『くらげかわいい』と思います。そう伝えます。彼もそれを読み上げます。
「くらげはかわいい」
 くらげをかわいいと思うこともかわいいと思います。くらげが怖いことも知っています。致死毒を持つと知りながらも、くらげが好きです。教えてくれたのはあなたの本です。持ち主に本を返します。『ありがとう』とわたしは言います。ありがとうと彼も言います。ありがとうは、伝わります。

 でもこの本は、きっかけにはなるけれど、
「この図鑑では足りませんね」
 そう、たしかにくらげのページが物足りないのです。

 彼はまた思索したふうで、そびえる本棚に目を向けると何かを探しはじめました。どうやらここにはないみたいで、彼は「ちょっと、待っていて下さい」と、おそらくは自室に向かいました。ここで待っているのも変な気分だったのでわたしはまたカウチに戻ります。ことばを見せるのに、向かい合わせに座るよりも隣同士の方が便利だからです。それにカウチはとても居心地がいいのです。

 持ってきたのは図鑑よりももっと薄くて小さな本でした。カウチに座った彼にわたしは近づきます。隣同士です。わたしはまだスカシカシパンを持っています。

「要りますか」

 不意に彼は尋ねました。わたしはびっくりして首を振りました。だめです。だってこれは帆来くんが拾った帆来くんのもので、わたしが貰っていいものではありません。わたしより帆来くんの方がものを大切にするひとです。だからわたしは受け取れません。
『でもすき』です。うれしいです。気持ちだけとても大切に受け取ります。
 『水の生物』の上にカシパンを乗せました。台座のようです。かわいいです。

 彼の持ってきた本を見ます。青い背景に赤いくらげが尾を引いている表紙です。それはくらげだけの写真集でした。彼と一緒にページをめくります。

 水は青黒く、からだは無重力に浮かんでいます。青白いもの、赤いもの、黄色みのもの、紫色、水玉模様、しま模様。岸辺の浅瀬に棲むもの、外洋の深海に棲むもの、水面を漂って暮らすもの、一生岩や海藻にくっついて暮らすもの。顔もなく前後もない姿で、波にまかせるままに生きています。わたしにはそれがとても自由な存在に見えました。

 ゆっくり、静かなペースでページをめくります。雨の音が聴こえます。
『何がいちばん?』
と、もう一度訊いてみました。彼はページをめくり探し、最初の方に戻ると、一つの写真を指さしました。

「……ミズクラゲです」

 透明で、足は短くて大きくも小さくもなく、特別に特徴のないくらげらしいくらげでした。かさにはうすく花の模様がありました。四枚の花弁のようで、四葉のクローバーに似ています。
『シンプル』だと思いました。
「そうですね」と彼も言います。「だから一番好きです」

 ミズクラゲはあまり毒がないようです。ゼリー状の体がひんやりと心地よさそうです。傘の外側をつまんで『持ってみたい』と思いました。それを見て彼が教えてくれます。

「たまに浜に打ち上げられています」
『ほんと?』
「一度だけ見ました」
『もった?』

 彼は首を振りました。

「でも、突つきました」

 そう言ったのがなんだかおかしくて、声には出せないけれど、私は笑います。とても笑ってしまいます。悪く笑っているのではありません。なぜだか、とてもうれしいからです。
 当の本人は笑いも怒りもしません。表情はゆるみません。ただ背もたれに身体をあずけ、ふっと息を吐きました。彼にならってわたしもソファに深くかけます。

『おかしいね』
 わたしは笑いかけます。
「おかしいですね」
 彼も答えます。
 そっか、つついてしまったのか。
『つつきたい』
「面白かったです。乾くと、少し縮んでしまいます」

 ほほえむだとか、表情に変わりはなく、ぼんやり天井を見上げて言います。

 わたしはソファを立って彼の目を覗き込みました。何を見ているのか知りたかったのです。彼は少し驚いたようにわたしを見ます。目と目が合います。
「どうか、しましたか」
 わたしを見上げたままの彼に、わたしはいいえと首を振ります。
 わたしの影が彼にかからないようにしながら、彼の目を注意深く見つめました。わたしが堪えられないと感じた目です。わたしが負い目を感じた目です。真っ暗闇に見えた目です。

 その目の中に、黒目の中に、わたしは瞳孔と虹彩を見いだしました。褐色の虹彩を発見しました。虹彩に走る筋も見えました。すべてがガラス球の向こう側のように遠くに見えます。

 わたしはことばを書いて彼に贈ります。

『目がきれいです』

 彼は呆然としてわたしを見て、
「……普通ですよ」
 じゃあ、『ふつうにきれい』です。
「ほめているんですか」
『ほめています』

 わたしは笑いかけることしかできません。彼はまた吐息でした。そうして口をつぐみます。でも不快なわけではなさそうで、痛みのない沈黙にわたしは安心します。まだ当分の間重い身体のわたしは彼の肩によりかかります。彼はわたしを少しだけ見、なにも言いません。許してくれます。やさしいひとに甘えてしまいます。

 わたしはペンをとります。打ち明けようか迷いながら。

『こわい夢をみました』

 彼は小さく頷きました。夢の中のあなたを思い出します。ああいう夢を見るわたしがいけないのです。

 ……わたしは、ときどき、あなたのことがわからなくなってしまいます。ときどき黙ってしまうあなたが、気を悪くしてるんじゃないかって、わたしはとても邪魔なんじゃないかって、こわかったのです。だからそういう夢を見てしまうんです。
 今、ここにいるあなたは、変わらずしずかな声でわたしを心配してくれます。

「大丈夫ですか」
 だからわたしはちいさく頷きます。
(もう、大丈夫です)

 しばらくずっと彼にもたれかかりました。そうして静かにしていました。開けっぱなしのカーテンと、ガラスに反射するわたしたちの向こうに、黄色く陰った雲が広がっています。冷たそうな空です。雨は強さを増し、いつまでも降り続けていそうです。
 このままずっと雨で、あした目が覚めたらいちめんの海になっていればいいのにと思います。公園が砂浜になって、そこにくらげがやってきたらなあと、願います。


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