口を開きかけて、止めて、長い溜息をつくと、身振りで僕に手を出すように指示した。ミナトさんは乾いて節ばった手で僕の差し出した右手に触れた。僕の手を包んで僕の実在を確かめる手つきだった。盲人のように。調子の波が目立つな、と僕は目を伏せた。自分の手はやわで若いのだと知る。

「オレだよ、ミナトさん」
「ホズミか」

 自分で呼んだ癖に。しばらくそのまま立っていると、だんだん、発作が引いていくのが分かる。あわてなくてもいい。やがてサングラスの向こう側が正しい視野を取り戻す。

「暫く振りだ」、どうして今まで来なかったんだ。

 発せられない言葉を読みとって答える。「バイトで色々あって」
 面倒臭がったのは事実だった。この家は交通の便が悪すぎた。隠居したくて移り住んだのかもともとここで暮らしていたのか、詳しい事は聞いていないが、ともあれ特別に招かれた客人しか来ないような立地である。
 ミナトさんは手を離し、沈黙する。多分こう言っている。もっと来なさい。僕は頷いて見せたけど、なぜ頷いたのか自分でもあいまいだった。もしかしてミナトさんは僕らが思っているよりずっと年を取ったのかも知れない。
 かつて初めて出会った頃、僕と荻原は小学生で、ミナトさんはもっと言葉を発した。寡黙になったのが病のせいか年のせいか、知らないけれど、どちらかだと思う。彼は発作的に目が眩み、視野を失う生活をしていた。眩しさが苦手だから部屋はいつでも薄暗くサングラスは欠かせない。翻訳と執筆で暮らしていたが、病に伴ってか伴わずか、僕らが出会った時には既に筆を折っていた。元文筆家、現世捨て人。湊荘一。ミナトさん。


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