温度と光と物音に目が覚めました。カウチに横たわったままぼんやりとしていましたが、そのときはじめて毛布の中にいることに気がつきました。ずいぶんと長く眠っていたのかもしれません。開けっぱなしのカーテンの、外は暗く室内は明るいです。コンタクトが目に貼り付いて不快でした。身体を起こして目薬を挿します。あふれた滴がほおを伝いました。わたしはまだ図鑑を手にしていました。

 ごとり、という陶器の皿を置く音がして、目を向けると彼がいました。二人分のスプーンを置いた彼は目覚めたわたしに気がつきました。

「おはようございます」

 わたしはただ頷きました。何か言おうともしましたが、何と言っていいのか分からなくなりました。それに帆来くんには文字しか伝わりません。

「寒くなかったですか」

 わたしは首を振りました。毛布の熱は名残惜しくありましたが、それをたたんですみに寄せて、その上に図鑑をのせました。わたしたちは向かい合ってダイニングの席に座りました。彼は温かいお茶を注ぎました。わたしのマグは水色と白の水玉模様で、彼のは白地に群青色が塗り分けられています。ちなみにザムザさんのは細い金のラインが入った白色です(ずっと使っていなかった貰い物のカップだそうです)。皿は水色と紺色と灰色のおそろいで魚の模様です。今は灰色を使いません。今日はオムライスでした。
 彼の料理は滅多にないので、わたしは皿の上のオムライスを少しものめずらしく見ていました。何の変わりのないケチャップライスに、ふわふわにはほど遠い、中央が大きくやぶけてしまった薄焼きたまごが乗っています。彼の皿も同様です。彼は手を付けず、わたしを少し窺うふうです。

「食べられますか」
「無理に食べる必要はありません」

 寝起きのわたしを気遣ってくれたのでしょう。ですが確かに空腹だったので、ことばの替わりに少し笑ってケチャップを取ります。そして彼のオムライスに笑顔を描きました。

  :)

 そして自分の皿にも同じものを描きました。
 彼はぺこりと頭を下げました。きっととても真面目なんだと思います。好意が伝わればいいなあと思います。
 わたしは手を合わせました。彼も手を合わせます。いただきますを言いました。

 ケチャップは少ししょっぱかったのですが、ご飯はあたたかく十分でした。わたしは時々彼の食べる様を盗み見ます。黙々とたんたんとスプーンをはこびます。食事中は基本的に無言です。そう習ったと前に帆来くんが言いました。時に厳格な家庭だったとも言いました。すこし、うらやましかったです。あたたかいお茶を飲みながらわたしたちはとてもしずかでした。食べ終えたわたしたちは再び手を合わせます。ごちそうさま。

 わたしは伝わるように努めて『お、い、し、い』と語りました。
『お、い、し、い』
きっと伝わったのか、彼は神妙に一礼しました。わたしも深々とおじぎしました。
「ありがとうございます」――『ありがとうございます』

 二杯目のお茶を飲みながらわたしたちは向かい合っています。彼はカップに目を落としています。前にもこういう夢を見た気がします。わたしはソファに移りました。彼を呼んで隣に座りました。わたしは『水の生物』を手渡しました。彼は、それをふしぎに見つめていました。

「どこにありましたか」
 わたしは書斎を指さしました。
「無くしたと思っていました」

 わたしはノートに、あなたのものかと尋ねました。ノートももうかなりのページを使いました。二冊目が近いです。次は大きい大学ノートかスケッチブックにしようと思います。

「僕が幼い頃に読んだ本です。小学校に入学して、一人部屋を与えられた時に、父に貰いました」

 彼は考えながらすこしずつことばをつむぎます。だからことばが丁寧なんだとも思います。

『大切』にしてたものですか?

「毎晩読んでいたように思います」

 そう言いながら、ぱらり、ぱらりとページをめくります。

「何をしたという思い出はありません。けれどもこの図鑑の中の出来事は、幼い僕には未知の領域で、読書はとても楽しかった」

 はじめて読んだわたしもおなじ感想です。わたしはウニのページでスカシカシパンを指さしました。花のように五つの穴があいた、まん丸でトゲのないウニです。あんぱんのような形です。わたしは好きです。そう伝えると、彼は首をかしげて思案し、席を立ちました。わたしもついてゆきます。

 書斎のドアを開けて、電気をつけて、彼はキャビネットのひきだしを開けていきます。そのうち一つを外してしまって床に置きました。箱によっていくつかに仕切られたなかに、白や水色のガラス片や貝殻が入っています。それらにまざって白くまるいものがありました。彼はそれを手渡しました。図鑑で見たとおりのスカシカシパンでした。

「前に拾った実物です」

 真っ白いそれは(死んだ後の殻だそうです)片手におさまる大きさでした。本当の花の模様も五つの穴もしっかりありました。本物です。それを拾うなんてすごいと思います。わたしはただ感嘆していました。

 帆来くんの肩をたたいて呼びかけました。
『生きものがすき?』
 わたしの文を見て、引き出しに目を伏せて、彼は分からないと言いました。

「嫌いでは、ないと思います」

 彼は自信がなさそうに言います。
 けれども、『きっとすき』だと思います。だってその殻も『すきじゃなきゃ拾わない』です。貝殻だとかグラスとか『いろんなものがある』のは、『好き』だからですよね?

 わたしはあなたのことをもっと知りたいです。

 ふたりっきりの沈黙ののち、やがて彼はぽつりと言いました。

「海が、好きでした」

 海?

「だから生き物のことも知りたかったんです」

 わたしははじめて彼の好きを知りました。
 そしてふたりきりでゆっくり話すのも、これがはじめてだと思います。

『何がいちばん』ですか?
 彼はしずかにていねいに語ります。
「何であっても嫌いではありません。魚も好きです。くじらも貝も好きです」
 ことばを探して、真黒の目が揺れ動きました。
「でも、多分、くらげが好きです」

 くらげ。
 わたしもくらげが好きです。この本を読んでくらげが好きになりました。わたしはあなたと同じものを好きになりました。だからわたしはとてもうれしいです。

 帆来くんはくらげが好きです。

次頁へつづく


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