ふらりとミナトさんは立ちあがった。「どこ行くんですか」、訊くと上を指さした。二階は寝室と書斎である。階段を付き添う為に僕も向かい、荻原も同行した。書斎の机の上に七冊ばかりの本が詰まれている。上から二冊を荻原に、残り五冊を僕に渡した。全て文庫本とはいえ五冊あるとかなりかさばる。どれも古びていて黄ばんでいる。自分より年を取った物体、そう思うと奇妙な感覚がある。
 背表紙をちらと見ると、三冊は知らない古い海外作家で、残り二冊は湊荘一と記されていた。僕は少し驚いた。今まで著作そのものを読ませてくれたことは無かったのだ。どういう風の吹きまわしだろう。そうやってぼんやりしていたらもう一冊乗せられた。『変身』
「……いや持ってますって」
 ともあれこれを読めということなので、僕らは素直に頷いた。読まなければならない。僕らは彼に師事している。
 正式に言葉を交わして師弟の関係を結んだ訳ではない。ただ、時折教えを受けに来ている。時にはミナトさんから呼びつけられ、買い物や部屋の片付けを手伝う。授業より手伝いの方が比率は多いのだが、今更不服でもなかった。不便な視野の持ち主だから僕達がいて助かっている、と思いたい。
 本棚はいつもより整っていた。いつもなら棚に水平に積まれていたり上下逆さまだったりとにかく無造作に溢れかえっているのだが、今日は全ての本の向きが揃い、著者名順に整列していた。机の上に散らかった原稿用紙も今日はタイトル別に束ねられている。珍しいことだ。ミナトさんは片付けられない。視力以前に整頓がド下手だ。
「ミナトさん、本当に今日、何もないんですか?」
 部屋を出るミナトさんは何も言わないから、本当に何もないようだ。無駄足だったかなあと思ったが、顔だし出来ただけでも良かったのかも知れない。荻原と居間へ降りる。
 新しくお茶をついで食べかけの菓子をつまんだ。ミナトさんは籐椅子を動かないし、荻原は読書をはじめて黙り込んだ。僕はメールの返信を考える。昨日の返事を書きたくて受信メールを読み返した。ふと顔を上げる。向かいに座る荻原を見る。その姿はさまになっている。
 本当にさまになっている。レトロな肘掛椅子に座って古い書物のページを開く全身黒の洋装の女子は嫌になるほど完璧だった。黒い爪も目元の化粧も完璧に作りこんでいる。他人から見て似合う似合わないではなく、荻原自身が荻原を確立している。我がある。自分が求める自分のありかたを実現しているんだと思う。やり遂げられる人間はけして多くないだろう。それを完遂した荻原は非凡だ。非凡な荻原が羨ましかった。ミナトさんもそうだ。老いや日差しよけのサングラスが振る舞いにひどく似合っている。当人からすれば不本意だとは分かっているが、何も持たない者からすれば欠如や異常はそれだけで一つの魅力だった。
 全く、自分は凡人だ。
 このところ繰り返している内省をぶり返し、僕はひそかにため息ついた。
 何かを成す為には自分はあまりに凡人なのではないか。最近思考の隅にそんな考えが居座っていた。僕は何も持ち合わせていない。何かをしたいのに何をしたいのかも分からず、その上何かをするだけの力が無いのではないか。自分は規範通りのありふれた人間で、代用品はいくらでもいる、つまらない人間なのではないか。不安や焦燥感や怒りが行動も出来ず漫然とくすぶっていてどうしようもなかった。けれどもそういう苦さを無視したら、自分は本当に意見のない無個性のモブに落ちぶれるだろう。そんな凡人に甘んじたくない癖に、強固な信念を持って行動することも出来そうになかった。どちらに立っても中途半端で歯がゆいのにこれをどこにぶつけていいのか分からない。思考も行動も膠着し、僕自身、まだ上手く言葉にすることが出来ないでいた。
 まだ落ちぶれずに済んでいるのはミナトさんのおかげで、世界とのつながりを断ったこの隠れ家の中でなら、僕はただひとりの人間として確立出来た。ミナトさんが思考の機会を与える。なのに僕自身は師の教えに相当しないように思えてならない。そして完璧な荻原を妬んでいることに気付き、ますますため息づいてしまう。
 無力でありながらなお何かに立ち向かうにはどうしたらいいのだろう。
 能力も信念も無いのであれば目を凝らさなければ何も見つけられないだろう。何も体現出来ないのなら、頭の中で研ぎ澄ましていくしかない。このままではあの人に届かない。僕はもっと鋭くならなければいけない。そう分かってはいるのだけれど。


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